第3話――彼女の笑顔には、ブレードのような鋭さがあった――
「遅い!」
バス停に着いたトラにすくねの悪態が飛んだ。ちょうどバスが近づいてきていたのだけど、もしこれに乗り遅れたら三十分は待たないといけなかった。一本前のバスに乗り遅れてバス停でイライラしていたというすくねに、トラは平謝りをする。
「ごめんごめん。さ、乗ろう」
トラがすくねの手を握って乗降口にいざなうと、すくねはびっくりしたような顔をして黙りこんでしまった。おずおずとバスに乗りこむ。横座りの席にぎゅうぎゅうと詰めた後も、トラはしばらくの間、すくねの手を離さなかった。
バスは川に沿って進む。車窓からは、神様が住んでいるんじゃないかと思ってしまうような山々が見える。すくねが窓の両端の金具を握って引き上げる。薫風が車内に流れこんで、すくねの制服の襟は軽くはためいた。
トラは、すくねに見とれた。もしかすると今日でお別れなのかもしれない。そう思ったら、眩しくて仕方がなかったのだ。
やがて亀山公園に到着したトラを、一面の桜並木が出迎えた。
花弁の散る様は、小さな音を立てているようにも聞こえる。初めて見る桜吹雪に、トラは心を奪われた。手のひらを差し出す。一枚の花弁がふわりと乗った。だけど次の風が吹くと、花弁はまた、青い空へと旅立っていった。
「なにぼーっとしてんのよ。ここ、空いてるから座ろ?」
かつては櫓だった建物の横に、木製のベンチがある。先に座ったすくねは、隣の席をパンパンと叩いてトラを呼んだ。
促されるまま、ベンチに座る。三人掛けのベンチからは、亀山の街の端から端までが見渡せた。昔の武家屋敷、水路の跡、地方銀行、市役所、色とりどりの屋根を並べる住宅地、そしてクリスマスに温とすくねと歩いた商店街。左右には桜の樹がそびえているため、風が東へ吹こうが西に吹こうが、ピンク色した輝きが常に風景に散りばめられる。
「すごい! ほんとにきれいだな。すくねの言ったとおりじゃない」
「あたし、なんか言ったっけ?」
「ほら、前に亀山公園に来た時、四月の桜がきれいだって教えてくれただろ」
「ああ……そんなことも、言ったわね」
「あの時、すくねは桜並木を案内してくれるって言ってたから、ちゃんと約束守ってくれたってわけだ。ありがとう、な」
すくねは困ったような顔をして、自分の前髪を指先でいじくった。
「なによ、あらたまって。今日のあんた、変なの」
トラは笑いながら、一年前の情景を思い出した。
すくねと接するのがまだ、ちょっと怖かった頃。
クラスメイトとうまくやり取りできなかった頃。
すくねに誘ってもらって、初めて亀山公園に来た。あの時はバスじゃなくて自転車を使ったから、けっこうきつかった。だけどすくねと一緒に自転車を漕げて嬉しくもあった。
「あ、そうそう。いいものあるんだ」
すくねは、人差し指を立てて言った。鞄をガサゴソと漁り、辞書二冊分くらいの大きさの箱を取り出す。そしてそれを、トラとすくねの間に大事そうに置いた。
「なにこれ?」
「中、見たい?」
「うん」
トラがうなずくと、すくねは立ち上がっておしりをはたいた。
「じゃあ、その前になんか飲みもの買ってくるわ」
すくねがトラのそばを離れようとしている。
「僕も行くよ」
トラは一緒に立ち上がった。今日はずっと、すくねの近くにいたい。もしかすると、すくねが先導役の少女なのかもしれないのだから。
だけどすくねは軽く首を傾げた。
「なに言ってんの。藤原先輩が来た時、あんたがいないと困るでしょ」
そうだ。トラとすくねは山咲中学からバスに乗って亀山まで来たが、そもそも亀山高校に通っている温は直接この公園に向かってくることになっている。温が来た時、誰かがここで迎えなければならない。でも、でも。
「温さんが来てから、一緒に行けばいいじゃん」
「なんで。あんたがあれだけ待たせるから、あたし、喉渇いてんのよ」
すくねはトラの制止を振りきり、三段の小階段を一発で飛び降りた。
だんだん小さくなっていく、すくねの背中。
祖父と孫の楽しそうな声。友達同士でふざけ合っている靴音。亀山公園は一年の中で最も賑やかな時間を迎えている。
トラの横隔膜が、震えた。
「すくね!」
すくねがこちらを振り向く。膝を軽く曲げて、きょとんとした顔で。
「すぐに帰ってきてくれよ!」
そう叫ぶと、すくねは暫時を置いて、腹に手を当てて笑い始めた。
「なによ! あんた、あたしがいないとほんとに寂しいのね!」
「寂しいよ! 僕は、すくねがいないと寂しい!」
すくねの爆笑がふとやむ。すくねは桜色に染まった頬を、ぷくっと膨らませた。
「あんた、あたしのこと、好きなの!?」
「ぼ、僕は……」
その続きは、言えなかった。
すくねが再び笑い出したから。彼女の笑顔には、ブレードのような鋭さがあった。
おてんばなふともも。キュートな猫目。初めて会った時から、全然変わっていない。
「あはは! あんたの顔……あはははは!」
「なんだよ、笑うことないだろ!」
「へへ。あんたの顔……あははは。じゃあいいこと教えてあげる。さっきあんたは、あたしが一年前に公園を案内する約束をしたって言ってたわね」
「う、うん」
「あれ、ごめん、忘れちゃってたんだ! だからあたしは、あの時の約束を守るために来たんじゃないの」
「え――!?」
なんと。ここにきて、やってくれますね、すくねさん。トラは口を開け、がくりと肩を落とす。すくねはきれいな歯並びを見せて、ニヒヒヒヒ、と笑った。
それでもすくねは、どこまでもすくねだった。
「でも、あたしは、今日のあんたと桜を見てみたかったのよ!」
その言葉に、トラは頭皮でぞわっとした感触を覚えた。
だけど返事をする暇を与えてくれない。制服姿のすくねは颯爽と風にひるがえり、トラの視界の奥へと消えていった。




