125 あなたの酸素が欲しい,君の酸素が欲しい
「冬君」
「ふー?」
「ふー君?」
三者三様の声。雪姫は耳元で、俺の名前を囁く。そっと髪を撫でながら。麻痺しそうで、溶けそうで。でも視界に飛び込むカメラを見て、慌てて体を起こそうとして――なぜか、頭が動かない。
さらっ。
ただ、髪を撫でられているだけなのに。
――だいじょうぶ。
雪姫が囁く。
何が? そう思うのに、脳の片隅がマヒしたかのような感覚に溺れてしまう。
「いきなり起きたら眩暈がしちゃうよ? 今日はそうでなくても無理しているんだから」
「無理は雪姫だって――」
「冬君が居るから、全然ムリじゃないけど?」
にっこり笑ってそんなことを言うから、この子は本当にズルい。取り繕っていた表情なんか。あっという間に溶かしてしまう。
「ふー、そのシマらない顔をなんとかして。見ているだけで、腹がたつから」
朱音に言われてはっと我に返る。しかし膝枕されてキリッした顔じゃ、なおシマらない。寝返りを打とうとしたら、雪姫にやっぱり止められた。
「左肩を下にしたらダメだよ?」
ごもっとも。反論の「は」の字もない。せめてもの抵抗と少しだけ体をよじって、雪姫の膝に顔を埋めて、カメラから視線を逸らす。その瞬間、制服のスカートが少し捲れ、雪姫の太腿に唇が触れる。
「やっ、んっ。ふ、冬君。わ、わ、悪い子だよ。んっ……そこ、息吹きかけたら、い、イヤ――す、吸うのはもっとダメだって、冬君……やっ――」
「ちょっと、ふー?!」
そんなことを言われても、生物の生存に呼吸は必要不可欠で。それにそう言いながら、雪姫が俺の頭を離さないのだから、矛盾していると思う。
「冬君、そういうことはお家に帰ってから。ね?」
熱のこもった吐息で囁かれたら、こっちの頭がクラクラしてしまう。
「冬。今はCM流しているから休憩中だけどね。全国放送のラジオの特番ってこと忘れないでね」
「聞こえない、聞こえないー!」
なんの罰ゲームだよ。
「冬発案の【COLORSの学校へ行こうぜ】だよ。まさか、こういう形で共演を果たすとは思わなかったけどね」
「本当になっ!」
「冬……膝枕されながら反論されても、全然説得力ないからね?」
蒼司、いちいち現実に引き戻さないで。
「じゃ、改めて自己紹介をしておこうか。えっと、ゆっきちゃん、よろしくね。知っていると思うけれど、COLORSの蒼司です」
「下河雪姫です」
雪姫がペコリと頭を下げた。その瞬間、少しだけ呼吸が浅くなるのを、俺は聞き逃さなかった。だからそっと、手を握る。
俺と雪姫の目が合って、その視線が絡む。ふんわりと、雪姫の唇の端から笑顔が溢れた。きゅっと、小さく握り返されて。呼吸が、落ち着くのを感じる。
それはほんの些細な変化。
区切りはついた――とは思っている。
でも、それでハッピーエンドになるなんて、あり得ない。
雪姫はやはり、誰かと関わる時は呼吸が乱れてしまう。一度抉られた傷は、瘡蓋で覆われてやがて傷が消えたとしても。その憶えた痛覚までなかったことにはならない。
「……朱音」
「朱音、そんなふくれっ面にならなくても」
半ば呆れ。半ば苦笑を浮かべながら、翠が微笑む。みんなのお姉さんの役どころは健在らしい。
「翠です。ゆっきちゃん、よろしくね」
「俺は――」
「「「知っている」」」
いや、雪姫と一緒に自己紹介したいだけなのに、君らいったいなんなの?
「……今日の冬君は真冬としての冬君? それとも上川冬希な冬君?」
「へ……?」
予想外の雪姫の言葉に、つい目を丸くする。
「そんなの、COLORSはも脱退しているんだから。俺はただの――」
「それはちょっとムリかもね?」
クスリと笑みながら。でもどこか、寂し気な陰りも見せつつ、雪姫は俺にスマートフォンを見せてきた。
@**j**:真冬さん復活とか、嬉しすぎる!
