19 心通わせる理由
オデットの能力の詳細はヴェリエフェンディの上層部と彼女が属することになる竜騎士団にのみ、周知されることになった。
戦闘が主な仕事でこの国のために日々戦っている彼らは、大きな怪我を負ったとしても、あっという間に治療してしまうことの出来るオデットを歓迎していた。
万が一情報が漏れれば危険なので城に来る事が出来なくなるとキースが言ったので、秘密を破ることはないだろう。
オデットは月魔法を使うことの出来る日には必ず怪我人が最終的に運ばれる治療院に赴き、出来るだけ重症の患者から順に治療していくことを日課にするようになっていた。
今日も大事な仕事を終えたオデットは鼻歌を歌いつつご機嫌な様子で、城の中にあるキースの執務室からほど近くに用意してもらった部屋で、この国を知るための勉強に勤しんでいた。
歯に衣着せず頼りになるアイザックに、これからキースに相応しいようになっていきたいからどうすれば良いかと相談すれば、この国と貴族などの力関係を学ぶことを勧めてくれたのだ。
(やってみたら勉強、楽しい。やりたいことやれるって、本当に幸せ)
オデットの所有権を握っていた権力者たちは、彼女が賢くなることを決して望まなかった。
庶民には考えられないほどの贅沢な暮らしは与えられるものの、オデットの意志などそこには何の意味もない。ただただ、その月魔法だけを彼らは必要としていたのだ。
「偉い」
昼過ぎに文字を書くことに夢中になっていると、いきなり頭上から低い声が聞こえてオデットは慌てて見上げた。
「キース……びっくりした」
「悪い悪い。俺も声を掛けたんだが、夢中になっているようだった。今日も勉強か。俺も、騎士学校時代は必要に迫られて机に向かって勉強をしていたものだが、もう一回あれをやり直せと言われたら、裸足で逃げるわ。こうしてやらなくても良いことを自主的にやってて、オデットは偉いな」
キースはオデットが積み上げている内の一冊、分厚い貴族名鑑を見て微妙な表情を浮かべた。
「あのっ、私。勉強が好きかもしれません。何だか、知らないことを知っていくの楽しいです」
羽根ペンを置いて嬉しそうにキースを見つめれば、彼はオデットの結っていた長い髪を撫でて言った。
「はは。俺のお姫様は、本当に可愛いな。だが、それをもし学生時代に同級生に言うと、自慢に聞こえる発言だ。相手を選んだ方が良い。気をつけろ。俺の偏見も含むが女は徹夜で勉強していたとしても、全然勉強なんかしていないと言い合うのが定番の社交辞令だ。オデットは知識もそうだが、本音と建前を覚えないといけない……立場ある貴族は、建前しか口にしない。そんなもんだ」
「したけどしてないって、言った方が良い? 難しいですね……建前しか口にしないって、嘘しか言わないって事ですか?」
キースが持っている常識をすぐには理解出来ないオデットは、何とも言えない表情になった。勉強していたと言って何故それがいけないのかが、全く予想出来なかったのだ。
「あー、そうだな……俺が言う建前っていうのは、嘘ではない。嘘ではないが、本当の事を隠す事なく並べて言う時はそうそうないって事だ。我が国にも、不毛な権力争いは存在する。まあ、何故か俺自身が矢面に立たされて生贄のような状態になっているのは、非常に遺憾なんだが。敵味方入り乱れる政治的な戦場で、迂闊な発言をすれば命取りになることもある。そう言った意味での、建前だ」
「嘘だけど……本当の事でもない……? それって、お互いに話す必要がある事なんですか?」
オデットの尤もな意見に、キースは苦笑した。
「そのまま純粋なお姫様でいて欲しい気持ちと、着眼点が素晴らしいことに感服する気持ちで複雑だよ。貴族は話す必要など何もない美辞麗句で場を繋ぐのが、大事な仕事だ。好きでもない相手に、お互いお世辞を言ったり言われたり。そういうものだと割り切って、日々を過ごす。だからと言って、庶民は庶民で大変だ。貴族は貴族で、また悩みもあるもんだ。そんなもんだろ」
キースはオデットが疑問に思ったことを、彼なりの意見を入れて答えてくれる。だからと言って、自分自身の考えを押し付けることもしない。あくまで、オデットが自分の意志で動こうとすることを望んでいるようだった。
(キースの、こういうところも好き……ちゃんと聞いたことは教えてくれるけど、私を言いなりになんてしようと思っていない。彼なら、そうしようと思えば簡単に出来るはずなのに)
稀有な能力を持つオデットを懐柔して良いようにしようと思えば、彼にはいくらだって出来るのだ。
けれど、キースがそうして自分の利になるように使おうとした事は一度もない。だからこそ、彼に惹かれてしまうのだとオデットは改めて思った。
「……行こうと思うんだけど、どうする?」
考え事をしている隙に、キースは既に話を進めていたようだった。
「あ。ごめんなさいっ! 私、考え事してて、何て言いました?」
「いや、謝るような事でもないだろ。俺も良くする。竜舎に行かないかって言ったんだ。女の子が見れば喜びそうな、成竜になったばかりのチビも居る。俺が忙しいのもあって、あまり出掛けられないからたまにはな」
