第2話――その言葉のとおり――、生きてみようか――
山咲が四月を迎えた。毎日は、いつもの毎日としてそこに存在している。
オリーブは自慢の移動図書館で学校や施設を周り、子供たちにたくさんの本を貸し出した。庭の図鑑、部屋を片づけるハウツー本、ラブコメのラノベ、漫才師の自伝、俳句の上手な詠み方、宇宙の歩き方、エトセトラエトセトラ。
オリーブは、子供たちが本を手に取る瞬間が大好きだ。新しい知識が広がっていくと考えただけで、本のもつ不思議な魅力を感じたりもする。誰かが得た経験が、誰かの考えた心の物語が、別の誰かへと伝わり、また新しい創作が生まれる。時間を超え、年齢と性別と――さらには生まれた場所をもぶち抜きにして、世界は今日も広がっていく。
たまにはファンサービスもしてあげた。しゃぼん玉に、あやとり。あやとりは歌いながらそのリズムに合わせるのが魅せるコツだ。オリーブが主に選曲したのは、ラブサイケデリコとコキア。二人でやると、なかなか楽しいんだよ。そういえば五歳くらいの男の子に「けっこんしてください」と申しこまれてしまったな。さあ、どうしようか。
オリーブは移動図書館を空き地に停め、山咲大橋の真ん中で吉田川の流れを見つめる。四月の空は、きめの細かい青で塗りたくられている。この悠久の空を見上げる度に、山咲という町で生まれてよかったと思う。
ふむ――?
それは橋の入口の、さらに向こう側だった。
こっちに走ってくる二人は、間違いない、トラと義夫だ。義夫は縁石をひらりと飛び越え、車通りの少ない白昼の道路をふた跨ぎで渡った。トラも負けじと駆けてくる。
「へっ……オリーブさんじゃないっすか」
先に着いた義夫が膝に両手を置き、肩で息をする。
「ふふ、ヨッシーくん。ご無沙汰だったね」
義夫の性格からして一方的に話しかけてくるかと思ったが、そうではないらしい。今日は高い位置の目でオリーブを見下ろし、自信ありげに笑っている。
「よ、ヨッシー……速いよ」
ようやくトラも到着した。義夫に遅れてではあるが、呼吸に乱れはない。
「トラくん、きみ、元気になったじゃないか」
「そう?」
トラは、なんの強がりもなく言う。
「よく走れるようになった。初めて会った時は、病室に戻るのすら辛そうだったのに」
「ああ、昔の病気のことか。そんなこともあったね、懐かしい」
「昔の、か。きみは身体だけじゃなく、心も強くなったみたいだね」
オリーブが言うと、トラは照れくさそうに頬をポリポリと掻いた。
これならもう大丈夫か。オリーブは腰に手を当てて、トラの前に立ちはだかる。
「今日はきみたちに、お別れを言いにきたのさ」
トラと義夫の表情から色が抜け落ち、すぐに厚い雲がかかった。
そんな顔をしてくれるなんて……このオリーブにとって、最高の餞別だ。
「不思議な話なんだが、山咲にいなければならないという気持ちが薄れたのさ」
その時、トラの眉が左右非対称に歪んだ。
「どうした、トラくん。永遠の別れじゃないよ。いつかまた、きっと会える」
「そう、じゃないんだ……」
「ん?」
「魔法の本の力が、もう……」
それからトラはオリーブに語ってくれた。
江坂との再会。そして明らかになった、魔法の本の謎について。
オリーブはすぐに言葉を発することができなかった。自分の腕や脚を見つめ、たしかにここに存在していることを確認する。
まさか、自分が物語の住人だったなんて。……だけど……なるほど、色々納得だ。
「心配しないでいいよ」
トラが、頼りがいのある声で言った。
「オリーブはこれから、おかしな気持ちになったりしない。普通の人間と同じように、暮らしていくことができるんだ」
「そうか」
オリーブが切なくうなずくのと、義夫がガバッとトラを押しのけるのは、同時だった。
「オリーブさん! ちょっといいすか!!」
「なんだい?」
オリーブがなんの気なしに顎を上げると……、
「俺、オリーブさんのことが好きです!」
そんな、物語の中でしか聞いたことのないセリフがオリーブの鼓膜を打った。
義夫の背景が無になる。世界が白で埋め尽くされる。水の音が遠くから響いてきた。
水流が、重低音を奏でる。
やがてそれは、心臓の鼓動と、重なった。
「俺、いつも適当なんです。勉強もだめだし、馬鹿なことばっかりやってるし」
オリーブは義夫の熱い視線をまともに受けることができない。無力ながら、半秒ほど目を逸らしてしまう。
だけど義夫は、おかまいなしに続けた。
「でもオリーブさんの目には、魂がある。だから俺はいつも、オリーブさんだったらどうするだろう、って考えて動くことにしてるんです。俺はオリーブさんだって。そしたら今の言葉が自然と出てきました。オリーブさんなら、好きな人には好きって言いますよね」
沈黙の中、オリーブは義夫と視線を絡ませ合う。
なぜか、全身に心地よさが突き抜けた。
春先の強い風が、びゅうと吹いた。オリーブは飛ばされないように帽子を押さえる。義夫は帽子の飛んでいきそうな先に手を構えたが、結局その助けはいらなかった。
オリーブはゆっくりと頭を横に振った。
「すまない」
義夫の顔が、落胆の絵の具で塗りたくられる。
……違う。義夫の瞳に嘘がないことは、ちゃんとわかっているんだ。
届いていた。
義夫の想いが届いていたからこそ、オリーブもはぐらかしてはいけないと思ったのだ。
「きみのことが嫌いなわけじゃない。むしろ……気に入っている方だよ。しかし私もきみも、まだ若い。私は自らの生きる道を見つけなければならないし、きみは自分自身の考えで物事を捉えられるようになる必要がある」
「早すぎた、ってことっすか?」
「そうだね。縁があれば、成長した私たちはまたどこかで会えるだろう。そしてその時、もしよかったら……」
この先の言葉は、オリーブにとって未知の領域だ。
言えるのか?
