113 君はもっと踏み出したい
「あの……雪姫? 自分でやるからさ――」
「自分でできるの?」
「……」
秒で封殺。うちの彼女さんが強すぎる件。満面の笑顔は、さらなる言い訳さえ許してもらえない。
「でも、できることは自分でやった方が……」
「うん、冬君がスムーズに、右肩を10回、回せたら考えるね」
さらに笑顔、エガオ。スマイル。そして、えがお。破顔のオンパレード。ちょっと動かしただけで、痛いのに、その要求は無理ゲーすぎた。
諦めて、肩を落とすと、雪姫は、俺の髪を優しく撫でる。
「……ゆ、雪姫。だから、近いの。近いんだって!」
「近くにいたいって思うの、ダメなの?」
シャワーの音。その音にかき消されそうな声量。そんな声で、雪姫は囁く。距離が近い。俺の体を冷やさないようにと、シャワーをかけてくれるのは嬉しいが、それ以前に羞恥心で体が熱い。
「一緒にお風呂は2回目だよね。そろそろ慣れた?」
「慣れないよ! 慣れるワケないじゃん!」
もはや自分の声は、悲鳴にも近かった。
「それは――嬉しいかなぁ」
後ろから、ぎゅっと抱きしめられて。目眩を憶える。柔らかい肌、弾力。雪姫の甘い香り、そして体に巻き付けた、雪姫のバスタオルの感触が、より艶めかしいと思ってしまう。
「だって冬君、ドキドキしてくれたってことでしょう? いつか、この気持ちも当たり前になっちゃうんだろうなぁって思うし」
「こういうドキドキは、心臓に悪いから遠慮した――」
「ヤダ」
雪姫は、容赦ない。ボディタオルに泡を馴染ませて、背中を擦ってくれる。
「何回だって、冬君に言うからね。冬君のお世話をするのは、私なの。他の誰にも譲らないし、勝手に抱え込んだら、その分、冬君を甘やかすって私は決めたの」
「う、それは……」
要は今日の退職願騒動を言っている。
「でも、よく分かったよね。雪姫と母さんが、話し込んでいる時を見計らったはずなのに」
「うん、ルルちゃんが持ってきてくれたから」
ルル?! お前、何をやっているのさ!? 今度、お前のご飯を減らすから――とまで思って止めた。俺が減らしても、雪姫におねだりをする同居人。そんな構図しか思い浮かばなかい。むしろ、ルルが太る未来が見えてしまう。
「あの、雪姫さん。あのね、俺も男だから、その、理性ってヤツが、ね?」
「むしろ、理性を崩壊して欲しくて、くっついていますけど何か?」
「雪姫は恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいよ? 恥ずかしいに決まっているじゃない」
か細く呟く。シャワーの音だけが、ただ切れ目なく響いて。
でもね、と雪姫の言葉は続く。
「でも、それ以上に冬君に触れたいし、もっと近づきたいの。他の人に目を入れたくないのも無理。他の子を近づかないようにするのも、無理。でも、やっぱりヤキモチを妬いちゃうから、この感情を飲み込むのも無理だって、思ったんだ」
「だから、あれはただ先生達とお話をしていただけで――」
「うん、分かってる。でも、だからって納得できるほど、私オトナじゃないから。だって、冬君のこと、全部独り占めしたいの。だったら、冬君にやっぱりドキドキしてもらうしかない、って思ったの」
「はい?」
ぎゅーっと、雪姫に背中から抱きしめられる。雪姫が巻き付けているバスタオルの滑りが、妙に良い。
「え、えっと……雪姫さん?」
「冬君特製、ボディータオルです」
「ちょ、ちょっと! 何やってるの?!」
ヤバい、理性がもたない。本当に崩れ落ちそう。退職願もしてヤられたけれど、クソガキ団の雪ん子の攻撃は、一切手加減をしてくれないらしい。
「だから、冬君をドキドキさせて。私しか考えられないようにしようって、結論に至りました」
「その、結論おかしい! 俺、ずっとドキドキしてるし、雪姫しかそもそも考えられないし――」
「嬉しいけど、まだ足りないかな。もっと、たくさん私を見てくれなきゃイヤだ」
「い、今の雪姫は正視できない……」
「うん、それで良いよ。天井のシミを数えているうちに終わるからね」
「それ、雪姫が言っちゃダメなヤツだよね?!」
それは結婚初夜――初体験を迎える妻に向け、夫が言う台詞だと思う。
「大丈夫、優しくするからね?」
だからそれは初夜で――以下、略。そんなことを思案する余裕はとうに尽きた俺だった。
「……ゆ、雪姫! 前は良いから! 自分でするから! ちょっと、待って、本当に止まって、待って!」
「大きいね、冬君」
「ど、ドコ見て言ってるの?!」
「背中?」
クスクス笑う。やっぱり、雪姫に翻弄されているようだった。
「でもね、いつだって。誰よりも、冬君の近くにいたいのは、本当だからね」
「ん」
それなら、と。雪姫を引き寄せる。
「冬君?」
「近くに居たいし、触れたいのは俺も一緒だから」
