120 あなたの傍だったら。私、呼吸ができる
息がひゅーひゅー言う。喉元をどんなにおさえても、呼吸が整わない。教頭先生の鋭利な視線を受け止めれば、ますます息が荒くなっていく。
(だいじょうぶ、大丈夫――)
みんなが好意的に見てくれないのは、分かっていた話だ。学校の先生達だって、弥生先生のように、肯定してくれる人ばかりじゃない。何より、私を退学させようとしている人達もいたのだ。
きっと、教頭先生もその一人。
冷静になって考えれば、私ほど面倒臭い生徒もいないと思う。授業にはまともに出ていない。人と関わろうとすれば過呼吸になる。学校としては、関わりたくない――放り出したい生徒ナンバーワンのはずだから。
でも――。
冬君がくれたシャープペンシルを指で撫でる。
諦めないって決めた。
前を向くって決めた。
全ての人と仲良くなんかできない。でも、少なくとも冬君やみんなと、一緒に学校に行くと決めたから。これぐらい、乗り越えないと。
そう唾を飲み込んだ瞬間だった。
「……え?」
私は大きく目を見開いた。教頭先生はまるで能面でも被ったかのように、表情を崩さず、私からシャープペンシルを取り上げた。
「挙動不審過ぎる。これは、上川からもらったシャープペンシルだったか? 織田先生がそんなことを言っていたな」
「そ、そうです……」
教頭先生の意図が分からない。ただ、冬君との繋がりを奪われた。それだけで、気管が締めつけられそうになる。
「カンニングしようとしていたんじゃないのか?」
教頭先生はなにを、何を言って――。
カラン、と音がした。
机の上に、削れていない鉛筆が放り投げられていた。
「今頃はカメラや通信機を搭載していても、見分けがつかないからな。カンニングをしていないと言うのなら、それでテストを続けなさい」
「この鉛筆――」
削られていない、と言いたかった。でも、言葉が出てこない。息苦しさ。喘鳴。浅い呼吸、目眩、頭痛。全てが私の邪魔をする。
と、本棚に収まっていたルルちゃんが目を開く。
耳をピクンピクンと揺らして。
その毛が逆立たせて、爪を剥き出す。今にも跳躍しそうで。明らかにルルちゃんの双眸は激情を灯していた。
(ダメ――)
口をパクパクさせながら、必死にルルちゃんに訴える。ここで騒ぎになったら、きっと冬君が黙っていない。だけれど、教頭先生の言動を考えたら。きっと、冬君にもルルちゃんにも迷惑がかかってしまう。それだけは、なんとしても避けたかった。
(ルルちゃん、お願い……私は大丈夫だから!)
口をパクパクさせて訴える。ルルちゃんは賢い子だ。きっと、私の言わんとすることを理解してくれる。そう信じて。ルルちゃんは、不本意と言わんばかりに尻尾を揺らした。今、ココで私が耐えたらそれで良い。
と、背中が不快感で粟だった。
髪を、教頭先生が撫でてきたのだ。
思考がフリーズする。
次にこみ上げてきたのは、容赦ない嘔気で。
でも、声にならない。
ただ、私の喉元がひゅーひゅー言うだけで。
(触らないで! 冬君以外の人が私に触れないで!)
そう叫びたいのに。全身で拒絶したいのに、声にならない。声帯がまるで震えない。教頭先生は、私の沈黙を肯定と捉えたのか、ほくそ笑む。その吐息が、私の耳朶を触れて。なお嫌悪感が膨れ上がっていく。
「下河の態度次第では、考えてやっても良い。私も鬼じゃない」
「たいど……?」
何を、この人は何を言っているのだろう?
「君はもっと賢い生き方をすべきだ。テストのように、形式的なもので評価されるほど、社会は甘くない。強い者に従うのは、生き物の摂理だ。処世術ってヤツだよ。私が口添えをしたら、君はもっと過ごしやすくなる」
ニタリと笑って。その手で、私の太腿を制服の上から撫でてくる。思わず口元を押さえる。吐きたい、本当に吐きたい。
(お願いだから、私に触れないで!)
