26 失っても
「……キース! キース!」
こちらを見上げている竜騎士団長の待つ砦の発着場にゆっくりと舞い降りた銀竜の鞍から、気を急いて慌てていたオデットは足場を踏み外し地面へ落ちて派手に尻を打った。
「オデット! 良かった! 怪我は、してないか……大丈夫か?」
キースが血相を変えて駆け寄って、座り込んだままのオデットを優しく抱き起こした。
(なんとも……なってない? ……普段通りのキースだ! 生きてる!)
もしかしたらもう会えなくなってしまうかもしれないと思って居た人の無事の姿を見たオデットは嬉しさの余り周囲のことなど気にせずに、彼の大きな身体に抱きついた。
キースは驚いた表情をしていたものの、大きな手で優しく抱き締めてくれた。
「セドリックからの実況中継を心の中で聞いていたが、本当に生きた心地がしなかった。だが……ありがとう。オデットに、俺たちは命を救われたんだな……」
背中をポンポンと叩きながらしみじみとして彼が呟いた言葉に、オデットは涙を堪えることが出来なかった。
「私っ……もうっ……ダメかと思って……もう、会えなくなるかと思っ……」
俯いていたオデットはぐいっと顎が引かれたと思えば、すぐ近くに美しい紫色の瞳があった。
「オデットが決死の覚悟で救ってくれて、こうして会えている。俺も、俺の部下も。皆、何事もなく無事だ。この砦に辿り着いた時に確かに嫌な予感はした。だが、俺の目算ではオデットを追い掛けていた鉄巨人が、何匹が来るくらいかと踏んでいた。もしそうなった時には、対抗策となるような作戦は既に立てていたし。どうにかなるかと、思ってはいたんだが……黒い大蛇は完全に、思いもしない伏兵だった。オデット、ありがとう。お手柄だった」
そう言ってキースが腰を持ってオデットを掲げ上げるようにすれば、周囲に居た居る竜騎士や砦を守る兵士たちの皆から拍手を受けた。
キースの事しか目に入って居なかったオデットは恥ずかしくなって軽くお辞儀をしただけに留まった。
「……良かった。上空からは中の様子は見えなかったんですけど、砦には、沢山の人が居たんですね」
高い位置から周囲を見回して、数多くの人に囲まれていることにオデットは驚いていた。
敵国であるガヴェアとの国境付近にあるという重要性のせいか、砦には守備を固めるために多くの兵士が配置されているようだった。
「……ああ。見たか。全員をオデットは、一人で救ったんだよ。何度、感謝を言っても足りない。王から、御褒美でもねだるか? なんでも叶えてくれそうな、大手柄を立てた」
揶揄うようにそう言って、オデットが先ほどまで必死に頑張った結果の功績を自覚することが出来たと見たのか。
キースはゆっくりと小さな身体を降ろして、自分の腕の中に彼女を戻した。
「ふふ。王様も、褒めてくださるでしょうか?」
はにかんだオデットに、キースは笑い掛けた。
「もちろんだ。良く、勇気を出してくれた。俺たちは黒い大蛇が近くに来た時から、砦から出られなくなって居たんだ。恐らく、時間を掛けて完成させた魔法を発動させたらしい。普段の戦いであれば時間さえ稼げれば、どうにかなるはずだった。わかりやすく、罠に掛けられたんだな……悪い予感を感じたと思った勘は本当に、大事だなー……思惑とは違った方向だったがセドリックをオデットの元に向かわせて居なかったら、俺は今頃あの世に居たかも知れない」
キースの言う通り空を飛ぶことの出来るセドリックがオデットの所に来てくれなければ、彼を救うことは出来なかった。
「……もうっ……縁起でもない事を、言わないでくださいっ……」
怒った顔をしたオデットに、キースは楽しげに笑った。
「はは。これは無事に助かったからこそ言える、いつもの面白くない冗談だ……だが、あのいきなり輝いた眩い白い光は一体、なんだったんだ? あの後には、何故か砦からも出られるようになっていた。それまで何をしても、無理だったのに」
キースは、不思議そうだった。
彼の竜からは聞いただけでは、オデットに起こった事を全て理解して居ないのかもしれない。
(……そういえば、セドリックって本当に自分がしなくて良いことはしない主義なんだよね。物ぐさって言うか。もう。私が自分でキースに説明すれば良いって、思ったのかな……)
寡黙な性格のセドリックは、自分の口から出てくる言葉を出来るだけ減らしたい気持ちがあるらしい。心の中でも無口だと言われているから、その拘りは相当なものなのかもしれない。
「あの……どうか、驚かないでください。私、月の女神様とお話しすることが出来ました」
◇◆◇
光に包まれたその瞬間涼やかな声は、唐突にオデットの頭の中に響いた。
神に近い種族上位竜であるイクエイアスと話した時のように、空気を震わせる音もなく聞こえてくる不思議な声。
(私の可愛い女の子。ようやく、こうして話し掛けてくれましたね)
声は、嬉しそうでも楽しそうでもあった。
「女神様!? お願い。皆を助けたいの! お願い! 力を貸してください……お願いします!」
頭の中にだけ響く声は、闇に垣間見えた一筋の光に見えた。もしかしたら、このまま絶望に向かってしまうかもしれない道筋が、これで方向転換出来るかもしれない。
姿が見えぬ声の主に祈りを捧げるように、オデットは両手を組んで祈った。
(落ち着きなさい……でも、私を今まで嫌っていたでしょう。随分と虫の良い話だと、思わない? 願いを叶えてくれる私のことが、嫌いなんでしょう?)
