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「……久し振りだな。オデット」


 まるで街中で会ったので声を掛けたと言わんばかりに気安い声を掛け、ガヴェアの魔法使い達の特徴である黒衣を纏った一人の男が空中に現れた。


 宙に浮いている姿を視認してから、すぐにセドリックが反射的に攻撃を仕掛けようとしたのを止めた。その理由はしごく簡単で、彼に乗っているオデットもそれを理解していた。


 男の身体は、まるで死人が現れる時に語られる幽霊のように、不思議に透き通っていたからだ。


(……ここには、存在はしていない。でも……魔法で、遠方からその姿をここに投影しているのね……)


 オデットも、そういった便利な魔法が存在することは知っていた。


 ただ、これは魔力も相応に強く高位に上がれる程の魔法使いにしか使えないので、それを見る機会が今までに一度もなかった。


 その透き通る男の姿を見て、嫌な表情になってしまう事は止められなかった。


「貴方……カイル……? 私に、何か用なの? 貴方の鉄巨人を使ってあの大蛇を退けたことなら、絶対に謝らないから」


 黒いフードを目深に被り、顔はこちらからは見えない。


 だがその男にしては高い声は、良く知っていた。オデットが逃げ出せば、鉄巨人に連れ帰られる際に必ず見ていた嫌な顔だった。


 嘲るような笑顔を浮かべていた、大嫌いな男。


「どうせ。お前には、結局は何も出来ないだろうな。人を癒す事のみに特化した月魔法しか使えない。それがなければ守られる事しか出来ずに、何の役にも立たない人形だ」


 何度も何度も繰り返し洗脳を施すように言われ続けて来た言葉に、オデットは思わず奥歯を噛み締めた。


(私が彼らに囚われて居た時に人形だと見られていたのは、自分の心を守るために仕方のない事だった。今居るどうしようもない境遇も辛いことも、何もかも感じないように。来ない助けなんて、期待なんてしないように。自分を嘲るような人間に、何かを媚びるような真似なんて、絶対にしたくない。逃げ出しては連れ戻される私を、ゴミのように見るカイルのことを、ずっとずっと嫌いだった。でも、彼に抱いていた気持ちが何かをわからなくなってしまう程に、あの時は心を閉ざして来たんだ)


「貴方たちが……私に、そう思わせていたいのは、もう知っているの。月魔法を使うことしか何も出来ないと思わせておいて、私を利用したかっただけでしょう? 今は、あの頃のように何も知らなかった私じゃない。自分で考えて自分で決められるわ。それに、もう教えて貰ったの。自分が嫌いな人間の言うことになど、絶対に耳を傾ける訳がない。早く、私の前から消えて。何を言っても、もう無駄だから」


 彼らが何をしたいかは、ずっとわからない振りをして理解していた。


 自尊心を打ち砕いたオデットを利用して、自分は大金を稼ぎたい。どんな甘い言葉を掛けられても、どんなに脅されたとしてもそれに従うことなんて、絶対にしたくない。


「ご立派な御託を捏ねるようになったものだ……それでは砦に居る連中を、お前は見捨てるんだな」


 カイルが皮肉げに言った言葉を聞いて、オデットは息を呑んで眉を顰めた。


 先ほど鉄巨人が、いかにも怪しげな黒い大蛇を連れ去ったところを彼も見ているはずなのに。


「何を……言ってるの?」


 返す声が震えてしまうのは、仕方ない事だった。あの草原でキースが救い出してくれるまで、オデットにとってはカイルは絶対的な存在でもあった。


「お前にはわかっていると思うが、あれも異世界から来たものだ。とても扱い難い黒い大蛇は、とある特殊な魔法を使うことが出来る。喚び出した俺があれに命を下せば、その対象を呪う。代償としてそれが果たされなければ、俺に呪いが返ってくるがね……未知のものに対する対応は見事なものだったが、おかしいとは思わないか? お前が、黒い大蛇を退けたというのに、竜騎士は出て来ない。それは、出て来れないからだ」


