025「カノコ、背筋が凍る」
幽霊の正体見たり枯れ尾花。怖い怖いと思っていると、風に揺れる柳の影や天井板の木目が、お化けに見えてくるものだ。
昼間の明るいうちには、隅々まで光が届いて丸見えだから恐ろしくないものでも、ひとたび陽が落ちて暗闇に包まれると、視認性が大きく失われることで、漆黒の向こうに何か隠れているのではないかという想像がはたらいてしまうのかもしれない。
「カノコおねえさん」
「あら、トウマくん。まだ起きてたの? 早く寝なくちゃ」
「うん。でも、おしっこしたくなっちゃって。おねがい、いっしょにいって」
控えめにドアを開け、トウマくんは恥ずかし気に俯きつつ、もじもじと股間を押さえながら頼んできた。そういえば、小さい頃は、熟睡しているお母さんを起こして、よく下までついてきてもらってたなぁ。
我が家には二階にトイレが無いので、夜中に尿意を催した際は、わざわざ一階まで降りなければならない。今でも不便な構造だと感じるが、お年頃で自意識過剰かつ潔癖症気味だった中学高校時代は、自分専用のトイレが欲しいと思ったものだった。
「ぜったい、てをはなさないでね。ぜったいにぜったいだよ?」
「大丈夫よ。しっかり握っててあげるから、おもらししないうちに、早く行きましょう」
階段はギイッと音を立てるとお化けに気付かれるから、一段一段ソーッと降りてとか、リビングのテレビに姿が映るとディスプレイの向こう側へ吸い込まれるから、廊下とのあいだのドアを閉めてとか。子供にしか分からない謎のルールを守りつつ、私とトウマくんは、日中は一分で行ける距離を五倍以上の時間を掛けて、ようやく洗面所の横にあるトイレへと辿り着いた。
「かってにおへやにもどっちゃダメだよ。ちゃんとドアのまえにたっててね。こえがしても、へんじしちゃダメだよ。たべられちゃうから」
「安心して。ここを離れることは無いから」
ドアの向こうでトウマくんが用を足しているあいだ、私はダイニングを見張るように立っていた。
桿体細胞のはたらきで暗順応してきた眼で見渡すと、色は分からないながらも、どこに何が置いてあるかくらいは充分に判別することができる。遠い昔の生物の時間に習った知識を思い出し、妙に懐かしく感じていると、水の流れる音とともに、トウマくんが姿を見せた。
「おわったよ。てをつないで」
「はいはい」
このあと、冷蔵庫が立てるブーンという重低音や、製氷が完了して自動で小引き出しに氷が落ちるゴロゴロッという乾いた音に驚くトウマくんを宥めつつ、行きと同じくらいの時間を掛けて二階へと戻った。
「おやすみ、カノコおねえさん」
「おやすみ、トウマくん。一人で眠れそう?」
「へいき。ここまでくれば、あんぜんちたいだから」
そう言って、トウマくんは自分の部屋へ戻った。大人になって知識が増えると、ちょっとやそっとでは驚かなくなり、また、空想の翼を広げることも無くなる。だから、感受性豊かなトウマくんの反応を見ていると、いっそう可愛いものだと感じる。
だが、話はコレで終わらなかった。
「えっ? きのうはぐっすりだったから、カノコおねえさんのおへやになんか、いってないよ?」
翌朝、起こしに来たトウマくんの口からこの発言が飛び出したとき、私はゾッと寒気がしてしまった。強がりで嘘をついているのか、はたまた、本当にトウマくんでは無かったのか。真相は、真夏の夜の闇の中だ。




