104 俺と君と下河家と上川家②
「真冬、あなたはいつまでたっても本当に、小春の足を引っ張ってばかりなのね?」
トクントクンと、心臓が打ち鳴らす。雪姫に手を握られていなかったら、目眩がしそうなくらい。息が止まりそうなくらい、気が動転してしまいそうで――。
と、雪姫がノートパソコンのカメラをまっすぐに見やる。
呼吸の乱れはない。
いつからだろう。
この子は、こんなにも迷わずに前を向いて。
一緒に、同じ方向を見てくれている。その一方で、雪姫の存在をより大きく感じてしまう。暖かくて。かけがえがなくて。本当に半身のようで。だから、つい甘えてしまう。それに比べて自分という存在は、なんて弱いんだって思ってしまう。
でも、雪姫はこの手を離してくれない。
一人ぼっちにさせてくれない。一緒に歩こうと言ってくれる。だから悲観したり、自分を卑下してばかりの昨日とは決別したい。そう、心の底から思ってしまう。
と、雪姫が大きく息を吸い込んだ。
「――ところで、貴方は誰なんですか?」
「へ?」
柊さんは目を丸くした。それは俺も、父さんも。思わず目をパチクリさせてしまう。時が止まるってこういうことを言うんだろうか、と漫然と思う。
「わ、私はUP RIVERの柊深陽って言って……COLORSのマネージャーを……」
「それは、表示されている名前を見れば分かります。冬君から、ほんの少しだけ貴方のことを聞いてますから」
ゆっくりと喋っているのに、どんどん感情の温度が下がっていく。まさに【雪ん子】モードにシフトしている、その最中だった。
「あなたは冬君のお姉さんか、それとも元婚約者さんなんですか?」
あんまりの言葉に俺はムセそうになり、柊さんは目を白黒させた。でも雪姫を見れば、ヤキモチを妬いているようには見えない。言うなれば、どんな時よりも冷静で。意図的に言葉を選んでいるように見えた。
「な、な、な、何を言って――」
「この会合は、上川家と下河家の顔合わせと聞いています。あなたは、関係者だからココにいるんでしょう?」
雪姫はまるで揺るがない。
「そ、それは。小春が……。そ、その……私は、代理で……」
俺は目を丸くする。柊さんが、こんなに狼狽する姿、初めてみたかもしれない。
と、画面の向こう側で、父さんがクスクス笑い出した。
「――柊、これは君の負けだね。素直じゃないのは昔からだけど、言葉のチョイスがあんまりだって。もっと、素直に言えば良いじゃんか」
「う、うるさい! 分かっているなら、フォローくらいしないさいよ!」
「それは柊の問題で、俺の問題じゃないし。結果的に、俺は良かったって思っているけどね」
「こ、この――」
「お父さん、このZooから退室しても良い?」
雪姫は本当に容赦がなかった。
「こらこら、雪姫もちょっと落ち着けって」
と大地さんは、画面の向こう側を見やる。
「とはいえ、雪姫の言い分にも一理あるんだよね。柊さん、何故あなたが入室してきたんですか? 俺達はあくまで上川小春さんに招待URLを送ったはずなんですけどね?」
大地さんの言葉に、柊さんは言葉をつまらせた。
「そ……そんなこと――天下のUP RIVERの社長が、こんな些事に時間を割けるワケがないでしょう!」
「だからお前は、なんでそういう言い方しかできないんだよ……」
見れば、父さんは頭を抱えていた。
「――些事?」
一方の大地さんは、その言葉に雪姫以上に、感情の温度を下げていく。大地さんの目が据わっているのは俺から見ても明らかだった。
「……人の子が肩の骨を折ったこの事態を、些事って言うのか貴方は――」
大地さんが画面を覗き込む。その視線に、柊さんが怯んだ。
「な、何よ? いくら夏目コンピューターの社員だからって。COLORSでコマーシャルを打っているからって、貴方がスポンサー面しないでくれない? それで、上川小春と話せるとでも思ったの? 残念ね、小春はそんなに暇じゃ――」
「大地さん、ごめん。ココからは私の担当かな?」
春香さんが前に出た。
「何よ? 今さら謝罪しようたって、もう遅いし。しかるべき上の人に話をつけさせてもらうから。残念だったわね!」
柊さんがヒステリックに言う。なんだろう、何でこんなにこの人は焦っているのか分からない。COLORS時代に感じていた、マネージャーとしての余裕は今やまるで感じられなかった。
「上が誰を意味しているのか分からないんだけどね。柊さん? 私、以前打ち合わせをさせてもらったことがあるんだけど、憶えているかな?」
苦笑しながら、春香さんは言う。
「夏目コンピューター、アジア圏マーケティングコミニケーション担当の下河春香です。ちなみに夫は、弊社のソフトウェアエンジニアリングの最高責任者です。改めてよろしくお願いしますね」
