117 君とワルイ子、クソガキ団
ダッシュして、ステップ。廊下の床をシューズの踵で蹴るようにキック。階段を駆け上がってジャンプ。ホップする余裕なんかないくらい、ダッシュ、ステップ、ジャンプ。そして、潜り抜けるようにターン。
俺は全速力で、廊下を駆けていく。
「上川……? おい、上川! 小学生じゃないんだから、廊下を走るな!」
「先生、すいません。たぶん、これからは定期的に走ると思います」
「はぁっ?! 上川、お前なにを言って――」
ごめん、先生。角を曲がってしまったので、もう何を言っているのか分からない。そういえば、次の授業あの先生――歴史の上杉先生だったんだよなぁと、思わず苦笑いが浮かぶ。
でも、それよりも――。
俺は、全速力で図書室を目指したのだった。
■■■
「いてっ」
雪姫にデコピンをされる。思いの外、威力があるデコピンにビックリしてしまった。空手を極めていけば、デコピンの威力はさらに上がっていくんだろうか……。
「空手で、デコピンは鍛えられないからね」
どうやら俺の考えていることは、いつも通り雪姫にお見通しらしい。
「……冬君。私は、冬君に物申したいことがあります」
「ん?」
「廊下を走るのはダメだよ。さっきの時間、テスト前から上杉先生が半泣きだったからね?」
「う……」
言い訳も出てこない。だって、と思ってしまう。教室から図書室まで、どうしても距離があるのだ。そして休み時間は短い。少しでも時間を稼ごうと思えば、どうしても駆けないと間に合わない。少しぐらい――。
「ダメだからね?」
間髪入れず雪姫に、そう言われて、つい俺はむくれてしまって――。
雪姫に、両手で頬を挟まれる。膨れた空気が、ぷしゅっと音をたてて抜けていく。
「可愛いなぁ、冬君。でもそんなにイジけないで?」
「別にイジけてなんか――」
そう反論しながらも、今、自分はどんな顔をしているんだろうって思う。COLORSの時も、教室でも。雪姫と出会う前は、感情を露わにすることはなかったように思う。雪姫の前だと、こんなにも素直に感情が発露してしまつ。そんな変化に、俺自身が驚いていた。
――冬は本当に変わったよね。
母さんが帰る前に、しみじみと漏らした一言。
俺は、首をかしげるのみだったが――今になって、分かる。雪姫の前だったら、誤魔化しようがないのだ。だって、こうも素直になれてしまうから。
と、雪姫が心配そうに覗きこんでいることに気づき、俺は我に返る。
「ゆ、き?」
「……ただでさえ、右肩が折れているんだよ? 無茶をしないで欲しいな。また、私が知らないところで、怪我をしたら、その時私はどんな顔をしたら良いの?」
「あ、うん――」
ずるいんだよなぁ、この子は。本当に俺のことだけを考えてくれているのが分かってしまう。伝わって――分かりすぎてしまう。だから、どんな言い訳も反論も捏ねくり回せない。でも、とささやかな反抗心が芽生える。
「……クソガキ団なら、そのくらい――」
「ダメだからね」
満面の笑顔で封殺されたのだった。
「クソガキ団の心得その1。イタズラはサプライズで。決して、人の迷惑になることなかれ」
「そんな心得があったの?」
「あったんです」
ふんわりと雪姫が微笑む。でも、大國は率先して、その心得を破りそうと思いながら。
でも雪姫だよな、と、納得する。
真面目で、ちょっと頑固。抱え込みすぎるところを含めて、全部、雪姫なんだって思う。
雪姫なら、確かに人を笑いものにするイタズラよりも幸福を望みそうだなって思う。
「だからね、冬君」