@*p***:でも蒼さん達は一言もそんなこと、言ってない気が……。
@***z*:ばーか。もう呼び方が真冬さんに対して、そのものじゃん。
@***L*:でも腹に立つよね、あのアンチの投稿がインフルエンサーになって、真冬さん叩きになったワケでしょ?
@d****:今になって思う。COLORSはやっぱり四人でCOLORSだよ。
@***y*:あれ? お宅は朱音担じゃなかったっけ?
@i****:それはそれ! 朱音ちゃんのツンデレ加減が尊い。
@***m*:でも、今日の様子を見ていると朱音さんって、真冬さんのことが――。
@**r**:言うなー! それはファンなら分かっていたことだー!
@S****:私は見守る翠さんが尊い……。
@**B**:でも、もしかして翠さんも、真冬さんのことを――。
タイムラインの流れが速すぎて、目が追いつかない。
「これって……」
「特に蒼司さん達は何も言ってなかったと思うよ。ただ、いつもと同じように、冬君の名前を呼んでいただけ。でもファンの皆さんにはそれで十分だったのかもね」
ニッコリ雪姫が笑う。
「え? でも、そんな――」
「取り込み中のところ悪いけど、本番再開まであと30秒ね」
聞き慣れた声が、飛び込んできた。
「母さん?!」
「ヤッホー、冬。雪姫ちゃんと相変わらず仲が良さそうでなにより」
「おばさん?!」
「おばさま?」
朱音と翠の声が重なる。そして俺は唖然として、二の句が継げない。彼女に膝枕されている息子を母は見た――これが確定事項だった。
「……母さんが、なんでマネージャーの真似事を?」
「膝枕されたまま言っても、様になってないわよ?」
「そういうことじゃなくて――」
「……人任せにすること、止めにしたの」
「え?」
俺は目をパチクリさせる。画面には映ってないが、母さんがあっちで笑っている気がした。
「柊と徹底的に大喧嘩したから」
「は?」
「私は柊に任せすぎた。柊は私を追いかけすぎた。COLORSは上川小春じゃないし、アイドルでもない。そこだけは再確認したの。だから、蒼君達にも謝ったんだけれど。冬、ごめんね。私、冬達のこと、しっかり見てなかった」
「うん……それは過ぎたことだから。も、う……だ、だいじょうぶ、だから……」
今そんなことを言わなくても。
瞼の裏側まで熱い。
髪を撫でる延長と言わんばかりに、俺の目を雪姫の掌が覆う。もう、過ぎ去った時間は戻ってこない。でもCOLORSはあの頃と変わらない。
(いや、違う――)
それは正確じゃない。本音は時間が経ちすぎた。だから、踏み込めないし、遠慮するし、迷っている。上手く、言葉にできない。ただ、それだけで――。
「本番開始まで、5、4、3――」
柊さんの声が響く。
俺はまだ、あの人達と本音で話していない。
背中を向けて、逃げてばかりで。
柊さんの声が、心なしか震えているのが分かった。
きゅっ。
雪姫の手が、また俺の手を握る。
――一人で行こうとしないで。私、絶対に冬君を離してあげないからね。
そう雪姫が耳朶に囁いてくれた、その瞬間だった。
「消せよ! 消せ! こんなの茶番だ! ふざけんなっ!」
生徒会長、芦原総司の声がスピーカーから響いてきた。
■■■
「なんだよこれ! ふざけんな! ふざけんな! ふざけんな!」
反響しすぎて、スピーカーがワンワンとハウリングする。それなのに、芦原はお構いなく奇声を上げた。
「なんなんだよ! どうして下河は俺になびかないんだよ! どうして俺を無視するんだ! 芦原家だぞ! この地域の名門だっ! 女子なら、俺と付き合えるって聞いただけで、喜んで腰を振って――」
「バカじゃないの?」
響いてきた声は、瑛真先輩だった。
「女子と一括りにするあたり、本当にどうしようもない。その子達だって、着飾った生徒会長の芦原君に騙されただけじゃんか」
「私は、ゆっきと一緒で生徒会長を格好良いと思ったことは一回もないけどね」
「まぁ、彩音はどっかの誰かさんしか見てないから」
「瑛真ちゃんっ! 全国放送でそんなこと言わなくていいから! ひかちゃん、ちが……違わないけど、ちが、違うからね!」
「光が音響作業に没頭して、聞こえてないの残念すぎだろ」
大國が呆れている。
