121 冬君と一緒に見る世界は怖くない
硝子の破片が舞う。
まるで、雨のようで。
カーテンが風でなびいた。陽光が図書室に差し込む。
本が投げ出されて、本棚が無造作に倒されている。いや、計画的だ。まるでバリケードのように、本棚が倒されて、入り口を塞いでいた。
数にして、13人。全員が狐の仮面を被っていた。それで、隠し通せると思っているのか。むしろ滑稽だって思ってしまう。
不快感が込み上げてきた。
どうでも良いと言わんばかりに無造作に、図書室の本を靴で踏んでくれる。それも不快だが、何より――。
雪姫がその頬を涙で濡らしていた。俺は護身用スティックを脇ではさんで、雪姫の頬に触れる。
「目を閉じていて」
そう囁く。雪姫の目元に唇を添えた。それから俺は護身用スティックを握り直した。
「この人数で、何とかなると思ってるのかよ! 良い覚悟だな?!」
一人が吠える。俺は呆れて、彼を見やる。
「大田先輩だっけ?」
「なんで、俺を――」
はっとして彼が仮面があった場所に手をやる。もうすでに割れ落ち、仮面だったソレは床に散乱していた。
「てめぇ――」
ブンッ。スティックを振る。彼に向けて容赦なく叩きつけた。悲鳴をあげる間もなく、彼は再度、本棚に叩きつけられた。
「今、覚悟って言った?」
あぁ、自分の感情が凍りついているのが分かる。
ココまで、やってくれたんだ。
手加減も容赦もできそうにない。
「俺の雪姫を泣かせたんだ。それこそ覚悟してよ?」
ぶんっ。再度、俺はスティックを振り回した。
■■■
時間は少しだけ、さかのぼる。
「上川君」
図書室の階段を駆け上ろうとした俺たちの前に、瑛真先輩と音無先輩が待っていた。音無先輩が胴着を身に纏っていたことに、目を丸くする。
「今、時間がないんだ! 音無先輩、退いて――」
「上川君、少しだけ時間をください」
音無先輩は、まっすぐに俺を見て言う。
「……今回の件は、うちの生徒会執行部が絡んでいます」
ピクッと、俺の表情筋が動く。
「生徒会長の芦原が下河さんに、執着していたのは知っていました。なんとか、生徒会を改革したいと思っていましたが、私の力不足です。本当に申し訳ありませんでした」
音無先輩が深々と頭を下げる意味が俺には分からない。同じ執行部がだからといって、一まとめに彼女を非難するつもりは無い。
彼女は現生徒会長の対抗馬だった。接戦の末、20票差で現生徒会長に軍配が上がったのだ。
あの時は、なんとなくの雰囲気で投票して――そのまま忘れていたけれど。
役員の任命権は、生徒会長にある。
副会長に音無先輩を任命した、会長の意図があの時はまるで分からなかったが、それからしばらくして。何となく理解した。
綺麗な人を、自分の傍に置いておきたかったのだ。
そのうえで、生徒会長は全ての雑務を音無先輩に押しつけたのだ。
「……音無先輩を非難するつもりは、ありませんよ」
「そういう意味で言ったら、上川君。私たち文芸部も。それからクソガキ団にも非があるの。雪姫を追い詰めた連中は、私たちはある程度特定していた。でも、証拠がなかったから」
悔しそうに、瑛真先輩が唇を噛む。きっと、あの時からずっと後悔をしていたんだと思う。
「そんな私が、決して言えた義理じゃないのは承知しています。それでも、言わせてください。上川君、覚悟はありますか?」
まっすぐに音無先輩が、俺を見つめる。俺は迷いなく、コクンと頷いた。
「……ゼロタイムで、即答ですか」
先輩は苦笑を浮かべる。
「正攻法で攻めたら、きっと手遅れになります。素直に図書室へ入室はできないでしょう。彼らは、今までも生徒を遊び感覚で虐めてきましたが、尻尾を出さなかった。仮に掴んだとしても、芦原の母親はPTA会長です。そして夫は、市会議員。芦原家は市の教育委員会にまで影響力がある。その権限でこれまでも有耶無耶にしてきたんです。多分、今回もそうするつもりなんでしょうね」
そういうこと、か。
俺は小さく息をつく。
下手をしたら停学。退学もあり得るかもしれない。それでも、雪姫のことを考えたら、躊躇う理由は何一つなかった。
「それが何か?」
「予想通りの答えですよね」
音無先輩は、瑛真先輩と顔を見合わせる。
「彩音、海崎君、大國君はこのまま図書室に向かって」
「は? 正面突破は難しいんだろ?」
大國は怪訝そうに首を傾げる。
「引きつける人が必要ってこと」
つまりは、囮ってことだろうか。
「上川君は、奥の階段から生徒会室に行って」
「は?」
なんで? 理解が追いつかない。
「そこから、ベランダを出て、図書室まで向かって」
「……いや、でもベランダからって。そもそも、もう閉められて――」
図書の管理の面から、特殊な硝子を使用していると教えてくれたのは、弥生先生だった。
でも、瑛真先輩も音無先輩も、その目に何ら迷いはない。
親友が、俺の掌に自分の掌を重ねる。
その上に、黄島さん。
大國、瑛真先輩。そして音無先輩。
言葉はもうない。
視線が交わる。説明してもらう時間が惜しい。そして、音無先輩の確固たる姿勢を見れば、信頼に値する。今は、それで良いと思った。
だから深呼吸をして――。
「応ッ!」
みんなで、気合いを入れた。それが、号令となって。
俺達は全速力で、駆けたんだ。
■■■
まさか、弓道の弓矢で窓ガラスを砕くとは思っていなかっただけに、驚きである。
その直後、スマートフォンの通知が届く。
otonasi:私の女子力の高さ、見てくれましたか?
