10 籠
久しぶりにその人の気配を感じただけで、身が竦みゾッと恐怖した。
「オデット……あのまま、逃げられると思ったのか? 可哀想に、叶わないというのに儚い希望だけを持ったんだな」
指でするりと頬に触られ、ただただ不快な感触だけがその場所に残った。
オデットは、無表情のまま息を止め、いつも通りに自分の心を守るために心を殺す。
(私に、触らないで……気持ち悪い。ついさっきまで、あんなに幸せだったのに……あんなに)
優しいキースの隣に居て彼の言葉に耳を傾けていたのは、ほんの少しだけ前の出来事だった。彼の熱も感じる程に、すぐ傍にいたのに。
「あの……雷を操る竜騎士のせいで、大事な大事な鉄巨人を一匹失ったよ。まあ、あれはいくらでも代わりが利く。金を払って喚び出せば、良いか。この世界は金さえあれば、何でも叶う。それを持たないお前は、死ぬまでずっと誰かに囚われるんだよ。金の卵を産む鳥として、もう二度と逃げることも許されずに、籠の中で一生を終えるんだ」
脅しつけるような言葉を残し、その人はオデットが居る部屋を出て行った。不快な時間は、すぐに終わった。
ここは部屋を出られたとしても、どうしようもない飛行船の中だというのに。
一度逃げ出せたという事実があるためか、流石に警戒して見張りの数が多くなっているのかもしれない。扉の前では話声もする。
絶対に隙を見せるなと、命令をされているのかもしれない。
オデットを閉じ込めるための豪華な一室には、彼女一人だけしか居なかった。
幼い頃から権力者たちに奪い合われる存在であったオデットは「自分の所有者」の名前も顔も、認識することがどうしても出来なかった。小さな頃からそうだった。理由は、わからないままだ。
何かドス黒い影のようなもので顔が覆われて、はっきりとした輪郭が何故か見えない。孤独な心を守るための、防衛反応なのかもしれなかった。
悪魔のような人たちが、自分と同じような何か考えることの出来る人間ではなく、何かとてつもなく悪い存在だと思い込むことで何かを考える事を拒否しているのかもしれない。
自分は利用されるだけ利用をされて、自由さえ与えられずに飼い殺される未来から目を逸らしたいのかもしれない。
(キース様は、今頃どうしているのかしら……私を探してくれているかもしれない……でも……もう、二度と会う事が出来ないかもしれない)
捕らえられた衝撃に呆然としていたオデットは、ようやくその事に思い当たり部屋に設られた大きな窓に目を向けた。
大きな四角の中に見えるのは薄紅の夕焼けに染まる、幻のような雲海。ゆっくりと流れていく景色を見て、静かに涙が溢れた。
今も尚ガヴェアに戻るための進路を進む飛行船の中に居て例え彼が優秀であっても、キースはオデットの位置を知ることも叶わないだろう。
どんな理由で強力な力を持つ守護竜が護っている王都の中に、敵国と言えるガヴェアに所属する魔法使いが入り込む事が可能だったのかはわからない。
彼と自分は、油断をしていた。
王都にガヴェアの魔法使いが居るはずないと、そう思っていたのだ。
けれど、もうそんな些細な事など、オデットにとってはもうどうでも良い事だった。二度とあの彼に会えないこと、それだけが辛かった。
共に過ごしたのはあっという間にも思える短期間だというのに、オデットはキースから沢山の優しさを貰った。
逃げていただけのオデットの無謀に近い希望を叶え、国に連れ帰ってくれた。
自分には全く得にならないというのに取り扱いの難しい身の上にあるオデットの庇護を申し出てくれて、自分の家で自らの手で守ると約束してくれた。
責任ある立場を持ち多忙の中にあるというのに、かなりの無理を押してでも出来るだけ傍に居てくれた。
彼にはオデットに対し何の責任もないというのに、生きていくために大事なことをいくつも教えてくれていた。
今は何も出来ない自分だとしても努力するという喜びを教え、稀有な能力を使わなくてもオデットには価値があると認め、もし進みたい道があるのなら決して諦めるなと諭してくれた。
(……そうよ。あの時……私を連れ帰ってくれたばかりのキース様は、なんて言っていた? 絶体絶命の窮地にあっても、生きているなら諦めるなって、そう教えてくれたんだ)
「……風向きは、一定じゃない」
小さな唇からぽつりと溢れ落ちた彼がくれた言葉は、しんとした自分以外誰もいない豪華な部屋に響いた。
オデットは、今までずっと心の中ではこんな立場から逃げ出したいと願いながらも、そんなことは不可能だとどこかで諦め決めつけていた。
生まれ落ちたその時から状況は絶望的。決して外せない肉体に埋もれた鎖。要らないのに失えない能力。どんなに嫌だと泣いたところで、利用されるだけの自分。
そこから抜け出したいと、何かを変えたいと、必死で死に物狂いで何かを掴み取ろうとしたかと言うとそれは否だった。
もし何かをしていたら、一滴の水が硬い岩を削っていくように、何かを続ければ状況が変わっていく事だって出来たかもしれないというのに。
「思わぬ追い風が吹く事だってある……」
いきなり船の中に鳴り響くけたたましいアラーム音に、オデットは派手な装飾が飾り付けられた椅子から立ち上がった。
そうして、ここに連れて来られた時に、あの人の前に出るのならと無理矢理着せられていた重いドレスを脱ぎ捨てた。
