31 月に、いつか手が届く。(side Keith)
月魔法を今は使うことが出来なくなっているオデットは、成人してからの本格的な勉強に四苦八苦しながらも学ぶことを楽しみつつ、未知の世界の知識を吸収していくことに貪欲なようだった。
(若い時の、俺も……あれくらい勉強をすることに熱心になれていたら、良かったのかもしれない。まあ。無理か。自分で言うのもなんだけど。必要最低限しかやらない不真面目の権化みたいだったもんな)
居間にある大きな机にいくつかの分厚い本を広げて課題を書き出しているオデットを見て、品行方正だったとは言い難い騎士学校時代の自分を思い出しキースは苦笑した。
竜に選ばれるための前段階としての竜騎士候補生になるためには、騎士学校時代に乗り越えなえればならない高い壁は数多かった。だが、若かったキースは自身の不遇に我慢ならなかった。斜に構えていた騎士学校時代には、とてもあんな風に真面目に勉強をしていたとは言えない。
可愛らしい色の羽根ペンを使ってせっせと勉強に勤しむオデットの姿に、キースは自然と目を細めた。
あれくらいのひたむきさで学ぶことを続けることが出来れば、彼女はきっと自分のなりたい自分へ変わっていけるはずだ。
(けど俺は。オデットが、別に何をしてくれなくても。別に良いんだけどな……邸の管理なんかは、優秀な執事を見つけて雇えば、どうとでもなるし……オデットを、何か面倒に巻き込みたくもないんだが。行きがかり上、対抗馬っぽい顔をしているだけで。心労だけが重なる王になりたいとは、かけらも思ってないしな……)
複雑な立ち位置にある自分を手伝うためにと、オデットがせっせと必要な勉強をして頑張ってくれているのは良いのだが。
こんなにすぐ傍に居るというのに、完全に彼女にほったらかしにされている状態の自分にキースは何とも言えない気持ちになった。
こうして、たまの貴重な休みの時にも、オデットにキースのために必要だからと言われ、勉強をされてしまうと手持無沙汰なのは否めなかった。
(自分のために頑張ってる女の子に、勉強やめて俺とイチャつかないかと言ってしまうようなダサいこと出来ないしなー……どうするかな。こうしてその姿を見ているだけでも、癒されることは癒されるけど。せっかくの久しぶりの休みだしなー……)
ヴェリエフェンディ周辺国は、いつも通りの事だが小競り合いが絶えずにきなくさい。
強気な魔法大国ガヴェアは機会があれば必ず何かを仕掛けて来るし、同盟を組んでいる隣国イルドギァも領土拡大を狙う抵抗勢力に常に脅かされているのだ。
キースは、国防を担っている竜騎士団の団長だ。役職の重要性から、休みは少ない。定期的に決められた休みもあるにはあるのだが、団長が居ないと回らない事が多過ぎる。もし何かあれば休日だとしても、出て行かざるを得ない。
(はー……まさか自分が。こんな……その勉強と俺と、どっち大事なのよと言ってしまいそうな心境になるようになってしまうとは……マジか。未来は、本当に何が起こるかわかんねえなー……)
言われた記憶はあるにはあるのだが、あの子はこういう気持ちだったのかと今振り返って思ったりもした。悪いことをしたなと、過去の日の所業についての反省もあり。
(素直に、思っている事を言えば良いだろう。俺と遊んでくれと)
心の中に契約を結んだ相棒の声がいきなり聞こえて、キースは無言のままで憮然とした表情になった。
(うっせえ。こういう事は、別に嘘でも聞いてない振りしろ)
セドリックがキースの恋愛沙汰に意見して来るのは、今思い返せばオデットだけだ。こういう事には特に興味なさそうな顔をして、本気度がわかっていたのかもしれない。
(街にでも、誘ってあげれば良いんじゃないか。このところ忙しくて外出をしていないし、あの子は涼しい夏の服を欲しがっていた)
キースが城で執務をしている間、相棒のセドリックは人化して大体オデットの傍に居る。
別にそれをして欲しいとは、言ってはいないのだが、すぐ傍に竜が居ればガヴェアの魔法使いも近付くことは出来ない。理解しているセドリックは、何も言わずにオデットの傍に居る。
(んー……どうするかな……一回、お茶でも淹れて、休憩しようかって言ってからにするか……)
真面目な表情で机に向かいせっせと勉強をしているオデットを横目に、恋人に構って貰えないので不満を感じるという、人生初の感情を抱えているキースは頭を悩ませた。
◇◆◇
遠慮がちなカーテンが開く音がして、キースははっと目を覚ました。
自分の腕の中に居ると思っていた存在が、窓際で空を見上げていた。目を瞬き薄闇に差し込む光から、もう朝が来たのかと軽く欠伸をした。
「……おはようございます。キース」
衣擦れの音がしたせいかキースが起きた事に気が付いて、オデットは微笑みつつ挨拶をした。
「ああ……おはよう。どうした。こんな早くに。目が覚めてしまったのか?」
夜明けは来ているとは言え、今はまだ薄暗い。起き抜けの声のキースに、オデットは嬉しそうに首を横に振った。
「ふふ。この世のものとは思えないほどの、とても美しい風景を見ていました」
意味ありげな彼女の言葉に、何を見ていたのかを察してキースは上半身をゆっくりと起こした。
「イクエイアスか」
「はい。本当に、夢みたいで……ちょっとだけ。不安になります。自分が今こうしているのも、夢の中なんじゃないかって」
薄紫色の夜明けの空を泳ぐ上位竜に、うっとりと見惚れてオデットは呟いた。ほっそりとした小さな背中に近付きつつ、キースは彼女込みの美しさを心に焼き付けた。
「はは。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。この世界は、本当に不思議だな。そう思わせるほどに美しいものが存在している」
「綺麗……」
「まあ……確かに……この風景はとても綺麗だが、俺はオデットの方が綺麗だと思う」
「それって、口説いてます?」
いつかの言葉をまた繰り返したオデットに、キースは彼女に手を回しつつ笑った。
「さりげなく言ったつもりだったが、わかったか」
オデットは少しだけ嫌な表情を浮かべてから、結局はパッと花咲くようにして笑ってくれた。
ほんの少し前まで何も知らなかった彼女も、若くない男の面白くない冗談への正しい対応を判ってきたらしい。
誰も。こんな面倒な男の横に、並び立ちたいなどと望まなかったはずだ。少しでも損得を計算してしまう女なら、もっと楽に幸せになれる男を選んだはずだ。
だがオデットは迷う事なく、キースの傍に居ることを選ぶと言った。そして、自分が救い庇護していたはずのかよわい女の子が、まさかこの自分の窮地に救ってくれるという奇跡を起こした。
思えば今まで、何も諦めずに走り抜けた。
手をすり抜けて失うものも多かったが、得たいと願ったものも。また、今この手にあった。
(叶えたければ、願え。大事な彼女を一生守り通す事が出来る力を持っている今の自分を、誇れ。不運な身の上だったことなど、いつかの笑い話にすれば良い。願い夢を見ることを諦めずに、走り続けることが出来れば……)
「……いつか。月にも、手が届くのかもな」
「今、朝ですよ?」
「知ってる」
Fin
お読み頂きありがとうございました。
もし良かったら、最後に評価していただけましたら幸いです。
また、別の作品でもお会いできたら嬉しいです。
待鳥園子