女子力がイコールで物理とは思わなかった。
思わず、笑みが漏れる。
おかげで、良い具合に緊張が解れた。
スティックを振るう。
仮面が飛んで。
素顔を晒したのは、生徒会長だった。
「何をやって、相手はけが人だぞ! 右肩を狙えっ!」
俺を仮面達が取り囲む。暗闇の中なら不気味に感じるかもしれないが、白昼に晒された今、滑稽にしか映ら――。
「ぶぼっ?!」
一人が吹っ飛んで。壁にしたたかに、その体を打つ。
ひゅーひゅーと、喘鳴が聞こえた。
「雪姫?!」
正拳突きの構え。その拳は、次の標的を定めようとしている。
「雪姫、無理をしないで、目を閉じていて大丈夫だから――」
「無理、していないよ」
その呼吸音を聞けば、空元気だと分かってしまう。涙の跡は、まだ乾いていない。でも、その体は震えていなかった。
「目は、閉じない。閉じるつもりはないから」
「彼氏が来てくれたからって、調子に乗ってんじゃ――」
「乗ってないよ」
蹴りを上段に。顎にクリーンヒットした。今この瞬間も、ヒューヒュー浅い呼吸を繰り返しながら。
「なんでだよ! もっと怯えろよ! そして泣きついてこいよ! 下河、お前の居場所なんか、学校には無いんだ――」
俺がスティックで生徒会長の頬を、手加減なしで打ちつける。ひっ、と彼は悲鳴をあげた。
「こんな、光景だったんだね。私が見て、怯えていた世界って」
「何を言って……?」
鼻血を流しながら、床に這いつくばって生徒会長は呻いた。
「冬君がすごいって話です。私が怯えていた世界って、ちょっとしたことで、光が差し込むんだって。そう考えたら、バカみたいって思ったんです。息は苦しいけれど、冬君が一緒だったら呼吸ができる。冬君がそばにいたら、全然怖くない。だから、なんてちっぽけなんだろう、って」
「ふざ、ふざけるな! お前は泣いていれば良いんだよ! なに夢を見てるんだよ! お前なんか、お前なんか――」
生徒会長のわめき声を、ルルが跳躍してかきけす。その頬に、爪をたてて。痛みと恐怖からか、彼はのたうち回る。
「おあーっ!」
ルルが雄叫びを上げた。
それが合図と言わんばかりに、割れた窓ガラスから猫や犬達がなだれ込み、そしてカラスとスズメ達が、滑空してきた。
「先生?」
どうやら雪姫は、このカラスに【先生】と名前をつけていたらしい。
「やめ、やめ、やめて!」
「痛い! こないで! ごめんなさい!」
「もう、しないから! 悪かった! 本当にごめんっ」
「やっぱり、上川は化け猫――」
猫は爪で。犬は顎で。鳥は嘴で、彼らを容赦なく追い立てる。
阿鼻叫喚という言葉を使うとしたら、今以上に最適なタイミングは無いかもしれない。
(でも化け猫って……)
思わず、俺はルルを見た。最近、変なあだ名をつけられていたのが気になっていた。化け猫もその一つだったのだが。
「ルル?」
「おあ?」
これみよがしに、雪姫にすり寄るのが、これまたアヤシイ。猫に尋問もおかしな話だが、どうやらうちの相棒には事情聴取が必要のようだった。
「なんだ、お前達?! 今は授業中だぞ!」
廊下から、聞こえたのは教頭先生の声だった。
――正攻法で攻めたら、きっと手遅れになります。素直に図書室に入室できないでしょう。
音無先輩のこえが、今になって耳の奥底で響く。
(そういうこと、ね)
入り口を塞ぐ本棚、そして教頭先生。全部、俺達を妨害する障害だったのだ。
「うるせぇぇぇ! そこを退けろ、セクハラハゲ!」
大國の声が響く。
ドアが強引に外して、そして放り投げられた。ガラスの割れる音が響く。
バリケードとして置かれた本棚が揺れた。
「いっけぇぇぇ、Kゴリ!」
「圭吾、手伝うよ!」
「クソガキ団の本気、見せるよ!」
黄島さん、光、瑛真先輩の声が重なって。
ずぅぅぅぅぅぅっっっんん!!!!
そんな音が、衝撃が走る。
俺は、思わず雪姫を抱きしめた。
本棚が倒れる。
と、雪姫も俺を抱きしめて。
背後で悲鳴が上がるのが聞こえた。
離さない、そう雪姫を強く抱きしめて。
離れない。そう雪姫が強く俺を抱きしめた。
目はもう閉じない。
冬君と一緒に見る世界は怖くない。
だから、絶対に目は閉じない。
そう、雪姫が俺の耳朶に囁く。
こんな時だというのに、雪姫の呼吸が少しずつ落ち着くのを感じて。俺はほっと、胸を撫で下ろしていた。
埃が舞い上がって。
思わずムセこんでしまう。
廊下からも、光が差し込んで。
本棚は、生徒会執行部のメンバー達を押し潰すかのように、倒れていたのだった。




