第13話――ミスキャストだったようだね――
トラはバスから下りて三人と別れた後、家路を歩く間に旅の出来事を思い出していた。
今日は朝から六人乗りのワゴン車で島崎港を見学させてもらった。昼食に食べた海鮮丼は絶品だった。わさびを盛ったサーモンが一番印象深い。新鮮な海の幸は、甘いとさえ感じるほどだった。
帰りも同じ電車で亀山へ。義夫の祖父の見送りを受けて、全員でお礼を述べる。帰路が半分を過ぎるまでに全員が眠りに落ちてしまった。皆、遊び疲れていたんだ。亀山が終点でなければ、そのままずっと乗っていたかもしれないくらい。
トラは義夫の寝よだれを思い出し、クスッと笑いながら山咲の道を歩く。落日が世界の全てを橙色に染め上げる。斜面の芝では、秋の虫の声が小さな合唱を始めていた。
その時、パアン、と小気味よいクラクションが後ろから鳴った。振り向く。そこには、夕闇を纏った一台の車が停まっている。
「やあ、トラくん。そんなに大荷物で、旅行にでもいっていたのかい?」
相手の顔は黄昏の逆光でよく見えない。だけど、その声にその口調。こんなふうに声をかけてくる奴は、一人しかいない。
「オリーブ?」
「うむ、私だ」
トラはオリーブに小走りに寄る。オリーブが唇を開けると、形のよい犬歯が光った。
「元気してた?」
「もちろん。この身は例え地の果てにあろうが海の底にあろうが、私は健勝そのものさ」
「そりゃよかった。どうする? もしよかったら、うちでご飯食べてく?」
「いや、それは遠慮しておこう」
そこで、オリーブの顔がにわかに曇った。
「……どうかした?」
「ん。その……今日はきみに見せなければならないものがあってね」
「見せなければならないもの?」
「ああ。これだ」
オリーブがトラに突き出してきたのは、日に焼けた一枚の紙だ。
「え、なにこれ?」
「すまないが、私は先にそれを読んでしまった。それは、きみに差し上げた例の本のあとがきらしいのだよ」
「あとがき? あの本にあとがきがあったの」
「別添であったみたいだ。……まあ、まずは読んでみてくれないか」
トラは紙を表に向け、軽い気持ちで読み始めた。
だが、読み進めるうちに、トラの眉間には深い皺が刻まれていった。
『この本を手にとってくれてありがとう。
どうだろう、きみはどんな感想をもってくれただろうか。残念ながら、私はきみの感想を予想できない。なぜならこの本は、私の思いだけで書かれたものであり、中の文章は読み手の境遇や心理状態によって何色にも変わってしまうからだ。
きみが読んだ時には、どんな話が書かれていたのだろう。
おかしな話ではあるが、筆者としてはとても気になる。
さて、ここで読者のきみに一つ教えておかないといけないことがある。
この本は、きみの願いを具現化する本なのだ。
その願い自体は永遠に消えないので安心してほしい。しかし、この本を読んだ日の夜に見る夢で、その願いを叶えてくれる先導役が必ず登場するようイメージしてある。
その先導役は若いか、年寄りか。男か、女か。それはわからない。だが、その先導役と同じ年齢・性別の人間が、きみの住む世界にも現れるだろう。先導役は、願いを叶えた読者が不安定な道に進まないように護ってくれるのだ。
思うに、先導は一年程度でじゅうぶんではないか。そのくらいの期間があれば、きみは突然の祈願成就にも慣れ、本来の道を進んでいける。
私はそう願って、この本に思いを託した。
だから忘れないでほしい。
きみの周りに現れた先導役は一年程度でその役目を終え、消えてしまうことを。消えた後は初めからその先導役が存在しなかったように、世界は続いていく。ただ、きみの思い出と、きみと先導役が育んだ思い出に関わるものは残るはずだ。
きみの人生が幸せに満ち、幾億の星のように光り輝くことを、私は心から祈っている』
あとがきを読み終えたトラはしばらく間、一ミリも動くことができなかった。
「トラくんはこの本を読んだ日の夜、どんな夢を見たのだい?」
オリーブは、つくったような優しい声で訊いてくる。
トラの脳裏に、稲妻がひびを入れるように走った。トラがあの夜見た夢では、トラと同じ歳くらいの女の子がトラを導いた。このあとがきどおりにシナリオが進めば、トラの身近にいる女の子が先導役として存在し、やがて消えていく運命を抱いている。先導役だなんて、普通なら信じられないような話だ。しかしオリーブの腹の渦巻きや奇跡的な病気からの回復、という事実があとがきへの完全な否定を許さない。
「もしかして、先導役って、オリーブのこと……?」
トラは、途切れ途切れに尋ねた。しかしオリーブは真剣な顔で首を振る。
「違うと思う。私は、きみがあの本を読むより前にきみと会っていたのだから先導役にはなりえない。……すると、先導役は若い女性だったのかい?」
トラは黙ってコクンとうなずく。先導役がオリーブでないのだとしたら、可能性はもう二択しかない。
「なあ、このあとがきは嘘だろ? 少なくとも、嘘っていう可能性はあるよな?」
「私もそう思いたい。だが、あとがきはガラスケースの底に敷かれていたんだ。あの本が特殊な効果をもつとしたら、必然的にそのあとがきも……」
「そんな勝手なこと言うなよ!!」
トラは、自分自身の怒りを止めることができなかった。それに、オリーブの冷静な言い方もトラの気を昂ぶらせるトリガーとなった。トラは、先導役の可能性のある女の子とさっきまで一緒にいたんだ。旅行にいったんだ。なのに、その相手とはあと半年くらいでお別れをしなければならないという。そんな、馬鹿な話があるか。
「申し訳ない、トラくん」
そう言ってオリーブは、直角近くまで上半身を倒した。
「きみを嫌な気にさせるつもりはなかったんだ。ただ、どういう未来になろうと、知らないまま迎えるよりは知って覚悟をしてもらいたかった。それが私の自己満足に過ぎないといわれれば、それまでなのだが……」
オリーブの言い分は、残念だがもっともだ。オリーブがあとがきを届けてくれようがそうでなかろうが、訪れる運命は変わらない。オリーブも意志をもってトラにあとがきを渡したようだし、これでオリーブに八つ当たりする方がおかしい。
「ごめん。ちょっと、混乱して、つい……」
「……トラくんが謝る必要はないさ」
オリーブは弱い歩調で移動図書館の運転席に向かい、ほとんど音もなくドアを開けた。
「オリーブ?」
「私は今日、まったくのミスキャストだったようだね」
キーの回る音に続いて、エンジンの駆動音が吉田川に響いた。
「これ以上、なにを語ってもきみを不愉快にするだけだ。だから私は、ここで失礼する」
「違うよ。そうじゃなくて、僕は……」
「また会おう、トラくん」
オリーブが去っていく。味気なく。逃げるように。
トラはけしてオリーブを恨んでいなかった。なのに、オリーブを引き止めるだけの心の余裕がない。なんと自分は狭量な人間なのか。
いくら病気から回復しようとも、今からなにをするべきかもわかっていない。
僕はまだ――、弱い。