頬に触れる温かい温度を感じて、目を丸くして。確かに、人を驚かせるイタズラよりも、心を満たす幸福が良い。確かに――良い。
「息も苦しくないし。先生も気を遣ってくれているから、大丈夫だよ? むしろ冬君が無理をしないか。そっちの方が心配だよ」
「ん。うん」
真摯に、そんな目で覗き込まれたら、それ以上言い返せない。
「えー、おほん。ごほん。おほん、おほんっ」
何度目かの咳払い。気づけば、弥生先生が着座して、好奇心いっぱいの眼差しを送る。ワクワクとした表情を隠すこともなく。
「え、っと……?」
いや、弥生先生がいるということは、もう授業開始のチャイムが鳴った? いや、確かに雪姫と一緒にいると時間を忘れたり、周囲が見えなくなることもしばしばだけれど――そう思考を巡らした刹那。今、チャイムが鳴った。
「あー、残念。授業開始だねぇ」
「え? 弥生先生? え?」
「いやぁ。ちょっと早めにきたらね、上川君と下河さんの仲の良い光景が見られるかと思ったら……想像以上に、ご馳走様でしたっ!」
「――っ!」
やっぱり一部始終を見られて――そして気付かないくらい、雪姫のことしか考えていなかった。今さらって言われるかもしれないけれど。本当に気恥ずかしい。
「先生としては、頬と頬を寄せるだけじゃなくて、チュッ〜ぐらいしてくれてもねぇ」
「教師が何を煽ってんの?!」
「あ、大丈夫。私、寛容だから。図書室の本を汚さなかったら、大概のことは目を瞑るからね」
「何させようとしているのさ?!」
「上川君が図書室の本を数えているうちに終わるんじゃない?」
「なにが?」
そうこうやり取りをしている間も、雪姫の眼差しが、その温度が下がっていくのを感じる。雪ん子の段階はとっくに終わって。雪女も通り過ぎ、現在、氷の女王にランクアップしたかのような威圧感を感じてしまう。これはきっと俺の気のせいじゃないはず。
と弥生先生が小さく微笑んだ。
――下河さんが、良い子すぎて我慢しちゃう子って分かったから。ガス抜きしてあげて。
そう、囁かれた。
「は、どういう――」
「あ、ごめん、下河さん。肝心のテストを職員室に忘れてきちゃった。てへ」
笑い方がわざとらしい。
「え?」
「すぐに戻るから、ね。上川君も、下河さんとお話したらすぐに、教室に戻るんだゾ」
片目を閉じて――ウインクして、俺に笑いかける。俺が次に言葉を紡ぐより早く、弥生先生は図書室を出て行ってしまう。
「え、っと……」
「――やっぱり、冬君と夏目先生は仲良しだよねぇ」
ぶすっと、頬をふくらます姿に、つい俺は苦笑がもれた。つい先程までの、良い子であろうとした雪姫とは対照的な、素の【雪ん子】がココにいる。
――ガス抜きしてあげてね。
弥生先生の言葉が、脳裏に響く。先生のやり方には賛同しかねるが、良い子であろうとした雪姫は、きっとこのままいけばオーバーヒートするのは目に見えていた。
クソガキ団の新人のワルイ子としては、見逃せすわけにはいかないから。俺は雪姫を強引に引き寄せて、抱きしめた。
「ふ、冬君。授業はもう始まって――」
良い子の雪姫の言葉なら、この口で塞いでしまう。
「んっ……ふ、冬君――」
髪を撫でて。誰よりも近い距離で、雪姫を見る。その額に、額を寄せて。一番近い距離で、雪姫の双眸を独占する。
「誰よりも近くで、雪姫のこと見ているよ。できれば、雪姫だけ見をていたいんだけどね」
「う、うん――」
雪姫が俺の胸に顔を埋める。
「……授業、始まっているのに。私たち、ワルイ子だ」
「うん」
それなのに、唇が綻んでしまうのは、どうしてか。
自分の気持ちに素直になれるのなら、時々ワルイ子になるのも悪くない。そう言い訳をして、もう一度、雪姫の髪に触れた、その瞬間――。
