第4話――愛しい人――
トラと温は工場の重役たちに仰々しく見送られて工場を後にし、そのまま徒歩で花ヶ原の駅舎に向かった。今日は温の祖母が車で送ってくれたのだが、その祖母は花ヶ原駅で開かれている『ポウポウ祭り』というイベントに参加しているらしい。変な名前だけど、いちおう地元の秋祭りなので名士である藤原家は出席しないといけないのだとか。
二階建ての駅舎の壁は秋の花できれいに飾られていた。桔梗とコスモス、紅色のペンタス、さらには艶やかなマリーゴールド。紅唐に塗られた三角屋根の上には、『ポウポウ祭りへようこそ』と書かれたアーチ状の看板がかけられている。
たくさんの花の香りが混じり合い、トラの鼻腔をくすぐった。駅舎の前、二十台ぶんくらいの駐車場では、飴や果物や花を売る屋台が横一線に整列している。
花ヶ原駅はかつて鉱山の石を運ぶ鉱山電車が使っていた駅だ、と父が言っていた。鉱山が閉山した今、電車は動かないのだけど多くの鉄道ファンに愛され続けているらしい。
温と一緒にけんちん汁の屋台に並んでいると、何人かの地元の人が温に挨拶に来た。温は自分の三倍も四倍もの年齢の人を相手に、堂々と返答をしている。すごいことだ。
「ポウポウ祭りの『ポウポウ』って、なんなんですか?」
トラはけんちん汁をズズとすすりながら、訊いた。
「そっか、トラくんは初めてなのね。なんだと思う?」
と言われても、まったく想像がつかない。
トラが答えに窮していると、温の口元がムフフと歪んだ。
「じゃあ、ヒントをあげましょう。駅のホームには誰がいる?」
ホームには……あれ? 記章のついた帽子をかぶった、運転手らしき人がいるぞ。その近くには七人ほどの作業着とヘルメット姿の人も。鉱山電車は廃線になったんじゃなかったっけ?
けんちん汁の容器をゴミ袋に入れ、上唇に指をかけて思考。すると突然目の前がブラックアウトし、トラはぐはっ、と大息を漏らした。
一瞬、意識が刈り取られる。どうやら頭の後ろをなにかで殴られたみたいだ。
頭を押さえて振り向けば、そこには、すくねの肘鉄があった。
「トラじゃん! なにしてんの?」
「いてて……なにしてんのって、どう考えても祭りに来たに決まってるだろ……」
薄手のタートルネックのセーターに、ベージュのカーディガンを羽織っているすくね。スカートはやや短めで、白いももがちらちら見えてしまうものだから、目のやり場には実に困る。
「すくねは一人で来たの?」
「うん。一応地元っちゃ地元だしね。数合わせで参加してって頼まれたの」
「数合わせ?」
「そうよ。まず地元が盛り上がらないと、町外から人を呼べないじゃない」
盛り上がる……ということは、なにかのイベントが行われるのだろうか。
「すくねちゃん、こんにちは」
温がすくねの横顔に向かって、柔和に笑った。
「こんにちは。藤原先輩も大変ですね、このバカの相手をしなきゃいけないから」
「バカじゃないだろ。いきなり殴ってきて、なんだよ」
「ふーんだ。ていうか、もうすぐ『はなもぎ』だからあたしがいてよかったわ。あんたに藤原先輩をセクハラさせるわけにはいかないもんね」
またもわからない単語が出てくる。小首を傾げるトラに、温は底の甘い声で言った。
「はなもぎは花ヶ原の昔からの行事なのよ。トラくんもぜひ参加してね」
「だめですよ、藤原先輩! こいつにはなもぎなんて一兆年早い!」
「どうでもいいけど、はなもぎってなんなんだよ。早く教えろって」
「べー。あんたは駅で生姜湯でも飲んでなさい。はなもぎは、あたしと先輩でするから」
「なんだよー、教えろよ」
