第11話――みんな――生きてんのよ――
「ほら、あんたも手伝いなさいよ!」
すくねの怒号が波音をかき消す。
やはりこうなったか。すくねはトラの横で着々と竿を組み立てて糸を通しているのだけど、トラからすれば職人芸のようで、手伝えと言われても手順がさっぱりわからない。
「役立たずねえ。なら、そこのクーラーボックス開けてみて。たぶん餌があるから」
言われるままにクーラーボックスを開ける。そこには、凍った桃色の塊が入っていた。
「これ、なに?」
「ああ、冷凍のオキアミね。小海老みたいなものよ」
よく見れば、5センチ大くらいの海老みたいな生き物の固まりだった。ビニール袋越しとはいえ、ちょっと気持ち悪い。
「そこのスプーンでオキアミを削って、海にじゃんじゃんばら撒いて」
「あれ? たしか釣りの餌って、針につけるんじゃなかったっけ?」
「そういうのもあるけどね。今回は撒き餌で釣るのよ」
「じゃあ、魚が針に引っかかってくれるってこと?」
「まあ、そうかな。いちおう竿に偽物の餌がついてるんだけどね」
すくねが竿を45度の傾斜で持ち上げると、釣り針の先でたくさんの三角形の塊がキラキラと光った。すくねの説明によると、オキアミで魚群を呼び寄せ、疑似餌を使って釣るというやり方らしい。竿は手で持たずに、地面に置いてヒットを待つ。前から思っていたけど、すくねはずいぶん物知りだ。
トラがオキアミを削いで海に撒いている間に、すくねは手早く二本の竿を完成させた。釣り糸を海の中へ沈めていく。手でうちわをつくって顔を仰ぎながら、手早くクリーム色のパラソルを突堤の上に立てた。
「さて、待ちますか」
そう言われれば待つしかない。よいこらしょ。パラソルでできた影に座ろうとしたら、おしりからジュッという音がした。
「あち――――っ!!」
「ばかねえ。いきなり涼しくなるわけないじゃないの」
というわけで、しばらくは立っていて、すくねが座ったのを見てからそれに習った。
しかし『待つ』というのはなかなかに退屈だ。しかも隣には水着姿のすくねがいるわけで。すくねが伸びをすれば、その二の腕がトラの肩にかすったわけで。とにかく不思議なくらいに緊張して、トラはたわいもない話くらいしか振ることができなかった。
そのうち、会話は止まった。聞こえるのは、寄せては返す波の音と、雲と海の間で旋回するカモメの鳴き声ぐらい。手持ち無沙汰になったらオキアミを撒いてごまかした。すくねは三角座りをしたまま、遙か遠くに視線を送っている。
「ねえ、トラ」
ひとりごとを呟くように、すくねが言った。
「この前、工場で……怖くなかったの?」
工場、というのは、フォークリフトが突っこんできた例の一件のことだろう。
「そりゃ、怖かったよ」
「そうよねえ……」
すくねは立ち上がり、オキアミをスプーンで削って海に撒く。
「なんかね、お礼、言ってなかったと思って」
「ああ、別に。怪我なくてよかったじゃない」
「うん。でも、ありがと……ね」
「う、うん」
またしてもなくなる会話。おかしいぞ、いつもは雄弁なすくねがほとんど喋らない。ちら、と後方に目をやれば、そこにはすくねの剪定鋏が置かれていた。
「この鋏、なんでいつも持ってんの?」
「これ?」
そう言ってすくねは、剪定鋏の金属部分を人差し指でなぞる。
「特に面白い理由はないわ。伸びすぎの枝があったら、切るためよ」
「切って、その枝をどうすんの?」
「どうもしないわよ。切らないと枯れちゃう植物とか、あるの」
「へえ」
「特に春とか、枯れた場所を切っとかないと新芽が死んじゃうわ」
「でも、わざわざ海にまでもってこなくてもいいんじゃない?」
あはっ、とすくねは笑った。
「たしかに。これ、父さんが研いでくれた『すくねスペシャル』なんだけど、愛着がわいちゃってねぇ……なんか必要になるかもとか思って、ついついもってきちゃうのよ」
返ってきたのは、意外と普通の答えだった。だけどトラは、いつしか二人の間の緊張が解けていっていることに気づいた。よし、じゃあ次は温と亀山の花火大会に行った時の話でもするかな――、
そう思った瞬間、竿が細かく震動し、アスファルトと当たってカタカタと鳴り始めた。
「きたわ!」
すくねが颯爽と立ち上がる。
「あたしが竿を引き上げるから、あんたは魚を外してね!」
すくねが竿の持ち手を力強く引くと、竿はしなりながら海中から姿を現した。数ヶ所に渡って等間隔に並んだ針には小さな魚がくっついている。早速針から魚を外そうとしたのだが、魚はぬるりと滑ってトラの手からすっぽ抜けた。魚の身体は、やわらかいようで固くもあるのだ。とても手では掴めない。
