第8話――温さんに魔法をかけたんです――
六年前、温は幸せだった。
庭師や清掃人を雇った豊かな家庭で、温は『お嬢様』と呼ばれていた。
なぜそれほどまでに裕福だったかというと、温の父が高城鉱山の代表取締役社長だったからだ。当時の高城鉱山は日本、中国、韓国、ベトナム、フィリピン、インドネシア、インドなど、アジア全ての地域において最大の採掘量を誇っていた。従業員数は数千人を誇り、その利益も恐ろしいほどだったという。
「高城鉱山では、なにを掘ってたんですか?」
「硫化鉄鉱です」
「りゅうかてっこう?」
「そう、硫酸と鉄の原料になるんです」
「鉄はわかりますけど、硫酸ってあの危ない液体ですよね。なんの役に立つんですか?」
「昔は食料が不足していましたよね。作物を安定して育てるためには肥料が不可欠なんです。硫酸は、その肥料をつくる時に溶解液として使うんですよ」
高城鉱山に商取引をしにきた車が、何キロもの列をつくった。高城鉱山のために街がつくられ、電車のレールが敷かれた。山咲、そして花ヶ原は華々しい隆盛を誇った。その鉱山の頂点に君臨する社長の娘が、温だ。彼女は、地域の誰もが羨む大令嬢だった。
「もっとも――」
温は、色のない声で言う。
「高城鉱山は、四年前に廃鉱になってしまいましたけど」
硫化鉄鉱に代わる物質が発見されたため、硫化鉄鉱は国に必要とされなくなったのだ。そこで高城鉱山は廃鉱となり、その敷地には関係会社が伸銅品の製造工場を建設した。温の両親は廃鉱と同時に温を祖母に託し、新しい事業を始めるべく東京本社へと向かった。両親は温と祖母に申し訳なさそうにしていたが、祖母はむしろ乗り気だったそうだ。
温はそこで少し黙り、風を口の中で転がした。
「おにいちゃんはかつて、高城鉱山で働いていたのです」
その青年は明るい性格で、仲間の内でも人気者だった。温に対しては誰もが腫れ物に触るように接する中、その青年だけは屈託のない笑顔を送ってくれた。
温は小さい頃から舶来のチョコレートやビスケットを与えられ、しかし同時に駄菓子などはいっさい食べたことがなかった。それは温の両親の方針なのだから、周囲の人々が温に余計な菓子を与えることはない。だけど温は、友達がおいしそうに駄菓子を食べているのを、ペイズリー柄のカーテンの陰からいつも見ていたという。
「おにいちゃんは窓の外で手招きをして、わたしを呼び出したのです。あの時いただいた駄菓子は……まあ、駄菓子なんですけど、おいしかったですよ」
温は学校で友達がいないわけではなかったのだが、みんなは温と話す際にどこか一歩引いているようだった。その意味で、青年の態度は温にとって新鮮だったのである。
青年は翌週にも温の家に来て、温に折り紙を教えてくれた。庭の大岩に隠れ、鶴、兜、手裏剣、紙鉄砲を次々に折っていく。紙鉄砲を鳴らすと、青年は耳を押さえてひっくり返った。温は、声を上げて笑った。
「わたしはおにいちゃんと仲良しになれました。毎週、日曜日が楽しみでした。わたしはきっと、わたしの知らないことを教えてくれるおにいちゃんに憧れていたんでしょうね」
それはもしかしたら、温の初恋だったのかもしれない。
そう思うと、トラの心の柔らかい部分に針が刺さったようにも感じた。
「でも、わたしが小学校三年生の……三月のことです」
温は、ゆっくりとした口調で言う。
「わたしはおにいちゃんに、高城鉱山の入口に連れていってもらいました。もちろん家族には内緒です。門の前の詰所には泥だらけの作業服を着た男の人がたくさんいて、わたしはびっくりしました。すぐに仲良くなって、頭を撫でてもらいましたけどね」
当時栄華の極みにあった高城鉱山。その詰所は作業員でごった返していたに違いない。
「ただ、おにいちゃんは、お父様のスケジュールを見落としていたのです。その日、お父様は鉱水処理の視察にきていたんですね。だから、わたしとおにいちゃんは、詰所の前でお父様に見つかってしまいました」
