第18話――だって僕ら、友達じゃんか――
LEDライトの灯りが、はっきりとトラの眼中に吸いこまれた。
その光の中、温は背中を向けた格好でたて坑の前でしゃがみこんでいる。吹き荒れる猛烈な風。温の髪はうねってなびき、もうぐちゃぐちゃだ。
「温さん!!」
トラが叫ぶと、温が首から上だけでこちらを振り返った。
「……トラくん?」
「どうしたんですか! すくねはどこですか!?」
「は、早く来て!! すくねちゃんが落ちかけてるの!!」
トラの心の中で、硝子が弾けた。
自らの血脈の流れを感じながら、たて坑へと走る。柵の向こうの地面には剪定鋏がざっくりと突き立てられ、その鋏を血管の浮いた手がしっかりと掴んでいた。
すくねだ。しかし彼女の胸から下はたて坑の中にずり落ちてしまっている。頭部と腕だけがかろうじて難を逃れている状態だ。温は力の限りにすくねの身体を引き戻そうとしているようだが、まったく上がってこない。
でも、なんで。どうしてすくねはたて坑の中に落ちてしまった? そして、力のあるはずの温が一生懸命引いているのに、なぜ上がってこられない?
危ない。もしもこのまま手が外れてしまえば、すくねは400メートルの高さから落下することになる。東京タワーのてっぺんよりも高い。助かるわけがない。
だけどあれこれ悩んでいる暇などない。トラは温と一緒にすくねの腕を掴み、肩が抜けるくらいの強さで引っ張った。
「痛っ!!」
すくねの顔が苦しそうに歪む。
おかしい。すくねだって自分の手に力を込めているんだ。なのにこの反発は、まるで穴の中から何者かがすくねの身体を引いているようにも感じられる。
「どうなってんだよ!」
トラが言うと、すくねは目端をひくつかせながらも、引き締まった笑みを浮かべた。
「あのね、びっくりしないでね」
「あ、ああ……」
「誰かが、あたしの脚を引っ張ってるみたいなの」
ぞくりと悪寒が流れる。たて坑の中はいわば空中だ。そんな穴に潜りこんで浮いたまますくねの脚を引っ張れるなんて、その正体はまず人間ではない。
すくねは、続けて言った。
「実際に掴まれてる感じはしないわ。でも、なんか変な力がかかってるの」
「なんだよ、それ……」
それでもトラは逃げずに穴の奥を見る。完全な深遠だ。しかしどこかしら、この世のものではない存在の気配がする。確実に、『なにか』がいる。
そうだとすると、すくねは坑道の遙か奥で、この体勢のまま何時間も見えない敵と戦ってきたということか。もう鋏を掴む握力にも限界が近いだろう。打開策は思いつかないのだが、この手を離してはならないということだけはわかる。
「……誰?」
完全に膠着した状態で、すくねがそっと言った。
「誰? トラじゃない。藤原先輩でもない。あたしに話しかけてくるのは、誰なの?」
「すくね?」
トラは息を呑む。
たて坑の周りに流れる鉱水は硫黄分を含んでいて、どす黒い血のようにも見える。天井からはその鉱水が降り注ぎ、地面の岩を隆起させている。岩の先はまるで生き物の目玉のよう。トラは、無数の目玉に睨まれているような錯覚に陥った。
すくねの目が見開かれ、口元がブルブルと震える。
「逃げて」
「え」
「早く逃げなさい! 誰だか知んないけど、あんたたちも道連れにするつもりよ!!」
刹那、激しい揺れが起こった。岩屑がパラパラと落ち、鉱水に同心円状の波が立つ。
温は口を開閉しているが、あまりの驚きに声を出せないようだ。この揺れに坑道は耐えられるのか? 落盤、という可能性がトラの脳裏をよぎる。
「トラくん、上っ!!」
ハッとして首をもち上げた。すいかのような大きさの岩が窪みから外れ、今にもトラの頭部を目がけて降ってこようとしている。
トラは思わず目を伏せた。真っ暗闇の視界の中で、自分の弱さを責め続ける。オリーブに頼まれた本の謎も江坂の謎も解けず、危機に陥ったすくねを助けることもできないなんて、どれだけ自分は無力なのだろうと。
だけど、やれることはある、とも信じた。
トラは岩を避けない。避けなければ、岩がすくねにぶつかることもない。たとえこの身は致命傷を負ったとしても、衝撃に耐えたままくたばればいい。そうすれば、すくねのおてんばな笑顔を護れる。あの輝くような身体を奈落の底に突き落とさずに済む。
長い間、不自由な身体で生きてきた。
あの事故は本当は自分のせいだったのに、トラは誰かを、そして運命というものを呪い続けた。どうせいつか死ぬのだからと考えては諦め、多くの人に迷惑をかけてきた。