多忙だったキースは、最近オデットを街にまで買い物にも連れて行けていないという現状を気にしてくれていたらしい。
「えっ……! 私も竜舎に行っても良いんですか?」
「……別に良い。なんで、そんな風に意外そうな顔をしているんだ?」
慌てて机の上に広げられた勉強道具を片付け始めたオデットを手伝いつつ、キースは苦笑した。
「あんなに家の近所にあるけど、一度も行ったことがなかったから、関係者以外立ち入り禁止なのかと思っていました。けど、私そういえば竜に会ったのは緊急時以外なくて、ゆっくり近くで見てみたいと思っていたので嬉しいです!」
セドリックに乗せて貰った二回もアイザックの竜に乗せて貰った時も、緊急事態に気が動転してあまりに急いでいたし交流を深めることが出来たかと言えばそうではなかった。
「はは。確かに、オデットを連れて行く機会はなかったなー……何かしたいことがあれば、遠慮せずに言ってくれたら良い。俺は竜と違って、心を読むことは出来ないからな。言いたいことがあれば、口に出してくれ。約束だ」
「……今はまだ思いつかないんですけど、他にしたいことが見付かれば言いますね。あの、私そう言えば……キースに前から聞きたいことがあるんでした」
机の片付けを終わらせて、薄い外套を羽織って彼に近づけばキースは目を細めて見下ろした。
「何なりと聞いてくれ。俺が答えられる限りは答えよう」
「あの竜は心を読むことが出来るんですよね? ……セドリックも、私が呼べばわかるって言ってました。けど、契約しているキースの大事な人全ての声を聞いていたら……ずっと耳を澄ませているって、大変じゃないですか?」
オデットがセドリックから彼を呼べば聞いてくれると言う話をされてからずっと疑問だった事を聞き、キースは笑顔のまま軽く舌打ちをした。
「……あいつ……あー、竜は別に竜騎士の身内だからとか……そういう括りで、耳を澄ませている訳でもない。契約している竜騎士と、その恋人か妻。二人程度だ。だから、オデットが想像しているほど大変な訳でもないと思う。君が聞きそうな疑問を先に答えておくが、心の読むことの出来るあいつには、俺がオデットの事を好きだと言うことを前から知っていた。だから、あの時にはまだ恋人という訳ではなかったが、オデットの呼ぶ声には気をつけていたんだろう」
あの時に、セドリックがオデットを呼ぶ声を聞き分けてくれた理由にようやく合点がいった。
(そっか。だから、あの時に私が心の中でセドリックの名前を呼んだから……彼は近くに来てくれたんだ……)
彼の言葉を聞いて、新たな疑問が心に浮かんだオデットは特に考えることなくそれを口から出した。
「キースって、私の事をいつから好きだったんですか?」
それを聞いて、キースは沈黙してじっとオデットを見つめた。
こうした緊張を感じる瞬間も、けして気詰まりをすることがないのは、キースがオデットを傷つけるようなことは絶対に言わないとわかっているからだ。
(紫色が、本当に綺麗……こんな色の目を持つ人は、見たことない。絶対に珍しいよね。キースは別に王族でも竜騎士団長でもなくても、どんなに身分を隠しても何処に居ても……きっと、彼は彼なんだ)
いつまで見ても見飽きることなどなさそうな彼の顔をじっと観察しているオデットは、いきなり声を出したキースに驚いた。
「……悪い。考えれば考えるほどに、わからなくなった。正確に答えるとすれば、いつのまにか。だ。別に恋はしようと思ってするものでも、ないからな。最初から好ましく思えて、中身を知るほどに惹かれていったとすれば……出会った時なのかもしれない」
「あの、鉄巨人から逃げていた時に……?」
必死で走っていて、あまり素敵とは言えない自覚のあったオデットは顔を赤くした。
「そうだ……オデットはあの時に、自分をどこまでも追ってくる嫌な運命から、どうにか逃げようとしていた。抗えるはずもない、恐ろしい化け物から。非力な女の子が、たった一人でな。あまり考えた事もなかったが。俺は、勇気のある奴に弱いのかもしれない。どんなに無謀だと思われるような事にでも、挑戦して。そしてまた失敗しても、諦めずに繰り返すんだ。オデットの事情を聞いた時に、好感を持ち恋に落ちたとも言える。だから、きっとあの時だろう」
ゆっくりとキースの顔が近づいて、そして形の良い唇が頬に軽いキスをした。
「私は……キースが好きなのは、きっと最初からです。こんなに格好良い人を見たのは、生まれて初めてだったから」
オデットがはにかんでキースを見上げると、彼は苦笑して頷いた。
「なんだなんだ……結局、顔か? まあ、良い。それも俺の持っているものには、違いない。人の印象というものは、結局は心の持ちように左右される。自信のない美形より、自信のある並の顔が魅力的に見えるのは当然のことだ。まあ、だから外見が好みということは、俺の中身も好きなんだろう。とりあえず、そういうことにするわ」
撫然とした表情で無理に自分を納得させるようにしてそう言ったので、オデットは笑いを堪えることが出来なかった。




