056「カノコ、長い夏休みが終わる」
誕生日まであと二日に迫った、八月七日金曜日。
前髪を横へ流してアメリカピンで留め、長袖のブラウス、タイトスカート、パンプスという就活ルックを身にまとい、鞄に必要な物を忘れていないか再三チェックした上で、私は面談会場へ向かった。
阪急岡本から新開地行きの特急で終点まで向かい、神戸電鉄に乗り換え、有馬温泉行きの普通に揺られること二十分。乗り換えも含めて四十五分で、山の街駅へと到着した。改札を抜けると、神戸市内とは思えないほど、どこか長閑な風景が広がっていた。中央区のような高層ビル群の姿は見えず、街行く人々の足取りにも余裕が感じられる。
「悪いね、わざわざ店まで来させてしまって」
「いえ。職場の場所や雰囲気が把握できたので、かえって助かります。お洒落で、綺麗ですね」
「ありがとう。ここでは、長く使っていただくために、顧客のニーズに合った最適の家具を提案するというのがモットーなんだ。だから、この店も、この店にあったベストの家具を配置してるんだよ」
「なるほど。だから、居心地が良いんですね」
お世辞ではなく、本心で褒めている。社長さんの優しそうな人柄がそのまま形になったような、温もりある家具が個性を邪魔することなく配置されている。今、何気なく座っている三本脚のイスや洋梨型のテーブルも、きっと購入すれば札束がヒラヒラ飛んで行く額に違いない。
提出書類に目を通していた社長さんは、私の緊張が解れてきたのを感じ取ったのか、具体的な話を詰めにかかった。
「中小企業だし製造と違って専門職ではないから、最初の月は、これくらいになるよ」
「これは、手取り額でしょうか?」
「もちろん。税金や社会保険料なんかを引かなければ、もう少し高くなるよ。それから定期代を含む交通費は、別途支給します。まぁ、専門学校を出てるお嬢さんには、いささか安い気がするけど」
「いえいえ。前の職場は、手取りにするとこれより安かったので、驚いてます。言い難いんですけど、残業や休日出勤を命じられることは?」
「基本的には、無いと思ってください。ただ、二ヶ月に一度ほど、土曜日に半日ほど出てもらうことをお願いする場合があります。無論、その分の手当は出しますので、ご安心を。必要であれば、翌週の平日に代休を申請してもらっても構いません。他に、何か質問は?」
「特にありません。正直、条件が良すぎで、戸惑ってます」
「場所が場所だから、働く人も、店に来る人も、多少の不便を我慢してでもココへ来ようという気にさせないと、定着しないからね。それじゃあ、九月からよろしく!」
「はい。よろしくお願いします!」
三分面談のはずが、いつの間にか一時間半近く話し込んでしまったらしく、時計を見ると十一時半を過ぎていた。今から真っ直ぐ帰ったとしても、家に着く頃には確実に十二時半を過ぎるだろう。買い物をするとなれば、一時を回るに違いない。
そんなことを計算していると、社長さんはイスの背に掛けたジャケットから長財布を取り出しながら、至って気軽に提案した。
「この近くに、美味しい中華料理店があるんだけど、行ってみるかい? 断ったからと言って、内定を取り消すことは無いから、嫌なら帰っても良いけど」
「行ってみたいです」
社長さんについて行くと、そのお店は駅のすぐ近くで、オススメされた海鮮あんかけ焼きそばは、野菜がたっぷりで絶品だった。
頑張って早く仕事に慣れて、手頃な物件を見つけて引っ越そう。改札口で社長さんと別れ、ホームで電車の到着を待つあいだに、私は、密かに決意したのだった。それと同時に、これで、ようやく長い戦いが終わったのだと、ホッと胸を撫で下ろした。