そして、黄島さん、テンパり過ぎだった。でも聞こえていたとして、光って意外に鈍感なんだよね。黄島さんはあんなに分かりやすい態度で接しているのに。残念すぎる。
「お前ら、そうやって僕のことをバカにして――」
「私からもバカにさせてもらって良いですか?」
そう言ったのは音無先輩だった。
「名門? 昔から続く家筋であることは認めるとして。市議会議員程度で、何を奢っているのですか?」
「な――」
「それにあなたの父君が市会議員なのであって、あなたがそうなワケではないでしょう。それなのに、自分事として振る舞う、その無神経。本当に品性を疑いますね」
「な、な、な……」
「だって、そうでしょう? 結局、あなたは下河さんに振られた。私にも振られた。瑛真ちゃんにもちょっかいを出して、やっぱり振られた。女々しい逆恨みじゃないですか。それなら私を生徒会から追い出せば良かったし、文芸部への広報権限も剥奪すれば良かった。それなのに、しなかったのは、あなたに実務能力が皆無だからでしょう?」
「ちが、違うっ!」
「下河さんを追い詰めれると分かったら、執拗に彼女に標的にした。本当に呆れます」
「それは青柳が!」
生徒会長が吠える。またスピーカーがハウリングして、なんて言ったのか聞き取ることができなかった。
「……こんな風に生徒会長は言ってるけれど、ゆっきちゃんはどうですか?」
そう蒼司が言う。上手い、と思う。あくまでラジオ番組の体裁で、進行を進めていくつもりなのだ。
雪姫は、すーっと深呼吸をする。
呼吸に乱れはない。
でも、俺は雪姫の手を握る。
ゆっくり、体を起こして、雪姫の耳朶に囁いた。
――一人で行こうとしないで。俺、絶対に雪姫の傍を離れないから。
雪姫は目を丸くする。
満面の笑顔を俺に零して、コクンと頷く。それから雪姫は躊躇いなく言葉を紡いだ。
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「私、あなたを振ったんですか?」
眼中にない。興味もない。そう、言葉の弾丸をこめて。
「ふざけ、ふざけるな! 下河のクセに、あんなに怯えて泣いていたくせに、僕のことをバカにするなっ! 僕は選ばれた人間で、誰よりも才能があって、COLORSを追放された上川とは違って――」
激昂する生徒会長の言葉は、そこでプツンと切れた。
音声をカットされたのだ。
でも、雪姫はお構いなしに、さらに言葉を紡ぐ。
「人を簡単に罵る人も。簡単に誰かを傷つける人も私は好きになれません。一緒に悩んで、考えて。苦しんだら、この手を握って、同じペースで歩いてくれる、そんな人が私は好きです。完璧じゃなくて良いから。むしろ弱さを見せてくれて、私にも守らせてくれる。そんな人が好きなんです」
雪姫は俺を見る。
むしろ、もう俺しか見てなくて――いや、違う。雪姫しか見えてないのは、俺の方だった。
「……そんな冬君が私は好きなんです。だから、今でも息が苦しくなる時もあるけれど。冬君がいたら、前を向いて歩ける。そんな気がするんです」
雪姫は瞳を閉じる。
「冬君、だから私に酸素をください。他の人には絶対、イヤだって思うから。あなたの酸素が欲しいの。私にだけ、あなたの酸素をください」
「うん……」
その髪を撫でて。サラサラ、手櫛で撫でつけて。息遣いが感じるくらいに、近く。それでも遠いと思うくらい、もどかしい。だから近く、もっと近くへ――。
触れる。それじゃ足りないから、もっと触れたいと思ってしまって。
「雪姫――」
かろうじて、そんな言葉が漏れた。
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――もしもし、二人とも! この番組は、ハイブリッドで、動画も配信されているんだけど! おい、冬! 聞こえてる? ふゆっ?! ちょっと、それまマズいって! 朱音! ラジオ局の備品だからテーブルは壊さないで! 翠、なんとして! いやショックでいじけている場合じゃないから! おばさんも柊さんもワクワクしてないで! ちょっと、リスナーからのメッセージがすごいことに……冬、とりあえず君だけでも、僕の話をちょっと聞いて?! ふゆ~っ?!
遠くで、蒼司のそんな声が聞こえた気がしたんだ。