そう叫びたいのに、やっぱり言葉にならなくて。ひゅーひゅーひゅーひゅー、喘鳴ばかり響く。どうしても、うまく息ができない。
「よく、考えておきなさい」
そう耳元で囁く。頭が真っ白になる。イヤだ、この人から早く離れたい。冬君との繋がりを奪わないで。返して、あのシャープペンシルを返して! 感情が破裂しそうで。ヘドロの海に、体が沈み込んでいくのを感じる。
かつん、かつん。
足音が響いて。
そして、ドアの閉まる音。
教頭先生は、司書室から出て行った。
と、同時にルルちゃんが、私の膝に飛び移ってきた。
心配そうに見上げる顔が、冬君の表情と重なる。
「あ……う……」
言葉にならない。
どうして?
なんで?
私はどうしたら良かったの?
我慢しようと、飲み込もうとした感情が、大きな礫になって流れて、ルルちゃんを濡らす。
「う――ごめん、ルルちゃん……」
でもルルちゃんは、嫌がる素振り一つ見せず、私の手の甲を舐めた。
「冬君、冬君――っ」
感情が止まらない。でも、ルルちゃんの温度を感じていたら、少しだけ呼吸が落ち着いてきた。肩で息をしながら、なんとかルルちゃんの頭に指が触れた――その瞬間だった。
どおおぉぉっぉぉぉぉぉぉぉぉーんんんんっっ!!
図書室から、何かが倒れた、そんな音がした。まるで地鳴りのようだって思う。
「……見てくるから、ルルちゃんは待っていて」
「おあっ?!」
ルルちゃんは抗議の声を上げる。本当に優しい子。でも、きっとあの人達の標的は私なのだ。冬君が大切に想っているルルちゃんを、これ以上、危険な目にあわせるワケにはいかない。
私は急ぎ足で、司書室を出て、ドアを閉めた。その瞬間――目眩を憶える。
■■■
図書室内は、暗幕のカーテンが引かれて真っ暗だった。幾筋もの光――懐中電灯やペンライト、スマートフォンのライトが私を照らす。交錯する光が朧ろ気に映し出したのは、誰もが狐の仮面を被っていた。
歯がカチカチ鳴る。
血の気が引く。
立っているのが、ようやくで。
あのバレンタインデーの日、同じように囲まれたことを思い出した。
(どうして、なんで――)
考えれば、考えるほどに呼吸が浅くなる。苦しい。思うように息ができない。
「……お前、バカだろ?」
くもぐった声で、そう吐き捨てられた。その声、どこかで聞き覚えがあった。
「とっとと、退学すれば良かったのに。誰も待ってなんかいないのに、何で来たんだよ?」
「お呼びじゃないの。あなたの居場所は、そもそもココには無いからね。勘違いしないで」
「ま、必要にされるとしたら、その体ぐらいじゃねぇ? 俺達のストレス解消に付き合ってよ? それぐらいしか価値ないし、良いよな? 答えは聞かないけどさ」
「ひどいヤツ。本当に最低ー」
キャッキャ笑うが、止めるつもりはないらしい。容赦ない言葉。無責任な言い分が飛び交う。
私は胸をおさえながらも、この人達のことを見やった。数にして10人程度。少しずつ目が慣れてきた。入り口のドアを覆うように本棚が倒れている。
ドンドン、入り口を叩く音がした。
「雪姫! 雪姫、いるの!?」
「下河! 下河!」
「雪姫!」
「下河さんっ!」
「ゆーちゃん!」
彩ちゃん、海崎君、瑛真先輩、弥生先生、大國君の声。私の気持ちが一瞬気持ちが和らいで――。
「なに、助かったつもりになってんだ? 入ってこられるワケないだろ?」
「お前の王子様、来てないみたいじゃん。怖じ気づいたじゃねー?」
「むしろ気持ち良くよがる声を、そこでお友達には聞いていてもらおうぜ?」
手がのびる。
(い、イヤだ)
力が入らない。
拒絶したい。
本当なら、こんな人達なんか……そう思うのに――。
「痛ッ?! は、猫?」