俺の目の前。至近距離で、二人の視線が絡み合う。
「あ、あの、冬君? 流石に、そうマジマジ見られちゃうと、ちょっと恥ずかしいといいますか――」
「うん、俺はもっと恥ずかしかった」
俺もにっこりと笑ってみせる。それから、お嬢様の手を取って。その手の甲に口吻をしてみせた。ちょっとキザかな、と自分でも思うけれど。
まるで異世界で、姫に誓いをたてる勇者のようで。今さらだって思うけれど。でも、雪姫は明日から学校に行く。これは、自分のなかでたてた誓いのようなものだった。
(――何があっても、雪姫を守るから)
そう心のなかで、呟いた。心臓が早鐘のように、打ちつけるのを無視して。
「あ――」
雪姫の声が漏れる。
ふぁさ。
雪姫のバスタオルが、静かに落ちて。
二人とも、凍りついた。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
雪姫の声にならない悲鳴が、浴室内に響いたのだった。
■■■
ぽかぽかぽか。
ぽかぽかぽか。
ベッドの上でゴロゴロしながら、何度も何度も、俺は胸板を拳で叩かれていた。恥ずかしいくせに、離れようとしないのだから、女心はやっぱり分からない。
「えっと、雪姫。恥ずかしいのは分かったから、そのごめんね?」
何に対して謝っているのか、自分でもよく分からない。
ただ、思うことはある。雪姫の呼吸が整っているのも、今だからだって思う。自分がプリントを届けられたのは、たまたまで。
雪姫と話せたのも、雪姫の調子が良かっただけ。自分だったからなんて、とても思えない。むしろ、雪姫が受け入れたくれた。光をはじめ――みんが、雪姫との関係を諦めなかった。その結果なんだって、思う。
雪姫のことが好きだ。それは揺るがない。
むしろ、この子が俺に手を差しのべてくれたんだって思う。
COLORSの真冬でも、上川皐月と小春の子どもという記号ではなく、上川冬希として俺を見てくれた、最初の人だと思うから。
でも、雪姫はどうなんだろう。
あんなことがあって。
息ができないくらい、あの日の記憶がヘドロのようにまとわりつく、そんな日々だったんじゃないか――俺は想像することしかできない。
そんな記憶が霧散するなんて、とても思えない。でも雪姫は自分にこうやって、今も俺に心を傾けてくれていて――ふと、疑問が湧いた。
「……雪姫、もしかして焦っている?」
ポカポカと胸を叩く、その手が止まった。
「べ、別にそんなことはないけれど……」
言葉を濁す雪姫を見ながら、でもそれも当然だと思う。今まで、人前で呼吸ができなかった子が、明日、学校に行くのだ。出席日数のタイムリミットがあるなかで、そのプレッシャーは計り知れない。
「やっぱり、焦ってるのかなぁ……」
ボソリと呟く。
雪姫の指先が、俺の指に絡む。
「私、怖いんだよね」
「うん?」
「冬君が、私以外の人に、その優しい眼差しを向けることが」
「……へ?」
「何回も言うけどね。私、冬君を独り占めしたいの。誰にも渡したくないの。その笑顔も、今こうやって握ってくれる温度も、全部、私のだって言いたいから」
「うん……」
「きっと、冬君がいなかったら、私は笑えないし、息もできないって、やっぱり思っちゃうから」
「そんなことは――」
「そなことあるよ。だからもっと冬君をドキドキさせたかったし、何があっても私しか見えないようにしたかいんだもの」
「うん」
俺は雪姫の髪を撫でながら、コクンと頷くしかない。
「冬君に何度も好きって、言ったよ。冬君にも言ってもらった。手も繋いだ。キスだってした。してもらうだけじゃなくて、私からも。でも、足りなくて、もっともっと欲しいって思うの。もっと、冬君と進みたいって、そう思ったら足りなくて。それなのに、ただ見られただけで、息がつまりそうになって――」
俺は雪姫の唇に、人差し指で触れる。
「冬君?」
「今は、怖い?」
ふるふると、雪姫は首を横に振る。
「じゃあ、これは?」
「え――」
最後まで言わせることなく、唇で塞ぐ。
離れようとした瞬間、雪姫に強く抱きしめられた。あまりの長い口づけに、途中、酸欠になりかけて目を白黒させてしまう。
「ゆ、雪姫?!」
「だって、あんな時間じゃ足りないもん。冬君の酸素もらったら、息が苦しくないって、今気付いた」
「逆マウストゥーマウス? それじゃ俺が死んじゃうよ!」
「そうしたら、私がもう一回、人工呼吸してあげるね」
クスリと雪姫が笑う。それから、考え直すかのように。そして何度も何度も確認するように頷いてみせた。
「うん……怖くない。怖くない――」
そんな雪姫を、より引き寄せるように、俺は抱きしめる。
「……怖くて、当たり前だって思うよ。学校のことだって、そんなに焦らなくても――」
「違うよ、冬君」
雪姫は静かに微笑んで、まっすぐ俺を見る。迷いは消えた。そんな力強さを、瞳に色を塗って。