言ってもいいのか?
ふっ、と微笑した。数年後、立派な青年になった義夫の姿を想像して。
私だって、王子様に憧れることくらい――、たまにはあるのさ。
オリーブは腕を組み、あっはっは! と高笑いをした。
「もう一度、さっきみたいに言ってくれたら嬉しいよ」
刹那、義夫は姿勢をびしっと整えた。太陽の光を誰よりもたくさん浴びるこの少年は、きっと素敵な大人に成長するだろう。ちょっともったいないことをしてしまったかもしれないが、まあ、いいさ。
「もちろんです。だから、待っていて下さい」
「うん。ありがとう」
そこで、空気が弛緩した。山咲の背景が戻ってくる。花粉が鼻腔を軽くくすぐる。くしゃみを我慢しようとしたら、目の前で義夫が大きなへっぷしょい! をかましたものだから、二人で同時に笑ってしまった。
「オリーブは、どこに行くつもり?」
そう訊いてきたのは、トラだ。
「あっちさ。北の方」
オリーブは、東を指差して答えた。
「あっちは……東じゃない?」
「そうさ。しかしこの日本という国はバナナみたいな形をしているんだろう? なら、東に進んでいけば、やがて北の国へと行き着く。その間、愉快な旅を楽しませてもらうよ」
フン、と軽い鼻息を吹いてみたが、どうもトラは元気がない。
しかしその時、オリーブはとある事実に気がついた。自分が、山咲を離れてもよいという気持ちになったということは、つまり……。
「トラくん、もしかして、先導役はまだ……」
「うん。誰も消えたりしてないんだ。でも、オリーブが山咲を離れるってことは……」
その先に、結論はない。
オリーブは天を仰いだ。ここでトラを慰めるわけにはいかない。
トラは先導役の少女と別れるための時間をつくらないといけないし、もう彼自身、自分の力で未来に進んでいけるだけの心を養えているはずなんだ。
オリーブは橋の上から吉田川の滔々とした流れを眺めた。果てしなき流れが、時折水色を巻き上げて輝く。それは時間というものによく似ている、と思った。
「先導役は今、どこにいるんだい? 早く会わないと」
「ちょうど今日、一緒に亀山公園に行く約束をしてるんだ。お花見、するつもりで」
桜か。
あの出会いの象徴である桃色の花が、別れの舞台を形づくるというのか。
なんと――、皮肉な。なんて残酷な。
押し黙るオリーブ。だがその前で、空気を震わせるほどの大声が響いた。
「俺は行かねえぞ!!」
義夫はトラの肩を掴んで、ガックンガックンと揺さぶる。
「いくら馬鹿な俺でもわかる。今から、お前にとって大事な時間が待ってるんだよな?」
「ヨッシー……」
「でも勘違いすんなよ。俺は今から帰って勉強するんだ。オリーブさんに認めてもらえるようになるためにな。だから、尾崎みたいな怖い鋏女と会ってらんねーんだよ!! ラブラブ大作戦は、お前と藤原先輩と鋏女でやりやがれ!」
「ありが、とう」
「おうよ」
トラと義夫が、固く握手する。
男同士の友情か。いいものだ。これでトラも、きっと大丈夫だろう。
「さ、私はもう行くよ」
「うん。僕も行く」
トラは爽やかな声で言った。
オリーブとトラは、互いの健勝を祈るように小さく笑い合う。
「トラくん、いつまでも元気でいてくれよ」
「オリーブもね」
そして振り返り、トラたちと逆方向に歩き出したのだが、不意に名前を呼ばれた。
振り返ると、橋の欄干の隣に、遠近法で小さくなったトラの姿があった。
「まだなにか用かい?」
「忘れてた。江坂さんからオリーブに伝えてほしいって頼まれたことがあるんだよ」
「ほう。それは?」
トラは両手を口に添え、剽げた声で叫んだ。
「オリーブは超美人だって! だからこれから、最高の人生が待ってるんだってさ!!」
そんなふざけた言葉を残し、トラは下り坂の向こうへと走っていった。
オリーブは空き地へと歩き、移動図書館の運転席に座る。クラッチを踏んでエンジンをふかすと、図書館は希望に満ちたように咆哮した。
目指すは北の地だ。どこをどう行くかはわからないが、ただひたすら、北に。
「ふふ。馬鹿だねぇ、みんな」
ぐいと目元をぬぐう。だがバックミラーに映されたオリーブの表情は、輝いていた。
助手席から植物図鑑を取り、自分と同じ名前の植物について調べてみる。
どうやら『知恵』という花言葉があるらしい。
ならば、その言葉のとおり――、生きてみようか。
オリーブはこの世界の隅々に刻まれた知恵と出会うべく、今、ギアを二速に変えた。




