第12話――大人になるって、どういうことだろう――
釣り競争は、十七時前に終了となった。
トラは小アジでいっぱいにしたクーラーボックスを温と義夫に見せた。温は目をきらきらと輝かせて「すごい!」と喜んだのだけど、義夫は頬をニヒルに引き上げる。すくねが眉根を寄せる前で、義夫は自分のクーラーボックスを勢いよく開けた。
「俺たちの勝ちだな!」
そこには、30センチはある真っ黒な目をした魚が入っている。
「なに、この魚?」
「メバルよ。煮物にするとおいしいの。……やっぱ、小アジだけじゃだめだったか……」
義夫の代わりに、すくねがトラの質問に答える。
「どうだ、尾崎?」
「くそっ……悔しいけど、メバルを出されたら形成は不利みたいね」
「よーし、じゃあ負けたお前らには罰ゲームだ。この、今日釣った魚を料理すること!」
というわけで、トラとすくねは義夫の祖父の家で、小アジの唐揚げとメバルの煮付けをつくることになった。建物自体が古く、キッチンというよりも石造りの炊事場といった感じだ。蛍光管はしばらく変えられていないらしく、照度も低い。
そんな環境の中、すくねはまな板の上で小アジの鱗と内臓をテキパキと外していった。トラも、すくねに教わったまま同じ作業を繰り返す。すくねの身体からはわずかに潮の香りが漂い、菱形の網入り硝子の向こうにはもう夜が映っている。
「すくねは、ほんとに料理が上手だったんだね」
トラは油を入れた鍋に火をかけながら、訊いた。
「なによ。嘘だと思ってたの?」
「そういうわけじゃないけど。なんか、なんでもできるんだなと思って」
「……そうでもないわよ。あたし、お菓子づくりとかできないもん」
「そうなの?」
「亀山は昔から和菓子のレベルが高いからねぇ。基本は買って食べるのよ」
ふーん。うなずいて、油温計に目をやる。目標の180度にはまだまだ遠い。
すると、すくねの手がぴたりと止まっていた。
「あのさ」
「ん?」
「もし、あたしがケーキつくったら、食べてくれる?」
トラはひと呼吸を呑みこんだ。すくねがつくったケーキか。味見役で食べるぶんには問題ない。懐かしい話、由紀から勧められたケーキを投げ捨てたことはあるが、トラは元々甘いものが嫌いじゃないのだ。
「いいよ」
「……よかった」
すくねは目を細めてまた調理を始めた。やがて沸点に達した油に、小麦粉をまぶした小アジをゆっくりと放る。油の爆ぜる音が立ち、小アジはたちまちに狐色へと変わった。
ミョウガと青じそを混ぜてポン酢をかければ薬味の出来上がり。小アジの唐揚げを宴会用の大皿に盛って畳の部屋にもっていき、続けてメバルの煮付けをこぼさないように気をつけて運んだ。
義夫は勝者気取りで(ま、実際勝者なんだけど)ふんぞり返り、義夫の祖父と温は箸と箸をチャンチャカ叩いて行儀悪く料理の到着を歓迎する。
畳の部屋は八畳。隣の仏間と合わせればざっと十四畳はある。蚊取り線香の匂いが漂う中、網戸越しに涼しい夜風が吹きこんでくる。トラたちが暑かろうとつけてくれた扇風機の回転速度は『中』。このくらいがちょうど心地よい。テレビの電源を入れると、プロ野球のナイターが始まっていた。三回表、阪神タイガースの攻撃は二番から。義夫の祖父はキンキンに冷えた缶ビールの栓を開け、その中身を一気に喉へと流しこんだ。
手を合わせて――、いただきます。
トラたちは競うように小アジの唐揚げを平らげていく。釣った時の驚き、そして自分で料理をした時の喜びと相まって、相当おいしく感じられた。メバルの煮付けもいい味が出ていた。目玉の周りの身がおいしいと聞いて最初は躊躇していたが、勇気を出して食べてみると、柔らかくて口の中でとろけた。
ボーン、ボーン、と柱時計が鳴った。時刻はもう二十一時。たわいもない話をしていたらあっという間に時間が過ぎてしまった。柱時計の隣に飾られた天狗の面が、睨んでいるようにも見える。
「義夫、そろそろ風呂に入りんせ。もう溜めてあるけん、女の子が先じゃ。その間にお前とトラくんで食器を洗やよかろ」
温とすくねが先か。ま、女子は色々と気を遣うことがあるだろうし、妥当な線といえば妥当な線。でも、料理から片付けまで全部やることになったトラは、すくねに向かってわざとふくれっ面をしてみせた。
「へっへー、残念。一番風呂はいただきよ」
女子たちはかしましく話しながら、長い渡り廊下を離れへと進んでいく。トラはその背中を見送ってから、義夫と一緒に皿洗いをした。洗っている間、義夫はずっとオリーブの美人さについて語っていた。それも目をうっとりとさせて。
そこで思い出したのだけど、義夫の祖父はトラたちの後に風呂に入るという順番になるのではないか。そうだとすると、遠くから来たトラたちの疲れを考えてくれたということになる。アロハシャツを着てファンキーさ全開だけど、とっても優しい人だ。そしてその優しさを受け継いでいる義夫もきっと、とてもいい奴なのだと思う。
畳の部屋に戻ると、パジャマ姿の温とすくねがバニラアイスを食べて涼をとっていた。トラに気づいて、ちらりと向けられる二人の視線。温たちは女の子座りをしていて、パジャマの裾からは白いくるぶしがのぞいている。
「お風呂、気持ちよかったですよ」
「ねえねえ、檜のお風呂だったのよ! あたし、びっくりしちゃった」
二人が話しかけてくるのだけど、トラは曖昧にうなずくことしかできなかった。
だって、温とすくねが、自分よりもいくつか年上の女の人に見えたのだから。
温とすくね。今は同じ山咲中学校に通う仲で、こうやって旅行に出かけたりすることもできる友達だ。……いや、正確には、生まれた場所も育ちも違う二人と出会って、仲良くなることができた。温とすくねの間のわだかまりも解けたみたいだし、トラの存在がその理由の一つになれていたとしたら、とても嬉しい。
だけど、トラはいつか二人と別れなければならない。そりゃ、電話やラインのやり取りをしたりしてこれからも縁を続けていくことはできるかもしれないが、同じ高校や大学に進めるとは限らないし、きっとこの二人ならトラの先へ、先へと歩いていってしまう。
この世のどこかに、温と恋に落ちる人間が息をしている。
この世のどこかで、すくねと結婚する人間が今夜も風呂に入っただろう。
そしてトラも、いつか誰かと……。
大人になるって、どういうことだろう。
どうして人は、過ぎ去ってしまう時間を大切にしようとするのだろう。
「よっしゃ、じゃあ俺らも行くか!」
義夫に背中を張られ、トラの混沌とした思いはどこかに吹き飛んだ。そうだった、今は檜風呂を楽しむことだけを考えておけばいいのだった。トラが義夫に借りた綿のタオルには、『島崎商店街春期ソフトボール大会記念』と印字されていた。




