88 君と熊さんの空手道場
「セイッ!」
「セイッ!」
「もっと気合い!」
美樹さんの声が響く。
「「「「オウッ!」」」」
「セイッ!」
「セイッ!」
「セイッ!」
俺も拳を繰り出す。俺の隣では、雪姫も道着に身を包み、型稽古に没頭していた。汗がつーっと頬を流れる。それが妙に心地よいと思ってしまう。
ゴールデンウィーク最終日、時刻は朝の9時を少し過ぎた。道場の時計の針を音は、門下生――小学生の可愛いかけ声にかき消された。
「ヤメ!」
そう声をかけたのは、美樹さんの隣で、一緒に型を振る舞っていた男性。毛むくじゃらで厳ついその姿は、大熊を彷彿させた。ラーメン熊五郎3代目、店主。熊野熊伍郎とは彼のことだ。実は29歳。彼女募集中。なんで知っているかと言えば、光と一緒にいく行きつけのラーメン屋店主だったからだ。
「オスッ!」
全員が構えを解く。
「客人に礼!」
「「「「オスッ!」」」」
門下生――小学生が大半だった。みんなが声を揃える。
「「「「熊さんの空手道場へようこそっ!!」」」」
そう言った瞬間だった。彼ら彼女らが、本当に嬉しそうに殺到する。見れば、子ども会の清掃で見た子達が何人か見つける。雪姫は反射的に俺に手をのばした。もちろん、俺がその手を逃すワケがなくて。
しっかりと雪姫の手を掴む。
みんな、容赦なく俺たちに――雪姫をめがけて、心底嬉しそうにダイヴをしてきたのだった。
■■■
「はい、みんな。そのくらいにしてね?」
聞き馴染んだ声が飛んできて、パンパンと手を打つ。
「は〜い」
と少し残念そうに、みんなそれぞれの持ち場に戻っていった。美樹さんを始めとした師範代がついて、グループでストレッチを開始する。
「……黄島さん?」
俺は唖然として、目を見張る。そこには、道着姿のクラスメートが立っているのだ。驚くなっていう方が無理だった。
「そりゃ、ゆっきと一緒で道場の門下生だもん」
ニッと黄島さんは笑う。そうなんだよな、と小さく息をつく。そもそもは、雪姫のCafe Hasegawaに期せずしてアルバイトに復帰できた、あの日。
【5/2】
雪姫から伝えてもらうまで、俺は彼女が空手を習っていたことすら知らなかった。
まだまだ、雪姫のことで知らないことが多い。それが悔しいとつい思ってしまう。
――また道場においでよ?
あの日、美樹さんは雪姫に優しく囁いたのだ。
――きっと上川君なら、ドコだって一緒に行ってくれるよ。ね? 上川君。
そんな風に言われたら、是も非もない。そもそも断る理由がない。ただ、と思う。このゴールデンウィークは本当に色々なことがあった。だから雪姫に無理だけはして欲しくないと、つい思ってしまう。
と、雪姫の手がすっとのびる。昨日も文芸部で会ったとはいえ、長い付き合いの幼馴染。やっぱり嬉しいんだな、とその満面の笑顔を見て――と、雪姫は容赦なく俺の頬を抓ってきた。笑顔なのに、その目は笑っていなかった。
「い、いだ、痛っ、イタ、雪姫、痛いから!」
目を白黒させながら雪姫を見れば、ぶすっと頬を膨らませていた。こんな時に何をと思うが、雪姫は本当に感情表現が豊かになった。つい、しみじみそう思ってしまう。
「だって、冬君が彩ちゃんに見惚れるていから」
「み、見惚れてないよ? ただ、いると思ってなかった人がいたからビックリしただけだから!」
なんで俺は、道場の真ん中で言い訳をしているんだろう?
