第9話――第三鉱体のL―6ラインの入口じゃった――
年が明けた。
年始は思った以上に、人の往来が少ない。田舎にありがちなご近所への挨拶というのもあまり見られない。車社会の山咲では家同士が離れている場合が多いので、家でテレビを見て一家団欒を過ごすというのが山咲の正しい正月の形なのだ。トラも父からお年玉をもらい、稲荷寿司を食べたり将棋を教えてもらったりした。
次の週の土曜日。トラは温と、すくねの家に挨拶にいった。花ヶ原までは父が車で送ってくれたのだが、白い息を空中に棚引かせる温の姿を見るなり「邪魔者は退散しまーす」と言い残してとっとと家に戻ってしまった。
けれど、戻って正解だったかもしれない。すくねの家は、細く急峻な坂道を上っていった先にあるらしいからだ。車だと相当なドライビングテクニックを必要とするはず。
そんな坂をえいほえいほと十五分ほど歩き、トラはくたくたになってしまった。見れば温は腕を振り上げて、まだ元気よく歩いている。すごいパワーだ。
どれくらい上ったんだろうと思って後ろを振り返ると、太陽の光が瞳のすぐ前に虹をつくった。斜めに切りこんだ陽光の中には、花ヶ原の風景がパノラマに広がっている。吉田川は大きなカーブを描き、その川向こうには切り崩している途中の山がある。あれ、県道を二車線にする工事だって聞いたことがあるぞ。
「トーラくん」
温がトラの名前を呼ぶ。そして隣にやってくるなり、手で庇をつくった。
「けっこう上ってきたわね。すくねちゃんの家はこの辺にあるはずよ」
ほう、もうすぐゴールか。というか、花ヶ原の丘のほぼ頂上じゃないか。
温はきょろきょろと周囲を見渡し、「あれかな?」と言った。石垣の上に建つ平屋。隣の土地には花を植えているようで、白桃の色をしたシクラメンが花弁を広げていた。表札には『尾崎』と書いてあるし、ここで間違いはなさそうだ。
呼び鈴を押すと、家の中からドタバタドタバタと元気な足音が聞こえてきた。
「はーい!」
新しい年になって初めて見る、すくねの笑顔だ。家の中からは甘くて酸っぱい匂いがする。玄関先の水槽では大きな金魚が二匹、すいすいと泳いでいた。
「トラ、藤原先輩、あけましておめでとう」
「あけましておめでとう。これ、お年賀にどうぞ」
温はそう言って、紙袋をすくねに手渡す。
「あれ、これお菓子ですか?」
「柚子餡のおまんじゅうよ。亀山で買ってきたの」
「やった! あたし、このおまんじゅう好きなんですよ!」
温は、それはよかった、と言って両手を豊かな胸に当てた。今日はニットの服を着てるから胸がいつも以上に自己主張してるんだよな。いい仕事しますね、ニット!
なんて、温ばかり見ていてはいけない。トラだってお土産を用意してきたのだ。
「はい、僕のお土産。稲荷寿司だよ」
「あら、いいね。トラがつくったの?」
「うん。うちわで仰ぎまくったから、手が疲れちゃったよ」
「じゃあ後で出させてもらうね。とりあえず二人とも、上がって上がって!」
というわけで、トラたちはリビングへと案内された。年季の入ったぶ厚い絨毯の上で、すくねの父が日本酒で一杯やっている。テレビの漫才にゲラゲラ笑い、えらく上機嫌だ。
「あけましておめでとうございます」
トラと温が声を重ねる新年の挨拶をすると、すくねの父は「こりゃこりゃ」と言って立ち上がった。
「はい、あけましておめでとう。こんな遠いとこまで、よう来てくれたのう」
「父さん、先輩からおまんじゅうと、トラから稲荷寿司をもらったよ」
「まあ、そんな気を遣わんでもええのに。とりあえず暖かいもんでも飲もう。すくね、茶を淹れてくれるか」
すくねは珠暖簾をくぐり、奥にあると推測される台所へと消えていく。だけどそこで、トラにはある疑問がもち上がった。
すくねの母はどこにいるんだろう。元々すくねから母の話を聞いたことはないのだが、どうやら今も家の中にもいないようだ。だったら、離婚とか別居とか、そういう事情があったりするのかな。なら、いつかすくねが話してくれるまで待てばいいか。
しばらくして、ほうじ茶と黄色い饅頭とトラのもってきた稲荷寿司が炬燵の上に到着した。すくねの父はストーブを炬燵の近くに寄せ、鉄板の上に角切り餅をごろんと転がす。
そしてテレビの電源を切ると、頬に皺を寄せながら言った。
「また、高城鉱山の話を聞きたいのか?」
「はい。特にこの前教えていただいた、江坂徹という人について詳しく知りたいのです」
「ふうん」
すくねの父は、ほうじ茶をズズズとすする。
「藤原さんは、奴と知り合いなんか?」
「わからないんです。わたしと昔に仲良くしてくれた方を探しているのですが、江坂さんがその方なのかもしれないんですよ」
「そういうこったか……それは、いつくらいの話なんじゃ?」
「六年前です」
「六年前か……鉱山が閉山になるちーと前じゃな。わしも江坂を最後に見たんはそんくらいの時でな、たしか……第三鉱体のL―6ラインの入口じゃった」
L―6。その機械的な坑道の名前は、いかにも不気味な響きである。
「その江坂って人の家はどこにあるの?」
すくねはストーブの上の餅をひっくり返しながら訊く。
「花ヶ原にあったはずじゃが……詳しくは知らんの。うちと同じで、シクラメンを育てとるっちゅうて聞いたことはあるが」
それからすくねの父は、江坂の人物像について教えてくれた。七人で構成される班の班長をやっていたとか、丸眼鏡をかけてひょろ高い体躯をしていたとか。だけど、どうして突然いなくなったのかについては依然謎のままだった。まあ、仕方ないのかもしれない。高城鉱山では当時数千人に及ぶ人が働いていたのだから、そのうちの一人について詳しく覚えていろというのは無理な話だ。人間の記憶力には限界がある。
「お、もう焼けとるじゃねえか。醤油、醤油」
すくねの父が各自の皿に砂糖醤油をつくり、ぷくりと膨れた餅を乗せる。
トラと温は餅をご馳走になり、そこでおいとまをすることにした。すくねの父には深くお礼を告げて家を出る。すると、すくねが後ろから追いかけてきた。
すくねは膝に手を当てて息を整え、温に上目遣いを向ける。
「坑道に入る話ですけど、ちょっと待ってもらってもいいですか? 二月の初めに花ヶ原で地域の寄合がありますから、その日なら父さんは夜に家を空けるはずなんです」
「ありがとう、すくねちゃん。なにからなにまで」
「そんな! あたしにできることなら、なんでも協力させてもらいますよ!」
すくねは自分の胸を強く叩く。そして、トラの方をじろりと睨んだ。
「あんたもちゃんと来なさいよ。びびってドタキャンしたら承知しないんだから」
「ドタキャンとかするもんか。ええ、僕も協力させてもらいますよ!」
「あ、あたしのマネすんなぁ!」
すくねが跳び蹴りを見舞ってくるが、これをカニのような足捌きでひらりとかわす。次に「こしゃくな!」と叫んで放ってきた回し蹴りにはスウェーで空を斬らせた。
すくねの髪と白い息が乱舞する。ついに地団駄を踏んで悔しがるすくねを見て、トラは自分の身体が完調していることに気がついた。それは一年前とは比べものにならない。今なら、なんでもできそうな気がする。
トラの横では、温がもっちりとした頬を引き上げて、嫣然と笑っていた。




