第19話――泣けちゃうくらい、ラッキーだった――
『あっ、やべ』
『江坂さん……』
『やべ、じゃない。それは生きてる人間の脚じゃないのか?』
『いえ、あのですね』
どうやら複数人が押し問答を繰り広げているようだ。いったい、どこで。
『江坂さんの話し相手にと思って。ちょうど間抜けな奴がいたもんで』
『まさかお前、引っ張りこもうとしたのか?』
穴の奥で、バシーッ! と音がした。ヘルメットの上から殴りつけたような音だ。
『いくらなんでもやっていいことと悪いことがあるぞ! その子は尾崎さんの娘だ!!』
『え、尾崎さんの?』
『そうでなくても、人殺しだぞ? 早く手を離せ!!』
『は、はい。すみません……』
その妙なやり取りが終わると同時に、すくねへの加重がするりとほどけた。トラたちの力のやり場があさっての方向に流れ、全員並んでずっこける。腰をさすり立ち上がると、すくねがちょうどたて坑から這い上がってきたところだった。
そして、たて坑から、一条の光が立ち上がってきた。
その光の中心には人がいる。丸眼鏡に長い後ろ毛。かつてトラの病室に見舞いに来たその人物は、ありえないことに宙に浮きながらこちらを心配そうに見ていた。
「みんな、大丈夫?」
優しい眼差し。トラは呆然とその目を見つめた。
「おにいちゃん……?」
そう呟いたのは、温だ。温はすぐに立ち上がり、江坂に近づこうとする。
だが、江坂は「危ない! ストップ!」と言って、両手で温を押しとどめた。
「たて坑に落ちちゃうよ。そこから動いちゃだめ」
「もしかして、あんたが江坂って人?」
すくねが手をブルブルと振りながら訊く。
「すくねちゃん、久しぶりだね」
「いやいや。久しぶりもなにも、会ったことないんですけど」
「あるよー。きみがこーんなにちっちゃい頃。まだ一人でおしっこできなかった頃ね」
「な、なに言い出してんのよ!!」
手で赤子の背丈を表現しようとする江坂に、すくねは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「かわいくなったなあ、すくねちゃん。もうすっかりお姉さんだねぇ」
「かわいいとか、そういうのはいらないから……」
目線を外したところからすると、すくねは褒められてまんざらでもないらしい。
だけど江坂の目は、すぐに哀しい色に変わった。
「でも、きみか温ちゃんのどちらかが、僕のつくった嘘の思い出なんだね」
トラは、江坂の言葉の意味を理解した。
温かすくねのどちらかが、江坂の生み出した虚構の存在なのだ。そしてその先導役に込めた思いは強く、江坂自身にもどちらが幻の少女なのか見分けがつかないのだろう。
「なにわけわかんないこと言ってんのよ! ていうか、なんで浮いてんの? 手品?」
「ああ、説明する。説明するから、落ち着いて」
それから江坂は、ゆっくりと温の方を向いた。
「温ちゃん、へこんじゃだめだよ。まず、僕は六年前に死んじゃってるんだ」
温は、今にも卒倒しそうなくらいに悲壮な顔をする。トラは、江坂が死んでいるという可能性も考えたのだけど、いざ本人に言われてみるとやっぱりショックだった。
「僕と、僕の班の四人だから、合計五人か。あの日、僕たちはエレベーターでL―6に下りる予定だったんだけど……あ、エレベーターっていうのはわかるかな?」
トラは了解といった感じでうなずく。たしか一昨日坑道に入った時、温が教えてくれたはずだ。昔は、下のラインで仕事をする作業員のためにエレベーターを動かしていたと。
「それで、そのエレベーターっていうのはみんなが想像しているような立派なものじゃないんだ。壁の代わりに柵があるだけだから、乗ってる間はずっと岩肌が近くに見えるんだよ。電球だって、天井に一つついてるだけだぜ」
どうやらビルの中で動いているエレベーターとはまったくものが違うらしい。危ない乗り物だったのだと知り、トラは顔をしかめた。
「で、そのエレベーターの頂上にはワイヤーロープを通してるんだけど、こいつが自然磨耗で切れちゃったんだな。そいで僕たちおしまいってわけ。ふざけてるよな、まったく」
江坂は、肩を狭めて首を振った。
「そんな……」
唇を震わせる温。その哀切はひと目で見てとれた。
温の父は温を悲しませないために、江坂の事故死を隠したのだと推測する。かたくなに江坂の現在の居場所を教えなかったのも、江坂がどこかで生きていると温に思わせるためだ。そして温の父は、温が大人に近づいていることを感じたからこそ、まずは江坂の家の場所を教えてくれたのだろう。やがては少しずつ真実を伝えるつもりだったに違いない。
「あ、そんなに心配しなくてもいいからね!」
やや過呼吸気味になる温を、江坂は明るい声で励ました。
「死んでからもけっこう忙しいんだよ。班員がさっきみたいに馬鹿なことしないかどうか見張ってないといけないしさ。もし坑道に入ってくる変な奴がいたらびっくりさせて追い返す役目もある。ま、この高城鉱山の管理人って感じかな」
えへん、と江坂は胸を張る。
「でも、仕事で来る人は別ね」
「仕事?」
トラは目をパチパチと瞬かせて訊いた。もう閉山になったのに、仕事があるのか?