だけど、そうじゃなかっただろう。
『生きようとすること、そして善く生きようとすること自体が素晴らしいと思わないか』
江坂のメッセージが心の中に流れる。
トラはオリーブと約束をし、温とすくねにはそれぞれ優しさと元気をもらった。義夫という愉快な友達もできた。全部、これからだって思っていた。
ガラッ、と音を立てて、なにかが頭上に降ってくる気配がする。
「終わり、じゃない」
トラは強い声で紡いだ。そうだ、終わりじゃない。この岩の直撃をくらっても、僕は死なない。死ぬもんか。どんな怪我を負っても復活してみせる。だけどその時には、誰一人欠けてもいけないんだ。だから絶対に、すくねの手は離さない。
そう決心した時、早い靴音が聞こえた。
もう、全力ダッシュといった走駆。それはたちまちにトラへと接近し、急停止する。
「ぬぉぉおおおおおおおおおぉぉああああ――――――――――――――ッ!!」
ズン、という重い音が立ち、やがて静寂へと転じた。
ゆっくりと瞼を開けると、そこには、中段蹴りを大岩にかました義夫の姿があった。
「そうさ。終わりじゃねえよ、トラ」
義夫はビビッドに笑い、軽く鼻をすする。
揺れはおさまり、吹き戻しの風がトラの頬をそろりと撫でた。
「よ、ヨッシー? なんで?」
「なんでもなにも。トラが俺を呼んだんじゃないの」
たしかに、トラは義夫の父に高城鉱山にいることを告げた。しかしあの電話の後、直ちに坑道へと向かったはずだ。その時点で義夫はまだ帰宅していなかった。どう考えても間に合うわけがない。
「なんだ? よく間に合ったなって顔してるな」
トラは、うん、と一つうなずいた。
「山咲と花ヶ原は俺のトレーニングコースだから、裏道を知ってんだよ」
「トレーニングコース?」
「もう忘れたのか? 樹の間を走ったり、崖から飛び降りて足を鍛えるんだって教えてやったじゃんか。お前も一緒にやったくせに」
そんなことあったっけと思い、すぐにピンとくる。
かつて、トラは義夫と一緒に山の中を走りまくった。樹にぶらさがったり、落葉の上にダンボールを敷いて滑ったりした。崖から飛び降りた時は、あまりの衝撃の強さに半泣きになったものだった。
「トラ、ありがとう。……んで、ごめんな」
義夫はしみじみと言う。
「……さっき、親父に聞いたんだ。六年前に俺を助けて事故った奴って、トラのことだったんだな」
そこで、義夫の目頭がぎゅうと緩んだ。
「俺、お前に迷惑かけて、そんで、なんも知んなくて。なのにお前、俺と仲良くしてくれて、海行ったりとかよ……そんなの、ありえねえよ。なんかの冗談だよ……」
義夫の涙がポツポツと落ちる。端正な顔が、どんどん崩れていく。
だけどトラは首を振った。
「違うだろ」
まったく逆だ。学校に復帰して、すぐに馴染めなかったトラが通学できたのは、義夫という友達がいたからだ。あの帰り道、自販機の横で送る義夫とのコーヒータイムがトラの心をどれだけ支えてくれたか。
「僕はたしかにヨッシーを助けたよ。でも、ヨッシーは今、僕を助けてくれた。そういうのって謝る話じゃない。だって僕ら、友達じゃんか」
「……そっか」
義夫は袖でゴシゴシと目をこする。やがて晴れた目には、一点の曇りもなかった。
「へへ。で、俺はなんで呼ばれたんだ? 鉱山の入口に行っても誰もいねえし、電気がついてたからここまで来ちまったけどよ」
あ、と気がついた。トラが目線ですくねの存在を示す。揺れからは逃げきったけど、すくねが落ちかけているという窮地はまだ脱していないのだ。
「あれ、尾崎? なにしてんの、お前」
「は、早く気づきなさいよ! 上がったらぶっ殺してやるから!!」
「ははーん、わかったぞ。またこいつがへまこいて穴に落ちたんだな。で、俺に助けてほしいと。この俺様に」
「……絶対殺す。あたしの鋏で千切りにしてやるぅ……!」
「へっ。そんなへらず口も、落ちちゃ叩けねえぞ。よいしょっ、と」
義夫がすくねの腕を握る。
これでトラと温、そして義夫の三人が引っ張っている形になる。それでもすくねの身体はびくともしない。どうすればいいんだ、と頭を巡らせる。だけど怖くはない。みんながここに集結した。力を合わせれば、すくねを助けて無事に帰ることができるはずだ。
もう一度気を引き締めて、肩に力を入れた瞬間だった。
『おい、お前。なにやってんだ』
その澄んだ声は、たて坑の遙か下方から響いた。
四人のうち、誰の声でもない。トラたちは互いの顔を見合わせた。