「だって、私が道着に着替えた時は、そんな風に見てくれなかったもん……彩ちゃん、可愛いもんね」
音で表現をするとしたら、ますますブスッー、ブスッーと空気が注入されているかのようで。表情筋の全てを使って不満を表しているのが、よく分かった。
「だから、そんな目で見てないから」
「ふーんだ」
ぷいっとそっぽを向く。完全にお姫様はむくれてしまっていた。
「上川君、早く仲直りしておいてね。気まずいまま稽古はイヤだよ?」
と同じく道着に身を包んだ瑛麻先輩がニンマリ笑って言う。いや、だったらそこはちゃんとフォローして欲しい。ストッパー瑛真先輩は、今日は機能させるつもり皆無だった。
「あのね、雪姫――」
「今すぐぎゅって、してくれなきゃイヤ」
と雪姫は両手を広げる。
「いや、みんないるし。俺、汗臭いから――」
見回せば、小学生は保護者同伴だ。町内清掃で出会ったお母さん達が何人かいる。お願いだから、期待の眼差しで俺達を見るの、本当にヤメて。
「冬希、発言が女子みたいだよ?」
とまた良く聞き馴染んだ声が飛んできて、思わず面食らう。光がなんでココにいるの――?
そう思った瞬間だった。
有無を言わさず、雪姫が俺の胸に飛び込んでくる。
なんとなく、既視感。
そういうことか、って苦笑が浮かぶ。
雪姫のことが大好きで、抱きついてきた子どもたち。でも、町内清掃で俺を覚えてくれていた何人かは、俺にもジャレついてくれた。多分、そこに不満はない。不安もない。でも、きっと――。
「……あの子達ばかりズルいって思っちゃったんだもん」
雪姫の声が鼓膜を震わす。
本当に遠慮なく、素直に甘えるようになったんだな。心底そう思う。きっと昔の雪姫は、お姉さんであることを期待されて、我慢してばかりだったから。
ちょっと恥ずかしさはあるが、それなら拒絶する理由は何もない。
だから、雪姫を自然に抱きしめる。でも、それでも雪姫から不満そうな視線は消えないから、今日の雪姫は本当に頑固だった。
(……はいはい、了解ですよ)
コクンと頷いて観念するしかなかった。そっと、手櫛で雪姫の髪を撫でる。それでようやく満足したように、雪姫は小さく吐息を漏らした。
「暑い道場が、なお熱いね」
「おい、長谷川。あれ、雪ん子……だよな?」
「そうそう。久々に会えて嬉しいでしょう? でも熊ちゃん、慣れようね。あれでまだあの二人、アイドリング運転だから。雪姫ちゃんも上川君も、スイッチ入ったらお互い見えなくなっちゃうだよね」
美樹さん、そんな保証は全くいらないから。
「上川君は、ウチによく食べに来てくれる子だから知ってるけど……あの二人、付き合ってんの? ウソだろ? あの雪ん子が?! 俺は独身なのに?」
「そうそう、間違いなくあの雪ん子ちゃんだよ。ようやく道場に来ることができたの、本当に上川君のおかげって思うよ。それと熊ちゃん、頑張れ! きっと良い人がいるから」
ニッと笑って、美樹さんは俺を見る。いや、それは良いんだけどさ――全員から注目を浴びている、この現状が辛い。
とその視線に気づいたのか、雪姫がさらに俺を包み込むように抱きしめようとする。
「ゆ、雪姫?」
「最近、悟ったの」
「へ?」
「冬君の目に私だけ映すのは無理だけど、やり方次第だよねって」
「え?」
「他の人の視線なんか気にならないくらい、全部、私でいっぱいにしてあげたらいいんだ、ってそう思ったの」
ニッコリ笑って、そう言うや否や。
雪姫がなお俺を引き寄せるから、暖かい温度と柔らかさに包み込まれ――って、え? え? 胸、胸が当たって、当たってるから?!
「上にゃんが慌てるのって、かなり貴重だよね、ひかちゃん?」
「うん、確かに。あんな冬希はなかなか見られないかろね」
「雪姫、昨日の文芸部といい一切妥協しないつもりだよね。ま、あんな幸せそうな顔見せられたら、止める気も失せるけどさ」
そこは止めて? 呑気に言ってる場合じゃないから! 黄島さんも光も瑛麻先輩も!
「……あれは、確かに雪ん子だな」
しみじみと熊伍郎さんは、美樹さんと一緒に納得を――していないで、誰かフォローして!?