「うん。坑道って年間通じて気温が一定だから、トレーニングルームとかつくったらしいな。あと、酒とか味噌を貯蔵したり……そうそう、椎茸と黄韮も育ててるんだよ!」
「黄韮って……あの、卵かけご飯の薬味の?」
「そうだよ。なあんだ、トラくんはもう、卵かけご飯の店に行ったんだな」
温と卵かけご飯を食べた日のことを思い出す。温と接近して超緊張したんだよな。そう思うと、トラの頬はじんわりと熱を帯びた。
「それじゃ、鉱山は死んだわけじゃなくて、今も僕たちの生活に関わっているんですね」
「そのとおり。ザッツライト」
そこで義夫が大きくしわぶき、江坂の注目を手繰り寄せた。
「なんかよく飲みこめないんですけど、つまりあなたは幽霊ってこと?」
「んー、そうなるか。でも、幽霊ってのも味がないな。もっといい表現ないかね」
「じゃあ話題に上がったってことで、黄韮さん、とかどうです?」
「やめなさい。マジでそう呼んだら、たて坑に引っ張りこむよ?」
くすっ。そこで初めて、温が笑った。
「おにいちゃん、元気そうね」
「まあ、死んだ人間に元気というのはよくわからんけど、別に落ちこんではないかな」
「そっちの世界でも、小説を書いてるの?」
「うーん、そうだな、そろそろ書いてみようかな。トラにあげた物語ももうすぐ完結みたいだし。江坂先生の次回作に期待! ってとこか」
思えば、江坂の物語があったからこそオリーブが生まれ、オリーブのおかげでトラは病気を治すことができた。つまり江坂は命の恩人だ。トラは無言で、深々と頭を下げた。
すると温は両手を胸の前で結び、透明な瞳で言った。
「またおにいちゃんに会いたくなったら、ここに来たらいいの?」
「それは……だめだな」
しかし江坂はきっぱりと否定する。温の顔が、わずかに翳った。
「温ちゃんはこれから、未来に向かって生きていくんだよ」
「でも、わたし、もっとおにいちゃんとお話したい」
「わかる。僕だって、温ちゃんと繋がっていられたらどれだけいいかと思う。今日だって久しぶりに会えてほんとに嬉しかった。だけど、こういうのは続けるものじゃないんだ」
「いや……そんなの……いやよ」
べそをかく温は、どこか小学生に戻ったようにも見える。
それでも江坂は首を縦に振らず、温の頭をあやしつけるように撫でた。
「今日は神様がくれた、一回だけのチャンスだったと思おう。だってこんなの普通はないんだもん。めちゃくちゃラッキーだったよ。泣けちゃうくらい、ラッキーだった」
すると温は、江坂の作業着の襟を激しく掴み上げた。
「なんでそんなこと言うの? 別に一回きりじゃなくてもいいじゃない! 二回でも、三回でも……もっともっと続いたっていいじゃないの! おにいちゃんは他の人よりも早くにこの世からいなくなったんだから、そのくらい許されないと嘘よ!」
「そう。そうだよ。よくわかってるじゃないか」
それから江坂は、静かに温の手を外した。
「僕はもう、いないんだ」
その声には、本当に、ものすごくわずかに湿り気があった。
「でも温ちゃんにはトラくんがいる」
江坂は、頼るような目でトラを見てきた。
「すくねちゃんも、義夫くんもいる。温ちゃんは未来に向かって歩き出すんだ」
「未来……?」
「そう、未来。温ちゃんはこんなにかわいい。きっと素敵な恋をできる。なににだって一生懸命頑張れる。温ちゃんの未来は、まだまだずっと広がっていく。大人になった時、僕のことをたまに思い出してくれたら、僕はいつまでも温ちゃんの中で生きていける」
温は黙りこくった。返す言葉が、見つからないようだった。
そして江坂は温をトラたちの方に向けさせ、その背中をそっと押した。
「僕を安心させて、あの世に送ってくれよ」
たたらを踏む温を、トラは両肩を掴んで受け止める。表情は前髪で隠れて見えない。
温はまた、新たな悲しみを背負う羽目になってしまったのだろうか。
だけど、そんなトラの思いは杞憂だった。次に温が顔を上げた時、そこにはなんの衒いもない、最高の笑みが浮かんでいたんだ。