すくねと舌戦を繰り広げていると、温がなにかに気づいたようで二人の肩を忙しく叩いた。温が指差す方向に顔を向ける。黒い蒸気機関車からポウポウ――ッ!! という凄まじい汽笛の息吹が花ヶ原に鳴り響いた。煙突から黒煙が吹き出し、大きな歓声がわく。
その瞬間、温の手が稲妻のような速さでトラの顔面に伸びてきた。
「はなもぎっ!」
なんと温はとろけるような笑顔で、トラの鼻をつまんできたのである。
「ふがっ。な、なんでふか?」
「ちぇっ、仕方ないか……はなもぎーっ!」
温に続いて、すくねまでもがトラの鼻をつまんだ。いったいなにが行われているのか理解できず、トラは呆然と立ち尽くす。さらに眼前では、温とすくねがきゃっきゃと声を上げて鼻をつまみ合っていた。
周りを見渡す。老いも若きも、男も女も焼肉を一発で仕留める箸のように腕を伸ばし、互いの鼻を盛大につまみ合っている。すると重い音とともに蒸気機関車が線路の上を走り出した。しかも後続には、側面に『ゆうひ』と書かれた赤い列車を引き連れて。
「ふふ、驚いた?」
温が顔を九十度倒してトラの目の前に登場。後ろ手を組む様は、いかにも優雅だ。
「お、驚きましたよ。なんで鼻をつまむんですか? それに、電車! 走ってますし!」
「展示運転ね。鉱山が閉山になった後も、有志の皆さんで定期的に動かしているのよ」
ああ、さっきの運転手らしき人はこのイベントのために準備していたんだ。それによく見れば、三脚の上のカメラで機関車の写真を撮りまくっている人たちもいる。子供たちは叫びながら、機関車の後を追って走っていった。
「すごい迫力ですね……」
ぼけっとした顔で見つめるトラの肩甲骨に、すくねが軽いパンチを入れた。
「んで、さっき鼻をつまんだのが『鼻もぎ』。花ヶ原の伝統行事よ」
「伝統行事? なんか、めっちゃ外国っぽかったんだけど」
「たしかに。でも、由来はあるのよ」
それからすくねは『鼻もぎ』にまつわる話を教えてくれた。
花ヶ原は江戸時代から、その名のとおり花の名所として栄えてきた。そのため一年に一度、愛しい人を想いながら花をもいでは空に撒き散らしていたという。
しかし花も生き物。誰かが、そんなことをしては花がかわいそうだと言い出した。
そこで花ヶ原の優しい人々は花の代わりに鼻をもいで、互いの健康と愛情と祈り合うようになったという。それが『鼻もぎ』の起源なのだとか。
その起源を聞いたトラは、自分の頬が熱を帯びていっていることに気がついた。
今のすくねの話には「愛しい人」という単語が出てきた。さっき温とすくねがトラに鼻もぎをしてきたのには深い意味はないのだろうけど、トラは温かいなにかを鼻で感じた。恥ずかしくなって少し目線を落とす。再び二人を見ると、温とすくねはとんでもないポーズでトラを待ち構えていた。
目を閉じ、鼻を無防備に突き出している。
この体勢は……トラにも鼻もぎをやれという意味なのだろう。
躊躇し、ごくりと喉を鳴らすトラ。だがすくねは薄目を開けて、「早くやんなさいよ」とぞんざいに言い放った。
もう、これは、やらないとだめな流れみたいだ。トラは覚悟を決めて手を伸ばした。
「……はなもぎ!」
温のすっと伸びた鼻梁に、左手で触れた。
小さくかわいらしいすくねの鼻を、右手でつまんだ。
どちらも、ちょっとでも力を込めれば壊れてしまいそうなくらいに繊細だった。二人は頬を緩め、ゆっくりと瞼を開けた。
重厚な音とともに機関車が戻ってくる。いくつもの星霜を重ねてきた車体は、秋の澄みきった空気に洗われているようにも見えた。もう二回、おまけの汽笛がトラの鼓膜を直接叩く。時計の秒針を壊してしまったような、緩やかな陽光。
トラはこの光に、いつまでも包まれていたいと思った。




