短話1 主従の毛づくろい
需要は……ありません。わかっていながらも失礼します!
(訳:書いてしまいました)
「エルゥ様。さすがに――それはひどいです」
「え? そう?」
とある春の日。
ざわざわ、と賑やかなレガティア芸術学院の食堂にて。
寮生は、男子も女子も学舎中央講堂の裏手にある共通科目棟に毎朝集まる。いわずと知れた朝食のためだ。
芸事や実家の派閥形勢の助力のために集う十四歳から十八歳までの少年少女らは出身地もさまざま。よって、多種多様なメニューが取り揃えられている。
食堂に入ったものから朝の挨拶を交わし、入り口に積まれたトレーを手に取る。流れるように厨房に隣接したレーンを移動し、各自順番に希望の品を乗せたり、直接注文したりしていた。
カチャ、と長テーブルにみずからのトレーを置いたエウルナリアは小首を傾げた。そのまますとん、と着席する。
男子寮住まいの従者レインは、すでに正面に着席していた。――待ち合わせ時刻は、いささか過ぎていたので。
「いやいやいやいや、そのまま何もなかったように座られても」
「? 事実、何もないよね……?」
「あります。大有りです。なんでそうなるんです……今朝、支度の際は鏡をご覧になりましたか」
「ん。あんまり見てないかも。レイン、食べよ? 一限目に遅れるよ」
「…………わかりました。よーく、わかりました。覚えててくださいねエルゥ様。今はたしかに時間がありませんが。のちほど教室でお仕置……じゃない。適切な処置をさせていただきます」
「えぇぇ……」
一部、不穏な単語が飛び出たなとは思ったが、元々食べるのが遅い自覚はある。
エウルナリアは話しながらも切れ目の入ったバターロールに、選んだ野菜やハムを詰めていった。
一通り挟むと満足したのか、はむ、とかじって頬張る。お行儀の良さと残り時間。両方を天秤に架けた結果だった。
もぐ、もぐとひたすら愛らしく咀嚼する主を見つめ、従者は嘆息をこぼす。
「エルゥ様……寮生活、満喫しておいでですよね」
「……ん」
エウルナリアとしては、おそらく『……うん?』のつもりで。再度、首をひねった。
* * *
「……はよ。なんだよレイン。朝から見せつけてんの? やだねぇこの主従は。場所選べっての」
今朝の一限目は音楽史。過去の著名な作曲者の生国や生まれた年代、出来事や交流などを含めて産み出された楽曲の背景を学び、系統立てて捉えるというもの。
教師はおだやかな老爺で、最近は膝が痛いという。そのためだろうか。音楽棟二階の教室は敷居が高いらしく、始業時間はずれ込むのが常だった。
いつもの定席。いちばん後ろの窓際で日向ぼっこよろしく主の黒髪を梳くレインは毛並みのよい、澄ました猫のよう。かれ自身がとびきりつややかな栗色の長髪の持ち主のためか、そんな印象を受けた。
ちなみに、梳けずられているエウルナリアは、血統はよろしいものののんびり過ぎる気性が溢れんばかりの寝癖頭。後頭部から背中にかけてが特にひどい。
レインは、手を休めずに淡々と述べた。
「もちろん、見せつけているんです。不届きものに現実を知らしめるために」
「現実って何だよ。エルゥの無頓着さとか?」
「……それもありますが。エルゥ様の髪に触れてもいい男は、僕とお父君のアルム様だけという動かぬ現実をですね」
「あ、そ」
ふいっと会話の途中で視線をぶった切ったグランは、エウルナリアの隣の席に鞄を置くと、「――よ。エルゥ。今日も大変だな」と軽口を叩いた。
『動かないでくださいね』と厳命を受けていた(どっちが主なのか)エウルナリアは、右隣から肘をついて机に寝そべり、覗き込むような仕草を見せる少年に微笑みかける。
「おはようグラン。ううん、大変なのはレインだから」
「あー、うん。そうだよな、あらゆる意味で」
「?」
訳知り顔のしたり顔。グランは、にやりと頬を緩める。
こうして見つめる間にも、恋うる少女の黒髪は落ち着きと艶を取り戻してゆくのだが……
(難儀な奴)
うららかな朝日のなか、伏せた栗色の睫毛の下。感情の読み取りにくい灰色の瞳が、主人の背を――恋人の少女のみを一心に映している。
その、水際だった容姿の秀麗さに、切ないため息や失恋の胸の痛みを抱える女生徒がそこそこいることを。
「……わかってねぇんだよなぁ……こういうの。当人が一番」
「うん……? グランどういう意味?」
「どーーーいう、意味かねぇ。ま、気にすんなよ。レインの好きにさせとこうぜ」
とても気軽に、とき終わったらしい一房を手に取り、指に絡める。その手触りを楽しんでいると。
「こら」
ぱしん! と、素早く叩かれた。
(猫かよ)
ひりひりと痛む手の甲を、ひらひらと振ってまぎらわせる。
「――もう」
と。間に入った少女の呆れた吐息までがワンセット。
長閑に、今この時はゆるやかに。
ゆるゆると学院での光景は過ぎていった。