「ありがとう、おにいちゃん。最後までわたしのことを考えてくれてありがとう」
「うん。……よかった。僕は、ほんとに安心したよ」
「おにいちゃんに教えてもらったことは、全部、いつまでも忘れないからね」
「ああ、そうしたらいい。そうだ、あのシロツメクサのネックレスも、そのうちみんなにつくってあげたら?」
「あっ、懐かしい! おにいちゃん、よくつくってくれたわね!」
それから二人は、昔にやった遊びの話を語り出した。
ロボットのマネをしたことや、アンケートごっこ。メンコに折り紙。そして、ハーモニカで聖歌を吹いたこともあったらしい。
「温ちゃんは、この曲が好きだったね」
江坂はそう言って、作業着の腰ポケットからハーモニカを取り出した。口に当てる。坑道の中に緩やかに響き渡ったのは、『主よ御許に近づかん』だった。
さすらう間に 日は暮れ
石の上の 仮寝の
夢にもなお 天を望み
主よ 御許に近づかん
皆で、ハーモニカの楚々とした音に聞き入った。
温と江坂はじっと目を合わせ、笑い合っている。トラと義夫は互いの拳をぶつけた。すくねは剪定鋏の柄に刻まれた『尾崎』の文字を指でなぞる。この空間だけが、六年前に戻っていくようにも思えた。
長い病の旅路につき、やがて母との永訣を迎えるトラ。
江坂との突然の別れに、自らの心を歪めてしまった温。
変わりゆく山咲の町並みをその目に映してきたすくね。
自分の不注意を悔いて、他人と距離を置いてきた義夫。
もっと生きたかったのに、若くして眠りについた江坂。
鉱夫で賑わった花ヶ原の町、高城鉱山の隆盛、そして全てを包みこむ山咲の翠色。
きっと色んな思い出があった。それは、いつまでも変わらない時間のはずだった。
だけど時計の針はいつの間にか長い回転を繰り返し、そしてトラたちはここにいる。
うつし世をば 離れて
天駆ける日 来たらば
いよよ近く 御許に行き
主の御顔を 仰ぎ見ん――
ハーモニカの音がやみ、江坂は自分で自分に拍手をした。
そして、片頬だけでにっと笑った。もしも神様がいるとしたら、こういう顔をするんじゃないかと思うくらいに穏やかな笑みだった。
「さて、ここでお別れでもいいんだけど……」
そう言って、江坂の視線はトラへと移る。
「トラくんはまだ、僕に訊いておきたいことがありそうだな」
どうやら全てお見通しらしい。トラは江坂に、一歩寄った。
「江坂さんがいなくなったら、オリーブはどうなるんですか?」
オリーブという単語を聞いて、義夫は今にも暴れそうなくらいに顔を歪める。
だけど江坂は、なにを言っているんだ? といった感じで口を開けた。
「きみがあいつに永遠の命を与えたんだろ? 僕の日記の最後にも書いてあったじゃん」
「あ、そっか。だったら大丈夫です。でも、オリーブを山咲に縛りつけてるのは江坂さんでしょ。なら、あの子を自由にしてやってくれませんか」
「縛りつける……? なにそれ?」
「だってオリーブは、山咲に戻らないといけないような気になるって言ってましたよ」
あっ、そっか――。江坂は手をグーにして、もう片方のパーを叩いた。
「魔法の本の効力がまだ残ってるからだよ。だから、もうすぐあいつも自由になれるさ」
そうだったのか。オリーブが一生山咲に留まらなければならないわけじゃないと知り、トラは心からほっとした。今度オリーブに会ったら、教えてあげよう。
「ちょっといいかな」
気がつくと江坂の顔がすぐ目の前にあったので、トラは跳び上がりそうになった。
「な、なんですか」
「オリーブって、どんな子?」
「……へ?」
どういう意味だろう。
「僕はオリーブを超美人のつもりで書いたんだけど……かわいかった?」
江坂が言った瞬間、義夫がトラの前にずいと割りこんできた。
「それはこの俺に訊いて下さい。これからオリーブさんの話をする時には、ちゃんと事務所を通すように……」
「義夫くんって……もしかしてアホなの?」
トラはクスッと笑って、義夫を指差した。