温は、父のかけていた眼鏡のフレームが鈍く光ったように見えたと言う。おそらく温の父は激怒したのだ。娘を内緒で鉱山に連れてきた青年に、著しい怒りを覚えた。
「お父様は、おにいちゃんを殴り飛ばしました」
温の父は、まさかこれまでも娘に関わったことがあるんじゃないだろうな、と青年ににじり寄った。そして正直な青年は、温と時々遊んでいたことを白状してしまった。父は表情を殺したまま、温を車に乗せて連れて帰ったらしい。
「それから、おにいさんはどうなったんですか?」
「……いなくなっちゃったんです。廃鉱の後、お父様は東京に行ったのでわたしは一人で花ヶ原を探しました。でもおにいちゃんは見つかりませんでした。わたしのせいで会社を辞めさせられたのか、どうなのか。いなくなった原因は、今もわからないままなのです」
言って温は肩を狭める。トラには、温が涙を必死にこらえているようにも見えた。
「わたしは時々……無意識のうちにおかしな行動をするようになったみたいですね」
どう返していいかわからない。ただ、温の次の言葉を待つ。
「わたしは吉田川でも資料館でもトラくんに変な姿を見せて……恥ずかしいです」
温はひっく、としゃくりあげ、瞼から大きな涙の粒を落とした。
「トラくんの、言うとおりでした。わたしは過去にとらわれて、なのになんの力もないから、おにいちゃんを見つけることもできなくて……トラくんに馬鹿にされても仕方がないんです。わたしは、恥ずかしい人間です……」
「温さん」
「おにいちゃんがいなくなったのだって、きっとわたしのせいなんです」
「温さん、それは違いますよ」
「学校の友達に迷惑をかけました。吉田川でトラくんに助けてもらい、工場ではすくねちゃんを事故に遭わせるところでした。全部、わたしがわがままだからいけないんです」
「もう、泣かないでもいいですよ」
温に降り注ぐ花火の七色を遮る形で、トラは立ち上がった。
「僕こそ温さんに謝らないといけません。僕にも大事な思い出はあったのに、全部なかったことにしようとしていました。でも、僕は温さんのおかげで自分の馬鹿な過去を許すことができたんです。ありがとう、温さん」
「どうして、わたしなんかに、お礼を……」
「だから僕はちょっとした恩返しをしました。温さんに魔法をかけたんです。温さんが苦しむことはもう、ないんですよ」
トラは温の手をとった。その手を濡らす温の涙は、トラと温を繋ぐ舫い綱のよう。
「……魔法?」
「そうです。信じてもらえませんか?」
いつの間にか、花火の音は聞こえなくなっていた。代わりに気の早い秋の虫が、伸び放題になった雑木林の中で羽をこすり合わせている。
「ううん」
温は小さくかぶりを振った。
「わたしは、トラくんを信じるわ」
温の言葉からは、敬語が抜けていた。トラの頬の温度が急上昇。トラは温の小指を立たせ、無理やりに意味不明の指切りげんまんをする。温はくすぐったそうに、目を細めた。
「そ、そうだ……もしかして温さんがアンケート好きなのも、おにいさんの影響とか?」
「あら、よくわかったわね。そうよ。おにいちゃんはよく、アンケートをとるみたいにしてわたしの好きなことを訊いてきたの。『温ちゃんの好きな帽子はなにかな?』とかね」
「へえ。で、温さんの好きな帽子はなんだったんですか?」
「えへっ。麦わら帽子よ――」
薄暗がりの中、トラと温は笑顔を交換する。
温のアンケートは変な趣味なんかじゃなかった。それは、他人の好みをより深く知ろうとする、どこまでも純真で優しい取り組みだったのだ。
(今日は、楽しかった?)
もしもそんなアンケートをもらったらすぐに答えられるのだけど、残念ながら温から絶妙なアンケートをもらうことはなかった。
花火大会実行委員会のTシャツを着た人たちが、あちこちでごみ拾いを始めている。温はかご巾着からスマホを取り出し、祖母に電話をかけた。