「痛っ!」
そうこう慌てるうちにトラの指先に針が刺さり、血が滲む。
「なにやってんの。こうやって外すのよ」
すくねが弧を描くように手首を返すと、魚の口は容易く針から外れた。そのままクーラーボックスを開け、ビニール袋にポイポイと魚を入れていくすくね。袋の下には氷がぎっしりと敷き詰められている。こうやって、腐らせないようにするのか。
「この魚の名前、なんていうの?」
「小アジよ。ていうか小アジばっかりね。ほら、あと一匹だけど外してみる?」
「うん。やってみよっかな」
すくねのやり方に倣う。落ち着いて魚を掴み、釣り針の曲線に合わせて手首を返してみる。すると、針はきれいに外れた。
「やった!」
と喜んだのも束の間だった。テトラポットの影から黒い塊がササササと足下に寄ってきて、そのままアスファルトの継ぎ目へと消えていった。トラは驚きのあまり、せっかくの最後の一匹を海に投げこんでしまう。
「びっくりしたぁ……」
「あーあ、せっかく釣ったのに。もったいない」
「そんなこと言ったって、変な奴が出てきたんだもん」
「フナムシでしょ? ほら、こっち来てみなさい」
すくねはアスファルトの影に寄って、トラにおいでおいでをする。そこには何十匹というフナムシが群れをなしていた。ゴキブリのような形だけど脚がたくさん生えている。とにかく、見ているだけでも気持ち悪い。
「こんなの見せるなよ!」
トラは恐怖のあまり、つい語気を荒げた。
なにも返事をせず、じっとトラを見つめているすくね。
三秒後、すくねは大きなため息をつき、それから少し柔和な面持ちになった。
「もったいないわよ、トラ」
「もったいないって、なにがだよ」
「生き物を怖がるっていうのは、すごくもったいないってことよ。だいいち、こいつらからしたら人間の方が怖いに決まってるでしょ」
ま、そりゃそうだ。人間に踏まれたら死んでしまうわけだし、人間は殺虫剤とか棒とかを持ってるかもしれないわけだし。
「こいつら、あたしたちより先にここにいたんだから、あたしたちの先輩みたいなものじゃない? 先輩、今日は釣りをやらせてもらってます、とでも考えときゃいいのよ」
そんなものだろうか。トラはさぶいぼだらけの肌を必死に我慢し、フナムシに顔を近づけてみる。たしかにフナムシの十四本の脚は、トラたちに挨拶をするように揺れていた。想像の中で処理していたほど、怖い相手じゃない。
「怖くないでしょ?」
「……うん」
「ま、蜂とかムカデとか、危ない奴もいるからなんにでも近づいていいわけじゃないけどさ、でも、みんな――生きてんのよ」
みんな、生きてる。
トラも、すくねも、温も義夫も、生きている。生きているから、みんなで海に来て釣りを楽しむことができた。生きているから、おいしい。生きているから、はしゃげる。人は互いの命を尊重し合い、殺人でも起きれば全国的なニュースになるというのに、虫はそこに『生きている』だけで忌み嫌われる。残酷に殺される。
トラは、妙な気持ちになった。いつか死ぬのに生きる意味はあるのか、なんて考えたこともあるが、この虫たちはなんのために生きているのだろう。勉強もせず、テレビのサッカー中継も見ない。詩も歌も技術も知らず、いつの間にか生まれていつの間にか死んでいく。でも、すくねはそんな虫たちもしっかりと『生きてる』んだと言う。
「ほら、この人はあんたたちが怖いみたいよ」
すくねはフナムシを指でつついて、ケラケラと笑った。
「怖くないよ」
トラははっきりとした声で言った。
「ほんとう~~?」
「うん……、怖くない」
それは本音だった。今はフナムシに愛らしさすら感じている。夜の街灯に集まる蛾や羽虫だって、よく見ればきっときれいだろう。もし車に轢かれそうな場所にカマキリがいたら、道の端に逃がしてやれるはず。
「ありがとう、すくね」
気がつけば礼を述べていた。なにか大切なものを教えてもらったような気がしたから。
ところが、そこでちゃっかりしているのが尾崎すくねである。
「じゃあ、お礼もらっとこかな。海の家で焼きそばとジュース買ってきてよ!」
「いいよ。すくねは、次の竿を準備するの?」
「そうねえ。それもいいけど……せっかく海に来たんだしねぇ……」
すくねは一瞬口端を歪めると、突堤の淵に向かって軽やかに駆けた。
「さっさと買ってきなさいよ!」
陽光の千紫万紅を縫って海に飛びこむすくね。丸みのあるおしりが虹のようなラインを描いて海に消え、寸毫の間も置かずに大きな飛沫が一つ立った。




