短話4 脱いでくれないか(四)※
カコン、とブリキのバケツに絵筆が放り込まれた。ずっと集中していたらしいロゼルは「できた……」とただ一言。ぐったりと木の椅子に沈み込んでしまう。有り体に言って、溶けていた。
「お疲れさま、ロゼル。どう? 出来映えは」
「悪いわけない。モデルが史上最高だ」
「史上……、ふふっ! 大袈裟ね。素直に『腕がいい』って、言っちゃえばいいのに」
長時間、慣れない半裸のモデルに徹した黒髪の少女は、やや気だるげにソファーの肘置きに頭を預けた。それだけで、余人の目には晒せないほどしどけない。
(自覚がないにも、ほどがあるだろ……)
絵師は、ちょっぴり苦笑い。
あのあと、男性陣には速やかにお引き取り願った。他ならぬエウルナリアが一転、快諾してくれたからだ。
どんな心境の変化? と訊くと、大変ほがらかに教えてくれた。曰く――
『ロゼルは、イデアさんの裸を“絵”にしたくないのよね? それってつまり、見てられ……ううん、出来ないんだわ』
と。
それだけで眼鏡教師は黙り込み、栗色の髪の少年はほほえんだ。
思いだし、ぐぅ、と口の端を下げる。幼馴染みの言は正鵠を得ていた。自分は。
(……初めてだったんだ。あぁいう、見るに見てられないものがこの世にあるなんて。……見さえすれば、何でも描けると思ってたのに)
一種の敗北感。或いは斬新な発見だった。
特別な感情があるからこそ、描けないものがある。
――――冷静になんて、見ていられない。奥底までなんて穿てない。それを。
『乙女心とはそういうものですわ、イデアさん。どうぞお引き取りを。レインもね』
『エウルナリア嬢……しかし』
『畏まりました、エルゥ様』
なおも戸惑う年長の青年に、少女はふわりと笑んで見せた。
『遅くなるかも知れませんし、今夜は寮に泊まってもらいます。私の部屋に。お邸にはそう伝えていただけます? どうぞ明日の朝、お迎えにいらしてくださいな』
てきぱきと場を進行する手腕。
時折、エウルナリアは見た目とは裏腹の辣腕ぶりを披露する。今日、行われたのはまさにそれだった。
* * *
「じゃ、服着てくる」
「うん。ありがと」
ずるずると床にシーツを引きずり、シーツよりも温かな真珠色に輝く肌をさらけ出した彼女が衝立の向こうに去ってしばらく。
絵の道具を片付けながら、ロゼルはふと、気になったことを口にした。
「あのさ。本当に、なぜ急に引き受ける気になってくれたの?」
「え。うそ? ロゼルが訊くの。それを??」
ごそごそ、と布地の擦れる音。
間を置かずして、ひょっこり衝立の影から制服姿の少女が現れた。
早い。身支度などはめっぽう手を抜ける御仁なので、わかってはいたが、やたらと早い。代わりにリボンの左右の長さが全然違うなど、細部については実にいい加減だった。
天然の美の体現者とは、自身の美には無頓着なものなんだろうか……と、しみじみ思う。
それはさておき、ロゼルは頷いた。
跳ねるようにこちらに走り寄ったエウルナリアが、無邪気に腕を絡ませる。
乱れた前髪すらご愛敬。彼女は一寸だけ照れて、はにかんだ。
「だって……自分のより、レインの裸をまじまじと見られるほうが嫌だわ。親友の貴女にも。知らない教師の方にだって、なおさら嫌よ」
「あぁ…………うん。なるほど」
「納得した?」
「したした。わかる。私もそう思う」
「ならば、よろしい」
えっへん、と妙に偉そうなエウルナリアに頬がほころぶ。
くすぐったい。敵わない。
――この気持ちこそが、自分のなかでは至上と感じる。現在は婚約者で、永遠に“先達者”として追いかけるのだろう、イデアへの想いとはまったく別にして。
大好きで、いつも、その輝きを画布にとどめたいと願ってやまないエウルナリア。
日は、とっぷりと暮れてしまった。卓上に灯しておいたランタンを取り、くるりと振り向いたロゼルは、反対側の手を窓辺の彼女へと差し伸べる。
まだ絵の具の乾かない絵に、じぃっと見入る少女に。
「行こう、エルゥ」
「ん」
――――決めた。来年の卒業制作のテーマも、やっぱりこの子だ。この子以外にいない、と。
とてもつよく、再びモデルを依頼しなければ……と、決意を新たにする確信犯の笑顔は、課題を描き終えた達成感と相まり、相手に何ら警戒心を抱かせなかった。
ぱたん。
扉は閉まり、少女達はひとまず初夏の夕べ。憩いの時にたゆたう。
〈短話4・了〉
2020.10.5、挿絵を追加しました。
あくまでイメージです。
(ロゼルはきっと全彩色で、もっと、めちゃうまです……!!)




