第16話――早い足音が遠のいていく――
トラは限界に近い力で走った。花ヶ原の町を抜け、坂を上る。後ろを振り返ると、ちゃんと温は遅れずについてきている。温の唇は濡れて光っていた。きっと、自分の息の湿気が凝縮したのだ。トラは再び前を向き、ニリンソウの群生をかき分ける。景色が目まぐるしく変わり、なにが草で、どこが道なのかまったくわからない。
坑道の門扉がぼんやりと像を結んだ。暗闇の中に佇むそれは重厚な存在感を有し、トラたちを威圧しているようにも見える。お前たちは招かれざる客だ――と凄んでいる。
トラは門扉の鍵の状態を確認した。やっぱり南京錠とダイヤル錠が外されている。押せば、扉は高い音を立ててゆっくりと口を開けた。この中のどこかに、すくねがいるのだ。
一昨日と違って手元に灯りがないが、大丈夫か。たて坑に向かう途中には電灯が設置されたエリアがあったから、そこは凌げるだろう。だがたて坑付近は真っ暗だったはずだ。
「温さん、いけますか?」
「もちろん。迷ってる場合じゃないわ」
トラは、拳を固く握り締める。
「昨日、一回通った道ですもんね」
自分に言い聞かせるように呟き、そして覚悟を決めた。
坑道に突入し、まっしぐらに走る。天井は低く、線路は足を絡め取り、道の横には大穴が空いている。しかもそれらの危険がいずれも見えない、ときた。だがそんなことは重々承知の上だ。今は一刻を争うのだ。手元と足元に注意しながら前進する余裕などない。
気持ちが焦る。込み上げてくる胸騒ぎを抑えることができない。トラは走るという行為だけで、自らの弱い心に蓋をしようとした。
しかし、ある一瞬で世界が暗転した。
「あっ……!」
足首に強烈な衝撃を覚えたのだ。このままではこける――、と思いつつも、全力のスピードは死んでくれない。もんどりうって、二転する。さらに半秒後に三転目。天地の別もわからない。そしてトラを待ち受けるのは坑道の頑強な地層だった。無慈悲にも、肩口からいった。衝突した部位を支点として回転し、背中全体が硬い岩盤に叩きつけられる。
「トラくん!?」
温が叫ぶ。しかしトラの息は喉元で詰まっていて、返事はおろか呼吸すらできない。
顔に苦悶の色を浮かべながら、自分の足下に目をやる。
そこにあったのは、坑内に引かれた配管だった。トラの足は今、二本の配管の間に挟まったのだ。相手は強化プラスチックだけあって、さすがにびくともしていなかった。
「大丈夫? 立てる?」
立とうとして――、だめだ。足首に強烈な痛みが走る。トラの顔中に脂汗が滲む。
「無理しないで」
温はそう言って、くるりと背中を向けた。
「お、温さん……」
「トラくんはここで待ってて」
温はトラに返答の猶予を与えない。配管を軽々と飛び越え、深部へと走っていった。
「だめ……ですって……」
トラは体育座りになって、背中を坑道の岩肌にあずける。こんわりとした生暖かさが伝わってきた。呼吸が苦しい。蝙蝠の鳴き声の向こうに、早い足音が遠のいていく。