 カイルは、滔々と謳うようにそう言った。


 作戦として一度砦の中に引いたとしても、その危機が無事に去った今、竜に乗り誰かが様子を見に飛んで来ても良いはずなのに誰も上空へ上がって来ない。


「……まさか」


「だから、お前には何も出来ないと言った。俺たちは、お前が奪われてから十二分に時間を掛けた。何も知らずに用意も出来ていなかったヴェリエフェンディの竜騎士たちに、対抗出来るかどうか見物だ」


(そうよ……キースは不思議がって居たじゃない。私を奪われ国に所属する飛行船を拿捕されたのに、何も言って来ないからおかしいと……ずっと、こうして用意を重ねて居たから……)


 ゾッとした寒気が、オデットの背中を駆け抜けた。月の女神に愛されただけなのにそんな自分に対する、気持ち悪い程の執着心を感じたからだ。


「……砦全体を、呪った? 嘘でしょう? そんなこと……出来るの……」


 あの大きな砦全体にそんなことが出来るのかと呆然として呟いたオデットに、カイルはどこか遠くを見るようにして言葉を返した。


「真っ白な石造りのご立派な砦が、どこか……下方から黒ずんでいくように見えないか。やっと救われたと思っていたお前にとって、大事な人間達がじわじわと死ぬ恐怖を味わえる。とても、楽しいじゃないか。なかなか出来る事ではない。羨ましいことだ。絶望の中に居る頃に迎えに行ってやるよ」


 怖気が立つような事を言い残したカイルは、あっという間に姿を消した。パチパチと目を瞬いても、暗い夜が見えるだけ。


(そんな……)


 セドリックはカイルがいなくなってから、どんなにオデットが頼み込んでも降下する事をしなくなった。


 彼は契約した竜騎士のキースと心の中で話すことが出来る。異変の起こりつつある砦には、絶対に来るなと厳命されたのかもしれない。


 こうして見ると上空からは、砦の中の様子はわからない。


 オデットがどんなに焦っても泣いても、夜に浴びた月光の力を使って一人を救うことだけしか出来ないというのに。


「セドリック! なんで、降りてくれないの……? どうしよう……どうしよう……でも、降りたとしても、私にはきっと一人しか救えない。あの砦には多くの人が居るのに!」


 襲い来る真っ黒な絶望を感じて、オデットは悲鳴に似た声をあげた。


 あの恐ろしい大蛇を禍々しい鉄巨人をどうにか利用する事で、この場所から取り払い彼らを上手く救えたと思っていた。


 まさか、間に合わなかったなんて少しも思わずに。


 その時、セドリックはふわっと翼を羽ばたかせてゆっくりと上昇を始めた。先程から曇り出した空には多くの雲が散って、月や星を遮っていた。


(……セドリック、なんで? ……ああ、月が……大きい)


 そういえば、今夜は満月だったとオデットは思い直した。


 だからと言って、非力な自分には何も出来ずに、大事な人たちが死んでいくのを見守るしかない状況は変わらない。


 オデットが、月を見てこれまで生きて来た中でしなかった事をしようと思ったのは、ただの偶然の閃きだ。先ほど、鉄巨人を利用して大蛇を取り除こうと思った時と同様に。


 愛されているとされ、月魔法を使うことの出来る理由であるかの人に、話し掛けようなんてそれまで思ったこともなかった。愛されたくなんてなかったと、ずっと思って来たからだ。


(月の女神様……お願い。私は、皆を救う力が欲しい……お願い。どうか。あの呪いを解く力をください)


 オデットはこれまで愛してくれているとされている月の女神をずっと嫌ってきた。憎んで来たと言っても過言ではないかもしれない。


 月魔法を使えるという稀有な能力がなければ、誰かに利用されることもなかった。


 利用価値のある存在だと、自由を奪われることもなかった。普通の女の子として、普通の幸せのある人生を送ることも出来ていたかもしれなかった。


 けれど、キースは自らを過酷な立場へと追いやったヴェリエフェンディの国王を、オデットの鎖を外すために許したのだ。彼だって、オデットがあった立場と似ていた。自分は望まぬ恩恵を受け、憎まれて苦しんでいた一人だった。


 だから、オデットは今まで拘ってきた何もかもを捨てて、女神に縋った。


(お願い。キースを救いたい。彼の大事な人を、皆を救いたい……お願い……)


 強い白い光に身体を包まれたと思ったのは、ほんの一瞬のことだった。


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