手をのばした彼が、苦痛で声を歪ませ――ペンライトを落とした。赤い飛沫が散って。光に反射して、多分、私の頬にまで飛ぶ。
ルルちゃんが、私を庇うように前に立っていた。
「なんで、猫が?」
「……ルルちゃん、どうして?」
見れば、本棚があったと思われる場所に、老朽化からか、ネズミが悪さをしたのか分からないが、小さな穴が開いていた。
「シャーッ!」
ルルちゃんが毛を逆立てて、威嚇する。
あの穴を無理矢理通ってきたのがこの暗闇でも分かるくらい、ルルちゃんの毛はぐしゃぐしゃになっていた。
私は目尻から溢れる感情を拭う。
何度、夢見ただろう。
冬君がもしあの日、一緒にいたら。
今のルルちゃんのように、きっと私に寄り添ってくれていたじゃないかって、そう夢想したことが何度もあった。
でも、それじゃダメなんだ。
(それじゃ、ダメ)
待っているだけではイヤなのだ。
守ってもらうだけではダメなんだ。
私は、二本の足に力をこめて立ち上がる。
ふらふらする。
息が浅い。
苦しい。
でも、それが何だっていうんだ。
拳を固める。
冬君が、ここまで私を学校に連れてきてくれた。
待ってくれている人がいる。
全ての人と仲良くなれるなんて思わない。もう、それは学習したから。
理不尽な物言いなんか、肯定しない。
私は息を吸う。
腰を落として私は構えた――その瞬間だった。
ぱりぃぃぃぃぃーんっっっ!
その音の直後。
何かが砕けて、そして散る。
ライトの幾筋もの光が乱反射して、まるで雨粒のようだった。
それが砕けた硝子なのだと、遅まきながら私はようやく気付く。
カーテンが風に煽られて、強く揺れる。
日差しが差し込んで。
南校舎の屋上から、弓道着を身に包んだ女性が、背筋をのばし弓を構えていた。
(……音無先輩?)
私は目を疑う。視界の隅には壁に突き刺さる矢。
でも、それ以上に目の前の光景が信じられなくて、拭ったはずの感情がまた溢れてしまう。
「……な、何が――」
狼狽した彼は最後まで台詞を言い切れなかった。
ぶんっ。と、振る音が響く。
日差しに反射した、護身用のスティックが、彼の顎を強かに打つ。
反応する余裕もなく、何回も体をバウンドさせて、倒れた本棚に強かに背中を打って、彼は呻く。
「俺の雪姫に何をしてくれたの?」
「あ、ぁ――」
私は言葉にならない。
何度、何回、夢を見たのだろう。
あの悪夢が再生される度に。
夢の中の冬君は私を守ってくれた。
あの夢をかき消してくれた。
そもそも、あんな夢を見なくなった。
あなたしか、考えられなくなった。
でも、時々やっぱり思ってしまう。
冬君が、あの時居てくれたら――。
情けないって思うけど、現実を目の当たりにして、私の感情は崩壊してしまった。
目をこらして、その顔を見たいと思うのに、視界が滲んで、冬君の顔がよく見えない。
「おあー」
遅い。そうルルちゃんが抗議しているように聞こえた。
「ルル?」
冬君は首を傾げて、それからルルちゃんの意図を理解したかのように、笑んでみせる。
「ありがとう、相棒。待たせた」
それから冬君は、スティックを脇に抱えて、私の髪に触れる。
「目を閉じていて」
そう囁く。それだけで、暖かくて。呼吸が落ち着いていくのを実感した。私は一人じゃない。冬君がいてくれる。そう思ったら、ますます涙が零れて止まらない。
「俺は何度だって言うからね」
冬君は言葉にする。あの時と同じように、一字一句全くぶれずに。違わずに。
やっぱり。
だから。
そんな、あなただから。
あなたの傍だったら。
私、呼吸ができる。
溢れる感情に飲み込まれながら、冬君の言葉を聞きながら。やっぱり、そう思ったんだ。
■■■
「雪姫が見ようとしている綺麗な世界を泥で塗ろうっていうのなら、誰だって絶対に許さない」




