第20話――奇跡と呼べるものなのかもしれなかった――
トラはすくねに案内されて、無事に坑道の外に出ることができた。
内と外の温度差は相変わらずで、凍えるような寒さが疲れきった身体に襲いかかってくる。坑道の中に滞在したのはたった二時間足らずだったというのに、なんだか何ヶ月も経ってしまったような錯覚を覚える。
それでも温は、どこか晴れやかな顔をしているように見えた。
全員で一緒に、うーん、と伸びをしてみる。肩甲骨から腰にかけての筋肉がほぐれていく。今頃になってようやく、配管でひねった足首にじんと痛みが染みてきた。
月明かりが、花ヶ原への帰り道を指し示す。
すくねは自転車を押し、四人で並んで歩いた。道中は、この不思議な物語の始まりから終わりまでの感想会となった。事情のほとんどを知らなかった義夫は驚きっ放しだったけど、話を最後まで聞くといきなりトラの肩を組みにきた。
「よくやったぞ、トラ!」
「え、なにが? なにが? ……ちょっと、揺すらないでって」
義夫は頬ずりをしてくる勢いだ。えもいわれぬ恐怖がトラの脳幹を襲う。
しかし義夫はトラと肩を組みながら、カジノのバニーガールさながらに大きく足を上げて歩く。
「オリーブさんは、お前のおかげでこれからも生きていけるんだろ?」
「まあ、狙ってやったわけじゃないけどね。それはよかったと思う」
すると義夫はトラから腕を離し、なにやらうんうんと考えこみ始める。
「なによあんた、気持ち悪いわね」
すくねが、ゴミでも見るような目つきで言った。
「え。物語の女の子が俺の恋人とか、すげえと思わねえ?」
「はー? あんたとオリーブさんって、つきあってんの?」
「いや。でも、近いうちにつきあう。いちゃいちゃする。一緒に本読む」
「だったら恋人じゃないでしょ!」
どうやら義夫は妄想モードに入ってしまったようだ。うひうひ、と奇矯な笑いを浮かべながら、その手をすくねの頭へと伸ばした。
「俺はオリーブさんにどこまでもついていくんだよーん!!」
すくねの髪をわしゃわしゃとかき混ぜる、義夫。
あ、まずい。すくねの怒りのゲージがずんずんと高まっていく。トラにはわかる。そしてプチン、となにかが切れたような音が聞こえた瞬間、すくねの膝蹴りが義夫の鳩尾目がけて飛んだ。
しかしその蹴りは空を切る。
義夫がものすごい身体能力をもって、真横に飛んで避けたのだ。
「あんた……! あたしのこと、怖くないの!?」
「あんな穴ぽこに落ちる奴なんか、もう怖くねえよ!」
義夫は舌を出してすくねをからかう。すくねのこめかみに、ピクリと青筋が浮かんだ。
「あっそ……じゃあ、さっき言ったとおり、ぶっ殺してあげようかなぁ……」
ゆらーりと剪定鋏が上段に構えられる。
「さあ、どこからいこうか!? 手かな? 脚かな!?」
「へ。海でトラと仲良しこよしやってたすくねちゃんが、俺のどこをどうするって!?」
すくねの頬がサッと朱に染まる。トラも、片方の唇を歪めたまま固まる。
すくねの肩がわなわなと震えて、
「やっぱり、その有害な首からかぁ――――――――――――ッ!!」
なんと二人の追いかけっこが始まった! なんだこれは!? しかも義夫はトラの手首を掴んで走り出したのだ。結果、なぜかトラも逃げる形になる。
「な、なんで僕まで……!?」
「いいじゃん、いいじゃん。これが長年の友情ってもんだろ!!」
わけがわからないまま、トラは逃げる。後ろからは、ジョッキンジョッキン、という死の音が聞こえてくる。まるでパニック系映画だ。全米が震撼する。
「アホがみーるー! ブタのけーつー!」
義夫は走りながら大爆笑している。足首がマジで痛い。これ、どこがゴールなんだよ。
「で、トラはどうするんだ?」
義夫は併走しながら、突然訊いてきた。
「な、なにを?」
「わかってんだろ! お前は藤原先輩とあの凶暴女の、どっちを追いかけてくんだよ?」
えー。いきなり、そんな。トラは答えに窮する。
すると義夫はニヤリと笑い、手でメガホンをつくった。
あ、この顔、よくないことを考えている時の顔だ……。
「トラは尾崎のことが好きなのかー! そうなのかー! やったな、尾崎……」
義夫が振り向いた瞬間、すくねの矢のようなドロップキックが飛んできていた。さすがにこれはかわせない。義夫の顔面にすくねの足裏が突き刺さり、もんどりうって転げる。
そしてすくねの視線が――、じろり。
「えへへ」
とりあえず笑ってみたところ、胸郭に掌底をくらった。
頭の中がチカチカする。気がつけば、トラは義夫の隣に寝っ転がっていた。外気にさらされて冷えたアスファルトが、背中にちょっぴり心地いい。
「さて、とどめといきますか」
剪定鋏を開閉するすくね。だけど義夫は黙って、指で天をゆっくりと示した。
「ん?」
すくねはしゃがみ、義夫が指差す先を見つめた。温も追いついてきて、同じように視線をたどる。
それは、山咲の夜空だった。
おおいぬ座のシリウスが、どの時よりも、どの場所よりも青白く輝いている。
トラはその光の中に、春の息吹のようなものを感じた。
同じ時間に、同じものを見て、同じ気持ちになる。
それはトラたちの長い人生の中で、奇跡と呼べるものなのかもしれなかった。




