第10話――落ちたら死ぬわよ――
すくねの父は花ヶ原の寄合に参加しないといけなかったため、二月の初旬のある夜に家を空けた。自治会費の報告があるとやらで、絶対に欠席できないらしい。そしてこの予定は、もちろん事前にすくねからトラと温に伝わっていた。そこで三人は、坑道への潜入をこの日に行うと決めたのである。
当日は花ヶ原の坑道の入口で待ち合わせをした。トラは完全な防寒対策を講じた上で花ヶ原に自転車を走らせたが、何枚も重ねた衣類はほとんど役に立たなかった。寒風がトラの頬を切るように吹き、自転車はその逆風を浴びて漕いでも漕いでも前に進まない。
三十分をかけてようやく坑道の入口付近にたどり着くと、淡い白藍色の光が見えた。トラは自転車から降りる。さっきまで全身のバネを使って漕いでいたせいか、身体中がポカポカとして暑いくらいだ。
光の正体は、すくねの持っているLEDのライトだったらしい。少し汗ばんだトラの顔を、一条の光芒が煌々と照らす。ダウンジャケットを羽織った温の姿もある。すくねの手には、トラがクリスマスに贈った手袋がはめられていた。
「んじゃ、行くか」
すくねは落とした声で言った。
ライトの光が、坑道の門に向かってゆらりと動く。門は柵状のもので、まるで獣を閉じこめる檻のように固く冷たくそびえている。
すくねはライトを地面に置くと、ポケットから鉄の鍵を取り出した。カシッという小気味よい音が鳴り、南京錠が開かれる。続けてダイヤル錠のナンバーを手早く合わせると、二つの関門はいとも簡単に取り払われた。
「あたしは左側を押すから、トラは右側をよろしくね」
左右二枚で構成された門扉を、役割担当をして同時に押す。きいっ、という小さな音が鳴って、坑道への大きな口が開いた。
坑道の中は、ただただ、闇だった。光源はすくねのライト一つだけだ。ただしその光もわずか数メートル先までしか届かない。足元を確認するので精いっぱいのこの状況で、このまま進んで大丈夫だろうか。
そんなトラの杞憂を振り払うように、すくねは岩肌の隙間に手を潜りこませる。スイッチを切り替える音と同時に、坑内の道に従って天井に電灯が点いた。電灯の間隔は30メートルほど。部屋の中に取りつけるような、見慣れた長細い蛍光管だ。とんでもなく明るくなったわけではないが、歩いていくぶんに問題はない。
「これ、線路?」
トラが訊くと、すくねはスニーカーの裏で線路の表面についた泥を蹴飛ばした。
「昔に坑道の中を走ってたトロッコの線路と枕木ね。ぼーっと歩いてたら足を取られちゃうから、気をつけてよ」
線路は坑道の奥の方へと続いていて端が見えない。トラは線路の間を、注意深く歩く。左右にはごつごつした黄土色の岩盤が広がっていて、それらのところどころに流れる血管みたいな赤い線が実に不気味だ。たぶん、地層の筋がもろに浮き出ているんだろう。
壁を見ながら100メートルくらい進むと、急にむせかえるような臭いが立ちこめた。トラは思わず鼻を押さえる。見ればすくねも顔をしかめている。
「藤原先輩、これ、硫黄の臭いですよね?」
「うん。でも大丈夫、これくらいだったら身体に害はないはずよ」
温が言うのなら、それを信じて我慢するしかない。トラは十字路を抜け、放り出したままの作業機具を壁沿いにかわし、さらに奥へと歩を進める。
すると坑内の気温が上昇していっていることに気がついた。もうこれは冬の温度じゃない。春か……いや、夏くらいまでは季節が先送りされているようだ。外の気温と比べてもおそらく20℃は違う。
「トラくん、アンケートよ。今、暑い?」
温が、ジャケットを脱ぎながら訊く。ぼんやりとした光の下、頬に流れるひと筋の汗が妙になまめかしい。
「暑いです。なんでこんなに暑いんですか?」
「地熱が外に逃げないからよ。あと湿度が90%以上あるから、その影響もあるかもね」
ものすごい環境だ。