司書室のドアが開いた。
「上にゃん?」
「冬希?」
「光と黄島さん?」
「彩ちゃん、海崎君?」
4人の視線が交差して、硬直してしまう。
「……図書委員として、一応、もの申すとさ。図書室ってさ、そういうコトをする場所じゃないんだよね」
黄島さんがジト目で、見るが誤解が甚だしい。
「えっと、二人はなんで、ココに……?」
話題転換をしたつもりが、さらに黄島さんにジト目で見られた。
「化学の毛利先生が心配して、私らがお使い。だって他の人だったら、ゆっき、身構えちゃうかもでしょ? 上にゃんが一緒だから、無いとは思ったけどさ。もしも発作が起きていたらって思って急いで来たら、本当に――心配して損したよ!」
そう言いながら、黄島さんはニッと笑う。でも、心配したのはウソじゃないと思うので、そこは本当に申し訳ないと思う。
「司書室のドアを開ければ、冬希と下河は汗と欲情でまみれていたのであった」
「光、変なモノローグを入れないで!」
さらに誤解で膨れあがる。汗も欲情もまみれていない!
「そうだよ! キスしかしてないもん!」
雪姫、それも大きな声で言うことじゃないからね?
「図書委員も文芸部も活動停止になるでしょ! ちょっと考えてよ、三人とも!」
「え、僕も――?」
「その情報ソースはどこからなのか、ちゃんと教えてもらうからね?」
黄島さんの目が据わっている。あぁ……光が余計なことを言うから。そして、大國とタコさんが巻き込まれるの図だった。
黄島さんが、ずっと光のことを想い続けていたと知ったのは最近のこと。まぁ、彼女の行動を見ていれば、納得ではあるんだけれど。絶賛、片思い中の女の子からしてれみれば、心穏やかとは言えない話題なので、仕方がない。
一方の親友は――。
声には出さないし、触れるつもりも無いけれど、難儀だなって思う。光の感情に気付かないほど、俺は鈍感じゃない。
むしろ、普通に「友」として接してくれる、彼の器が大きすぎるのだ。もし自分が、光の立場だったら、きっと笑って相手の幸せなんか願えない。でも、そこに遠慮して雪姫との距離を遠ざけるのは、きっと違う気がする。
同じく、雪姫に手をのばせなくて、黄島さんはずっと悩んでいたのだ。
きっと、俺達の関係ってちょっと歪で。でも誰にも抑えつけられないくらい、真っ直ぐで。
でも。それで俺達は、良いんだって思う。
「あのね、冬君」
「え?」
「彩ちゃん達に心配かけないように頑張るから。休み時間はLINKもするし。それに、お昼休憩は、一緒にご飯食べられるもんね?」
「え、あ、うん。そりゃ、もちろ――」
背伸びした雪姫が、そっと俺に触れる。
光と、黄島さんが目を丸くしているのが見えた。
暖かくて。
火照って。
芯まで、熱い。
「私も頑張るから、冬君も頑張ろう? 私のせいで、冬君の勉強が疎かになったって言われるのイヤだもん。だから、がんばるのっ」
ぐっと、握りこぶしを作ってコツンと重ねてくる。
見れば、光も黄島さんも、同じように拳を重ねてきて、俺は目を丸くした。
「私達も混ぜて、よ?」
「すぐ二人の世界になるんだから、イヤになるよね」
光がニッと笑う。
コツンと、もう一回、拳が重なって。
きっと、俺達の関係ってちょっと歪で。でも誰にも曲げられないくらい、真っ直ぐで。
そんな、最高の友達が目の前にいる。だから。安心感に満たされた――から。
■■■
だから、浮かれていたんだ。
カツン、カツン――。
司書室の外。
図書室内。足音が通り過ぎたというのに。俺はすっかり、その音を聞き逃していたんだ。