揶揄うような言葉は、別に本気ではなさそうだった。だが、嫌っていた本人にそう言われてしまえば、それを知られていたオデットは、居た堪れない気持ちで一杯になった。
オデットは大きく息を吸い込み息を整えてから、彼女へ向けて声を出した。
「……確かに。私は幼い頃からの自分の自由を奪ったこの能力を、憎んで来ました。けれど、それを与えてくれた貴女を嫌うことは間違って居ました。ごめんなさい」
オデットは、今まで彼女を嫌っていた事が自分勝手な言い分だったと素直に詫びた。
(素直で、可愛い子。好きな人が出来て、変わったのね。強くもあるけど、ある意味では、弱くもなった。私のあげた月魔法は、生きていく中で邪魔になってしまったかしら)
「いいえ。私の好きな人に、出会えた。それは、貴女に愛されなければ、出来ない事だった。今は、ただ心から感謝しています」
それは、オデットの思っていた嘘偽りない本心だった。
彼女に愛されていなければ、広い草原で走っているところを偶然通りがかった竜騎士に救われるという奇跡的な出会いはなかっただろう。
(あらあら。そう言われては、許さざるを得ないわね。ふふ、良いわ。私だって、愛した子に嫌われるのは辛かったわ……けれど、そこは私から遠い。貴女の中にある力を使うわ。当分、月魔法を使えなくなるけど構わない?)
月魔法を使えるという事が、自分の価値だと思っていた頃なら、それは辛かったかもしれない。
(何でも持っているキースは、私を利用してどうこうしようなんて……かけらも思っていない。ただ、私のやりたいようにすれば良いと仕事もさせてくれただけ。それを、信じられる。共に過ごす中で、彼がいつもそう言ってくれて、態度でも示し続けてくれたから)
「構いません。どうか、お願いします」
(それでは望みを、我が愛し子)
楽しげな言葉の最後は一変、彼女が誰かを思い起こさせるような厳かな口調。
「どうか……私の大事な人たちを、助けて欲しい。お願い」
(叶えましょう)
そうして、降り注ぐような圧倒的な光にまた包まれた。オデットの身体から放たれた光だったのかもしれない。
信じられない程の光量に眩んでしまったオデットの目が、慣れて元通りに見えるようになるまでにある程度の時間がかかった。
(……砦が、黒く……なくなってる? 良かった! ありがとうございます)
先ほど見る間に黒に侵されていた砦は、今では元通りの夜でもわかるような白い石造りの砦に戻っている。
ほっと大きく安心したオデットの視界の中に大きな足音を響かせていた鉄巨人に散らされ逃げているガヴェアの軍勢の方向に、一瞬だけ黒い光柱が立った。
(カイル……自ら言ってたけど、あの呪いは術師に返されるって言ってたもんね……知っている人に死んで欲しい訳ではないけど。あの可哀想な鉄巨人も黒い大蛇も、もう二度と異世界から呼び出されることがなくなるなら、その方が良いのかもしれない……)
自分にとって今まで憎むべき嫌な相手だったとしても、それでも。命を落としたのかと思うと、憐憫に似た複雑な気持ちが湧いた。
カイルは魔法大国の中でも特に召喚の術に優れていて、異世界から召喚するという実験にも似た悪行を繰り返して来たはずだ。
そうして、自分にとって便利に使役出来る鉄巨人を喚び出しては、逆らえない相手に良いように命を下して居た。
彼らのように喚び出されたまま、元の世界に帰ることの出来ない悲しい存在がオデットの知らないだけで数多く居るはずだった。
その時、どうしようもない悪夢からようやく目覚めることが出来たかのように。鉄巨人とそれが抱えていた黒い大蛇が、蜃気楼のように呆気なく消えてしまった。