かつての高城鉱山では、こんな作業環境の下で大勢の人が二十四時間働いていたのか。もっといえば高城鉱山だけじゃなく、世界中にはあらゆる鉱石を採取する鉱山が無数に存在する。トラたちの今の暮らしを支えるために、どれだけの人が過酷な環境で働き続けてきたのか。トラは自分の幸福を実感するとともに、少しの後ろめたさを感じる。
その時、壁にもそもそと動く生き物を見つけた。
大ゲジだ。10センチを超えるゲジが壁の上を這っている。数十本の脚をそれぞれ違う方向に動かしている様子はとてつもなくグロテスクだ。これを半年前に見たならきっと大声を上げていただろうけど、トラは今やすっかり慣れてしまっていた。
「お邪魔してます」
トラが冗談っぽく言うと、すくねが神様のように緩やかな笑みを見せた。
「よく言えたわね」
「なんだよ、別に怖くないし。こいつらも生きてるんだろ?」
「そうよ。ゲジは害虫を食べてくれるし、人を噛んだり刺したりしないから本当は人間の味方なのよね。でも、気持ち悪いって言われて嫌われちゃうんだもん。かわいそうよ」
そう言われてみればそうだ。嫌われるくらいならまだしも、『不快』という扱いで薬を使って殺されたりもする。もちろん気持ち悪く思う人の気持ちもわからなくはないから、トラは複雑な思いに駆られた。ただ、このゲジはトラたちを怖がり一目散に逃げていく。その姿にはかわいさすら感じられた。
「そうそう、坑道にはこんな生き物もいるのよ」
すくねは軽く顎を上げ、坑道の天井から小さな塊をもぎ取った。
「なにそれ?」
「さーて、なんでしょう」
その小さな塊はどうも生き物のようだ。すくねが卵の殻を剥くように丁寧にその塊を広げていくと、左右に弧を描く翼の中心に、ねずみそっくりの顔が現れた。
「あ……蝙蝠か!」
「当ったり~~。ほら、この子はさっきまで寝てたのよ」
寝起きの蝙蝠はその目をしょぼしょぼとさせながら、弱々しい声でキーと鳴いた。まだ寝足りないのか、いったん広げられたその羽根をすぐに閉じてしまう。
「えー、かわいい!」
温のテンションが上がる。
「天井にぶら下がって寝るとか、すごいわよね。いったいどうなってんのかな?」
すくねはそう言って、蝙蝠を逆さにして天井に近づけた。小さな脚がちょこちょこと動く。蝙蝠はお気に入りの岩の尖りを見つけるなり、再び天井にぶら下がってしまった。
ぼんやりと蝙蝠たちを見上げながら歩くと、不意に温に腕を掴まれた。
「トラくん、危ないわよ」
え、と思って前を見る。ちょうど目の前には、線路の途中で止まっているトロッコ列車があった。たしかに危ない。このまま進めば、脇腹でトロッコの外殻にぶつかっていた。
おそらく硫化鉄鉱を乗せて運んだ機材だ。数年前までは、この坑道には大きな音が鳴り響いていたことだろう。機材の音、作業を指示する声、トロッコ列車の走る轟音。目を閉じれば、そんな場景がトラの心に描かれた。
かつて隆盛を誇った高城鉱山。賑わっていた鉱山の町。わずか数年の間に、誰かの靴音すら遠くまで響くくらい閑散とした地になってしまった。温の横顔が、どこか寂しげにも見える。トラが温の名前を呼ぼうと思った瞬間、先に行っていたすくねから二人を呼ぶ声が聞こえた。
すくねは、二方向への分岐路で足を止めている。ただの分岐路ではなく、さらにその先が三方向、四方向へと枝分かれしているのだ。総距離1400キロメートルともいわれる坑道の中は、まるで迷路。地理を知らなければきっと迷ってしまう。どうしようか。
トラが躊躇していると、すくねがライトを横に振った。側壁の根元にはところどころ大穴が空いていて、ライトの光はその大穴を突き刺すように伸びていく。
「この穴の深さは10メートル以上あるわ。落ちたら死ぬわよ」
トラと温が生唾を呑みこむのは、同時だった。
穴の上には落下防止のための鉄製の足場が張られているが、その鉄板は表面積の広い網の目式なので、たぶん腐敗してしまっている。だからすくねの注意はけして冗談などではなく、一歩間違えたら本当に死ぬ。
複雑な分岐路に、階層を跨いだ吹き抜けの穴。
ここからはどれだけ用心しても、しすぎることはない。トラの頬に、冷や汗が流れた。




