第17話――背負うべき未来を掴むために――
それから五分くらいは足首を押さえていただろうか。
立ち上がってみると、鈍い痛みを覚えたが、早歩きくらいならできそうだった。
トラは温の後を追って、ひょこひょこと走り出す。すぐに分岐路に差しかかった。一昨日の記憶を必死になって探り出す。一度通っただけなので全ての経路を覚えているわけじゃない。トラは、ある程度は直感に委ねながら道を選んだ。
しかし、たて坑への正しい道を選び続けるのにはやはり無理があった。地面は次第に湿りっ気を帯び、歩く度に靴の下でじゅくじゅくという音が鳴った。さらに頭の上から水滴が垂れてくる。この前も無人の寂しさが感じられた道だったが、さすがにここまで荒れていた覚えはない。しかも地下に下らないといけないはずなのに、少しずつだが坂を上っているような気がする。トラは、焦った。
それでも、前に進むしかない。今から元来たルートを戻る時間はないし、そもそも正しく戻れるかどうかもわからない。地面はとうとう、水浸しとも呼べる状態になってきた。水深はやがて浅い池ほどにもなり、トラの足首がずっぽりと泥にはまった。
どうしようか……。
そう思って足を止めた時、目の前に白い壁が見えた。トラの背丈くらいの高さだ。ここで行き止まりなのかもしれないと思うと、いくら気を張ろうとしても、いよいよ心は折れてしまいそうになる。
トラはその壁にゆっくりと近づいて、手をかけてみた。残りの力を振り絞って壁によじ上ると、下方から勢いのある風が吹き上げてトラの前髪を天に立たせた。
そこで、昨日のすくねの言葉が頭の中に響いた。
(下から上に風が抜けるようになってんの。ドラフト効果っていう、自然の現象よ)
たて坑はドラフト効果で風を吐き出している。もしその風が行き場を探して上方へと抜けたとしたら、この場所に到達するのではないか。
壁の向こう側には、崖といっても過言ではないほどに急峻な下り坂が斜をなしている。電灯は設置されておらず、下り坂の終点が見えない。坂の右端には木枠で覆われた階段っぽいものがあって、もうボロボロに腐ってはいるけれど、坂を下る唯一の通り道のようにも見えた。
いくか。
トラは覚悟を決めて、壁から飛び下りた。着地とともに、硫黄分を含んだ鉱水が頬と服に飛び散った。かかとでぬるりとした感触を覚え、バランスを崩す。なんとか岩盤に手をかけてこらえ、深呼吸。落ち着いて、落ち着いて。
「よし!!」
自らを鼓舞し、転がるように階段を駆け下りた。手すりはない。踏む先の木枠はいつ崩壊してもおかしくない。この道がどこまで続いているのかも不明のままだ。ただひたすらに、底へと向かって突き進む。
おかしなことに、山咲病院での光景が頭の中に瞬いた。
オリーブの本で病気がよくなりかけた時、病院の中庭で走ってみたことがあったな。
由紀は叫びながら屋上から駆け下りてきた。すみません、と頭を下げた。頭を下げつつもいたずらっぽく笑うトラを、由紀は容赦なしに叱りつけた。
あの瞬間、トラは背負ってきた過去を全て振りきろうと思って走ったはずだ。
けれど、今は違った。トラは今、背負うべき未来を掴むために走っている。
その回想を打ち消したのは、温の悲鳴だった。
「だめ――――――っっ!!」
その声は進行方向から響いた。つまりトラは、一昨日とは別の道を迂回しつつもたて坑に近づいているらしい。
坂の上の電灯の光はもう届かない。ここは、本物の闇の世界だ。
人間の目というものは、暗い部屋にいようが夜道を歩いていようが、次第に慣れるつくりになっている。ただしそれは、カーテンの隙間から入ってくる光や道を照らす月があるから。けれど光源のない坑道では、目は闇に慣れてくれない。自分がどこにいるのかも、どこに向かっているのかも判断できない。もしここが平坦でありなんの障害物もない道だったとしても、歩くには勇気がいる。だから、温の声は唯一の案内者だった。
突如、踵の裏で角度の終了を覚えた。つんのめる身体をなんとか元に戻す。どうやら坂を下り終わったようだ。
目を凝らすと、靄一枚を隔てて岩盤の筋が見えた。つまり、新たな光源がこの先にあるということを示している。
いっそう強くなる風を受けて、身体が動くよりさらに早く身体を動かそうとした。
気持ちだけが、自分の二歩も三歩も前を走っている。