俺の心の叫びは、今のところ誰にも届いていなかった。
■■■
スマートフォンが鳴るのが聞こえて、道場をいったん出る。稽古中で、みんなの掛け声が道場内に谺して、とても音声通話ができる状況じゃなかった。
雪姫が不安そうに、こちらに視線を送る。
――すぐ戻るよ。
そう目で伝える。雪姫はコクンと頷くのが見えた。
――早く帰ってきて。
そう雪姫が、視線を投げかけてくる。お互い、なんとなく相手がそう思っているのが分かってしまうから不思議だった。
「冬、久しぶりだね。ん? なんか周りが賑やかじゃない?」
電話をかけてきたのは母さんだった。他の面子なら折り返し掛け直すのだが、こと母さんは分刻みのスケジュール。これを逃すと、次はいつ話せるか分からない。多少、無理をしても今まで時間を捻出したいとこれまでは思っていたけど――今回ばかりは、この時間が、勿体ないと思ってしまう。
「今、空手道場にいるからね」
「空手?」
母さんが、明らかに困惑しているのが分かる。今までCOLORSの在籍時期を含めて、色々なことに挑戦をしてきた。でもそれは、みんなに背中を押されて、渋々の参加だったことは否めない。
「……さっ君から聞いたけど、冬、彼女ができたの?」
母さんは、複雑そうな感情をその声に滲ませる。ちなみにさっ君とは上川皐月――父さんのことだ。この夫婦、さっ君、はるちゃんで昔から呼び合っているのだ。聞いている方は何ともむず痒い。
「うん。すごく良い子だよ。支えてもらってるし、俺が支えたいって思ってる」
母さんに話すとしたら、どう雪姫のことを説明しようかと、ずっと考えていた。いざその時になって、ごく当たり前に、雪姫のことを伝えることができた気がする。
支えられてる。だから、俺が支えたい。これは偽らざる自分の、本心だった。
きっと電話の向こう側で、母さんは目を丸くしているのが想像できる。
「そっか……。冬も成長したんだね」
「ま、俺も高校生だしね」
「彼女さんを泣かせるようなことはしちゃダメだよ?」
「そりゃ、勿論」
キッパリと言う。電話の向こう側で母さんが唖然としているのを感じた。そりゃ、そうか。幼馴染の陰に隠れて、自分の意見なんか、少しも出すことができなかったのが俺なんだ。
そんな俺の最大にして人生初のワガママ。それがCOLORS脱退だったのだ。
「冬、本当に変わったね」
しみじみと、母さんは言う。
「今の冬ならCOLORSでやれるんじゃ――」
「それは無理かな」
断言する。母さんが息を呑むのが、しっかりと聞こえた。ごめん、って思う。でも、色々な意味で、元の生活には戻りたくないと思ってしまうのだ。
自分には才能がない。センスもない。ショービジネス――ステージの上に立てるカリスマもない。決定的に父さんや母さんと、俺は違うということを痛感した。
それに、って思ってしまう。俺は雪姫と過ごすこの時間を絶対に手放したくない。心の底からそう思っている自分がいるのだ。
と、向こう側から、それこそ聞き慣れた声が飛び込んできた。
「小春、そろそろ、次の予定が詰まっているから――」
マネージャー、柊さんの声。
ピッ。
俺は思わず、スマートフォンの通話を終了させた。
電子音だけが、鼓膜の奥底に残響する。
まだ5月だというのに、燦々と日差しが眩しい。それなのに、体が薄ら寒いのはどうしてか。
道場からは、チビっ子たちに混じって、雪姫達の「セイッ」という掛け声が響く。
つい聞き耳をたててしまう。
その声が、まるで遠ざかっていくような――置いて行かれそうな、そんな錯覚を覚えて体が寒い。、
雪姫の声をもっと聞きたい。その温度に触れたい。切実にそう縋ってしまう。さっきまで照れ臭くて、恥ずかしがっていクセに、何て身勝手なんだろうって思う。
そんなことばかり考えていたから――麻痺していたのかもしれない。
叩きつけれれるような敵意に、思わず背中が凍りつく気がして、ハッと、我に返った。、
顔を上げるまでにタイムラグはあった。
道着に身を包んだアイツが、問答無用で俺を睨んでいる。
溢れているのは、敵意。悪意。敵視。そこには一滴の懇意すら存在を許さないと言わんばかりだった。
「てめぇが何でココにいるんだ?」
「……お、大國?」
俺が声を発するより早く。
大國圭吾が躊躇なくステップを踏む。
彼は一切の手加減もなく、俺に向けて飛び蹴りを放とうとしていた。