高価な宝石の散りばめられたドレスは、ドサリと音を立てて床に落ちた。
ここは、空の上だ。だが、このアラーム音が鳴っているということは、船中で何らかの異常事態が起きているという証拠だった。
(もう何もしないままで、諦めたくない。もしかしたら、またすぐに連れ戻されるのかも。この部屋から出て逃げ出したところで、空の上から脱出方法なんてないのかも。でも、これが人生で最後のチャンスになるのかもしれない。何もせず試してもいないのに、きっと自分には無理だと決めつけて、何もしないなんて……絶対に、嫌)
オデットは、薄いスリップドレスを纏っただけの下着姿のままで、重い扉を開き勢い良く飛び出した。意外にも鍵は掛かっていなかった。
この船の中、逃げ出せるなんて思ってもいなかったのかもしれない。
広い廊下を見渡せば見張りはいなくて、何か侵入者に全員で応戦してる戦闘の音がしていた。
あの人の所有するこの飛行船は、確かに巨大だ。
だが、それほど複雑な造りでもない。
迷わせる事を目的としている訳でもないから廊下は真っ直ぐだし、異常が起きているという箇所は、オデットにもすぐにわかった。
大きな廊下を曲がった、その奥に見覚えのある彼が居たからだ。
「キース様!」
オデットに呼ばれて、キースは一度だけ彼女の方向に目を向け、自分に向かってくる敵を蹴散らしていた。
非常に価値のある存在であるオデットの護衛兼見張りたちは、金で雇われる傭兵の精鋭の中から高給で雇われているはずだ。
だというのに、キースは易々と幾人もの敵を軽く倒した上で、血糊で使い物にならなくなった剣を奪い取り替える余裕まで見せていた。
「オデット! 早く、来い」
とりあえず、その場に居た者たちの処理が終わったのか一人だけ立っている彼は、立ち尽くしていたオデットに声を掛けた。
「キース様! どうして……どうしてここが?」
あの異常を示すアラーム音を聞いた時も、オデットはキースが来てくれているかもなどという考えは頭の中を掠めもしなかった。
だが、彼は現にここに居る。慌てて駆け寄ったオデットに、キースは目に見えて嫌な顔をした。
「あー……その刺激的な姿は、いけない。これを着ろ」
キースは自分の上着を脱いで、まだ熱の残るそれを彼女に羽織らせた。
いつもは優しいキースは戦闘で気が立っているからか、通常の彼とは全く違う様子だった。鋭いその紫の目には、驚くほどの怒りの炎を秘め口調も想像もしなかった程に乱暴だった。
「キース様……」
まるで彼が彼ではないような気がして、怯えた様子を見せたオデットにキースは眉を寄せた。
「あー……すまない。わかっていると思うが、君に怒ってる訳ではない。俺が怒っているのは、俺自身だ。守ると約束したのに、君を守れなかった……ここに来れたのは、斥候が一人紛れ込んでいたとすれば、絶対にその後の様子を報告する係である連れが居ると睨んだ。その一人をどうにか見つけて、ここに連れてくるように脅した……オデットを早々に見つけられて、良かった。この船の中一室一室を探すのは流石に骨が折れる。どこにいるかは流石に教えてくれないだろうしな」
キースは苦笑して、オデットの腕を安心させるように摩った。
(良かった。自分で部屋を出て来たから、すぐにキース様に会うことが出来た。勇気を出したのは、無駄じゃなかった)
熱い思いが心に込み上げて来たものの、オデットは自分達のいる状況を思い出して顔を曇らせた。
「キース様、でも……」
ここは、空の上だ。
脱出するのは難しく、こんなに強い彼だとしても一人では危険があるかもしれない。心配したオデットに、キースは面白そうに微笑んだ。
「ふはっ。オデット、君は俺が誰だと思ってる?」
彼は首を傾げ謎かけをするような質問に、オデットは戸惑いつつも答えた。
「キース・スピアリット様。ヴェリエフェンディの先の王弟の息子で、ヴェリエフェンディ竜騎士団の団長で……」
「そう。ご名答だ。竜騎士である俺は、多少離れても自分の竜のセドリックと心が通じている。あいつにこの船の位置を知らせたから、急がせたひよこ共もそろそろここにやって来るだろう」
「……ひよこ? もしかして……」
その時に折良く大きな音がして、厚い金属の壁を鋭い爪で紙のように破り、真紅と紺の竜が先を争うように首を出した。二匹は、キースに向けて褒めて欲しそうな顔をしてキラキラとした目で彼を見つめている。
「ワーウィックもクライヴも、良くやった……だがもう少し、場所は選べよ」
竜から降りた赤い髪の竜騎士が、長槍を構えて周囲を警戒するように見回した。もう一人のこの前に会ったブレンダンがキースに駆け寄って、二匹の竜は大きな口を開けてブレスを吐きこちらを窺っている様子だった敵を威嚇した。
「ブレンダン。何騎いる?」
「とりあえず十騎、もうすぐここに着きます。団長のセドリックも、すぐに。その後から二十騎追いかけて、来ています」
「そうか。今は、かの国と戦時中でもない。俺が保護している遠縁の娘を、白昼堂々と誘拐したんだ。それなりに、取り調べを受けてもらうべきだろう……船を落としたり殺したりするなよ。後で俺が、自ら取り調べをする」
瞬時に職務中の団長の顔になったキースはブレンダンの言葉に頷き、状況についていけていないままのオデットの手を取った。