「自分が望んだの。冬君が欲しいって、そう望んだのに。それなのに、怖くなった自分が信じられなくて。こんなに冬君のことが好きなのに。もっと踏み出したいのに。誰にも渡したくないのに――」
言葉を奪う。怖くないと雪姫が言ってくれるのなら、不安な言葉は何度でも奪ってあげたいと思う。
「ふ、冬君?」
「それこそ、だよ。俺、雪姫が思う以上に、雪姫のことしか見ていないからね?」
「う……うん」
「別に早くステップを踏みたいワケじゃないから」
「……それは、私には魅力がないから?」
俺を見る瞳が揺れる。また、そんなことを言う。そして、まだ何か言いたそうだったので、その言葉はまるごと、奪ってしまった。
「や、ちょっと、ん、冬君。息……いきが、できないよ……」
「雪姫が変なことを言うからだよ。お願いだから、一緒に歩こう? 俺、雪姫と一緒に歩いて、同じものを見て、一緒に感じたいって思っているんだ。お願いだから、俺を置いていかないで――」
「ふゆ君?」
「傍にいてくれるのは、本当に嬉しい」
「……うん、私も」
「だから、雪姫が受け入れてくれるまで、ちゃんと待つから」
「私が待てないかも?」
「そこは待ってよ?!」
俺の物言いがおかしかったのか、雪姫がクスクス笑う。
「やっぱり、寝るのは別々にしよう。俺たち、高校生だからさ。信頼してくれた人達を裏切りたくないって思っちゃう」
「……寂しいけど、分かった」
コクンと雪姫が頷いてくれる。
「俺は、来客用布団で寝るから」
「それはダメだよ。冬君のアパートだもん、冬君はベッドで寝て。私がそっちで寝るから」
「いや、でも!」
「でも、じゃないよ!」
「雪姫の頑固!」
「冬君の頭デッカチ!」
そう言い合って、なんて不毛な言い合いをしているんだろうと気付いて――二人、目を見合わせる。自然と笑いがこみあげてきた。
人から見たら、どうでも良いことで悩んだり、笑ったり。心配になるのも、ヤキモチを妬くのも。やっぱり、相手が大切だから。結局は、そこに行き着いてしまう。
クラスメートの声に耳を傾ければ、誰と誰が付き合って。キスをして。エッチをした。そんな話がクラスを賑やかす。俺だって、そんな話題が気にならないワケじゃないけれど――。
(俺たちは、俺たちのペースで)
それで良いと、思ってしまう。
一緒に歩きたい。
不安な時は不安と言って。
あなたが辛い時は、一緒に悩ませて。ヤキモチを妬いたら、全力で抱きしめて。ちゃんと見ているって、教えて欲しい。
苦手だけれど、自分がしんどい時は、ちゃんと言うようにするから。
そう、囁く。
悩める時も、健やかなる時も。どんな時だって。
言葉と言葉が重なって。
手のひらと手のひらが重なる。
そんな言葉は、やがて体温に溶けていく。
「あなたと、一緒にいきたい」
自然と、二人の言葉が重なった。
■■■
「おあー」
白猫が鳴く。
そっちは、一区切りかい? そんな風に聞こえた。
同居人が、おもむろに押し入れから出てくる。
「おあっ!」
こっちも一仕事、っつけたぜ。そう言わんばかりに得意気で。
「……冬君?!」
雪姫に言われるまでもなく、イヤな予感しかない。押し入れに駆け寄れば、思わず二人で鼻をおさえた。
――なんかよく分からないけど、この布団があるから仲良く寝られないんだろ?
きっとそう言ってると想像できてしまうくらい、上機嫌にこの白猫はパタパタ尻尾を振っている。
「ルル、お前なぁ」
「ルルちゃん……」
来客用布団は、見事に排尿――マーキングされちたのだ。
二人そろって、頭を抱える。
結局、狭いベッドでくっついて寝るしかなくなった。オス猫の尿は、マーキングの目的もあって独特の匂いを放つのだ。
雪姫と俺の視線がからむ。
「この状況だからさ」
「この状況だもんね」
「一緒に寝るで良いかな?」
「冬君の隣で、一緒に寝ても良いですか?」
自然と同じように言葉が、重なって――やっぱり、二人そろって笑みが零れた。
【ティア先生のにゃんこ、ちょっと講座】
オス猫のおしっこがくさいと言われるのは、異性にアピールする成分が含まれているからです。
自分の縄張りとして、おしっこで、マーキングをするの。
対策としては、飼い猫であれば、去勢手術も選択肢かしら。
もし、いつもと違う匂いがした場合は、泌尿器系疾患もお疑ってくださいね。
もちろん、この時のルルは、マーキングの意味合いではなくて。
「つべこべ言わず、番いになれよ」と言いたかったみたいだけれど。
ルルも最初はヘタレで――。
ルル「わーわー! 集会招集! 緊急案件! 全員、集合!」
ボスに呼ばれたので、今回はこのへんで失礼します。
最後にモモ語録を引用してお別れね。
「意中の男には、匂いつけしてナンボ! 浮気は去勢!」
それでは皆さん、良きマーキングライフを!