「え、え、え――?」
柊さんが口をパクパクさせている。大地さんも春香さんも、夏目コンピューターのお偉いさんだったのか、と俺まで唖然としてしまう。
「夏目コンピューターは、特別な技術だと感じさせることなく、思い描いた未来を当たり前にするために、技術を追求しるんです。私たちは、パーソナルコンピューターは誰に対しても平等であるべきだと思っています。でも……弊社の理念と貴方の特権意識は、ちょっと隔たりがあるように感じるんですよね。COLORSのメンバーはみんな、良い子だって思うけど。でも、UP RIVERの会社方針が特別な存在としてのアイドルを意図しているのなら、契約更新はちょっと考えないといけないかしら?」
にっこり笑って、春香さんはそう言う。
「あ、ちょっと、ま、待って。これは、その、ちが、違うから。そういう意味で言いたかったワケじゃなくて、社長の意図とはまるで別で、その――」
「あら? しかるべき上の人と話をつけようって、先程、言われていましたよね? それは企業としての意図ですよね? 私の上ってなると、社長になっちゃうんだけど、ココにお呼びしたら良いかしら?」
春香さんが、さらに悪い笑顔を浮かべる。でも、その目はまるで笑っていない。そんな姿を見ていると、この人は紛れもなく、【雪ん子】の母なんだと改めて思ってしまう。
「母ちゃんは怒らせたら、後が怖いんだって……。姉ちゃんもだけどさ……」
ぼそっと空君が呟く。その情報提供はあまりにも遅すぎるからね。
「……ま、待って! 待って! 待ってください! これは小春の意図とは違うから。私の独断で、その。本当に、違うんです。言葉のあやと言うか……本当に申し訳ありませんでした!」
画面越し、柊さんは深々と頭を下げる。そんな姿を見ていたら、なんだか――。
(バカバカしい……)
そう思ってしまったんだ。あんなに、ずっと悩んでいたのに。
クールに采配を振るっていた、柊さんの姿はドコにもいない。虚勢を張って、空回りしている、そんな女性が画面越しに映っているだけ。その光景に、なんだか脱力感を憶えてしまう。
「……素直に、もう少しだけ『待ってくれ』って言えば良いのに。本当に言いたかったことも結局言えないままだし。わざわざ入室した意味が、まるでないじゃんか」
父さんが、ため息を漏らした――その刹那。
かちゃん。
ドアを開ける音が無機質に響いた。
「やっとじゃな」
「そのようですね」
爺ちゃんと婆ちゃんまで、息をつく。何事と、玄関の方に視線を向けたその瞬間だった。
■■■
「冬ーっっ!!」
■■■
そんな声が響いたかと思ったら、全力で、俺に抱きついてくる存在が一人――。
負けじと、左側から雪姫まで抱きついてくる。あまりの展開に、俺は何の抵抗もできない。
ものの見事に右肩ごと、俺は母さんに抱きしめられていたのだった。
「痛ってぇぇぇぇっっっ!」
近所迷惑な大絶叫が響いたけど――俺は絶対に悪くない。
「冬君?!」
「冬?!」
心配してくれるのは嬉しいけど、でも抱きつかないで。特に母さん、そっちは痛い! マジで痛いから! 本気でやめて! 雪姫、苦しい。嬉しいけど、胸に顔を埋めさせようとしないで。母さんも、俺もう高校生なんだから、いい加減子離れして! 本気で恥ずかしいし、本気で痛い! 苦しい! 離れて、マジで離れて!
「上川小春……さん?」
大地さんが目をパチクリさせる。
世間を席巻させた元、トップアイドル。そして現在はCOLORSが在籍するマネージメントオフィス、株式会社UP RIVERの代表取締役社長、上川小春。
でも俺の母さんは、素顔はこんな感じなのだ。だから柊さんが余計に過保護になってしまうのかもしれない。
でも俺は、カメラの前で取り繕った演技をする母さんよりも、素の母さんの方がよっぽど素敵だって思ってしまう。
――別に、父さんがそう言うからじゃないけどさ。
「……姉ちゃんは向こうのお母さん相手でも、本当にブレないよねぇ」
「知っていると思うけどさ、ああなると小春は止まらないんだよね。ごめん、冬。イギリスから祈っておくから……アーメンっ」
「冬、すまん。今の儂にはしてあげれることがない」
「こういうの、嫁と姑って言うのかしら?」
「おあー」
いつの間にか、婆ちゃんの膝の上で相棒が呑気に鳴いていた。
――まぁ、頑張れ。
そう言われた気がしてならない。
いや、傍観してないで、お願い、痛い。本当に……たす、助け、て。痛くて、息ができな――。
「痛ってぇぇぇぇっっっ!」
きっとこの声は、海を越えて、父さんのいるイギリスにまで届いたに違いない。そんなことを思った俺はまだ余裕が――無理、痛い、本当に痛い、マジでもうムリだった。




