030「カノコ、朝から頼み事をされる」
さて。今朝は起床早々から、面白いものが目に飛び込んできた。
ドアを開けて廊下へ出ると、階段の吹き抜けと廊下を隔てる木製の柵の隙間に、紙コップが挟みこまれていた。近付いてよくよく見れば、紙コップの底には糸が貼り付けられ、糸の先は階段の下へと続いている。そして、紙コップには0から9までの番号と「もしもしふぉん」という平仮名が書かれている。
挟まれている紙コップを柵から外して手に取り、そっと耳に当ててみると、糸越しにトウマくんの声が聞こえてきた。
『ピンポンパンポーン。こちら、もしもしふぉんです。きこえたら、おへんじください。どうぞ』
「聞こえるわよ、トウマくん。どうぞ」
『おはよう、カノコおねえさん。どうぞ』
「おはよう。今朝のメニューは何ですか? どうぞ」
『あさごはんは、おかあさんのきまぐれふうていしょくです。どうぞ』
とまぁ、しばらくトウマくんと、他愛もないやり取りをやっていた。が、そのうちに、お姉ちゃんから「遊んでないで、早く降りて来なさい」との命令が飛んできたため、電話ごっこは中断を余儀なくされた。
紙コップを柵に挟み直し、諸々の身支度を整えて食卓へ向かうと、トウマくんはすでにトーストにマーマレードを塗りはじめていた。バターナイフで掬って塗り広げているのだが、力み過ぎているせいで、オレンジピールが埋まってしまっている。
「トウマくん、もっと軽く塗った方が良いんじゃない? せっかくのパンがデコボコよ?」
「いいのいいの。きょうのパンは、にわりびきだから」
今朝のパンは、このあいだ取りに行ったフロイン堂のパンではなく、昨日、コープで買ったおつとめ品であることを、トウマくんは分かっているようだ。まぁ、明らかにパンの形が違うし、焼いたあとの香りも違うから、気付かない方が鈍感か。
私はトースターにパンをセットし、冷蔵庫から牛乳を、洗い篭から逆さに置いてあるグラスを手に取ってトウマくんの隣に座る。と同時に、あり合わせ野菜のサラダを盛りつけたボウルをトウマくんと私の前に置きながら、お姉ちゃんが言った。
「トウマ。何か言う事を忘れてるわよ?」
「おはようなら、いとでんわでいったよ?」
「そうじゃなくて。今日は、このあと、どこへ行くんだったっけ?」
「あっ、そうだ!」
トウマくんは、トーストを食べる手を止めると、ニコニコと嬉しそうに私の顔を見ながら言った。
「きょうは、イケアにいくよ。ぼくも、おりょうりできるようになるの。ポートライナーものれるんだ」
「んんっ? どういうこと?」
眩しい視線を避け、トウマくんからお姉ちゃんへと視線を移すと、簡潔な説明が返って来た。なんでも、IKEAには子供サイズのキッチングッズがあり、それをトウマくんに買い与えて、さっそく今晩から調理を手伝わせようということだった。そして、他にも買いたい物があるので、荷物持ちについて来てほしいとのこと。昼前に行って、ランチはそのままフードコートで済ませるつもりらしいので、行かないのも変な話だからと承諾したが、腑に落ちない点も言っておく。
「何で昨夜、言ってくれなかったの?」
「今朝の広告を見て決めたからよ。ほら、これが、そのキッチングッズよ」
そう言って、本日付けの神戸新聞に折り込まれていたチラシを見せられた。ご丁寧に、該当箇所に赤いマジックで丸まで付けてある。うーん。フットワークが軽いのは結構だが、こちらの予定も聞いて欲しいものだと思う。立場が弱いから、口には出さないけどね。