「ヨッシーがこうなっちゃうくらいの、美人さんでしたよ」
江坂はふむ、と満足げにうなずく。
「そいつはよかった。あいつも、これから楽しくやってくれたらいいな。僕には子供はいなかったけど、オリーブは僕の残した子供みたいなもんだからさ」
どうやらオリーブには輝かしい未来が待っているらしい。
だけどまだ、手放しでは喜べない。魔法の本の効力は切れるということはすなわち、もう一つの――トラにとって、耐えがたい結末が待っているということなのだから。
「あの、ちょっとお願いがあるんですけど」
トラはそう訊きながら、胃がきゅうと締まっていくのを感じた。
江坂は上唇を指でつまみながら、真剣な目でトラを見てくる。
「魔法の本の効力を、一つだけ残してほしいんです」
トラが江坂に頼んだのはもちろん、先導役の女の子をこの世に残してほしいということだ。温とすくねが揃っているこの場所で、具体的な依頼はできない。だからトラは、あえて曖昧な言い方をしたのである。
しかし江坂は、深い息を一つ吐くだけだった。
「それは……ごめん。無理だ」
「どうしてですか」
「わかるだろ。僕はもう、死んでるんだぞ」
その言葉で、トラは理解した。
江坂がもし生きていたら、物語の内容や設定を書き換えることもできたかもしれない。だが今の江坂には、それだけの力が残っていないのだ。
トラの首が、花が萎れるように傾いていく。
「そんな顔、するなよ」
江坂は、申し訳なさそうに言った。
「その、トラくんの言ってる奴はな、トラくんを導くために生まれてきたんだ。だから、トラくんは笑わないといけない。強くならないといけない。たくさん勉強して、未来を目指して生きていく。そうじゃないと、そいつだって悲しいだろ。自分の役割を果たせなかったって思って、へこむだけだよ」
その瞬間、トラは心の中で、先導役の少女との別れを呑みこんだ。
『まずは終わろう。でないと、始まらないよ』
彼女はトラの夢の中で、たしかにそう言った。
トラの止まっていた時計を動かしてくれた、彼女。
溌剌として、トラの手を引いてくれた、彼女。
もし自分の運命を知ってそうしたというのなら、どうして彼女は笑っていたのだろう。
それはきっと、彼女がトラを信じたからだ。
いつか強くなれる。この世を好きになれる。この世にあふれる無限の謎を解ける人間になってくれると、彼女は強く信じた。
「……はい」
トラは、その二文字に全てを込めて言った。
だったら、いつまでもめそめそしていてはいけない。いつか別れることばっかり考えてどうする。それは先導役の彼女だけじゃない。温ともすくねとも義夫とも、いつかいつの日か、なんらかの形で別れる。
だけど、死ぬことと、別れを考えながら今を生きることほど愚かしいものはない。
トラの目に曇りはなかった。江坂の若白髪すら、その目に映すことができたほどだ。
「よし」
江坂はそう言って、トラの肩に手を乗せる。
「それでいい。もし『その時』がきたら、よくやってくれた、ありがとう、って褒めてやってくれ。僕もあいつも、きっとそれだけで嬉しいから」
江坂がウインクをすると同時に、江坂を包みこむ光芒の照度がぐんと上がった。
江坂の像が半透明になっていく。お別れの時間が、きたんだ。
「それじゃみんな、どうか素晴らしい人生を送ってくれよな」
温がトラの手を握ってきた。トラも強く握り返す。すくねはいつものように目を細め、義夫は顎をガクンと下げてその神秘的な場景に見入っている。
「未来に自分の人生を振り返った時、楽しかったな、って思えるような毎日を過ごすんだぞ。僕は、そうなることを、この山咲で祈っているから――」
江坂の纏っていた光が、最後に爆発的に輝く。やがて江坂はその光ごと一点へと収束していった。粒子となって漂っていた光の粒も、パチンと音を立てて消える。
後には、LEDライトの弱い光だけが残された。
臙脂色の筋模様が岩肌に流れている。もう、血の色のようには感じない。




