第6話――ハラショ――――ッッ!!――
夏休みが始まってから半月が経過したが、トラは毎日を退屈して過ごしている。
毎晩温とラインをするのは、一日の中で最も楽しみな時間だ。温とはいつしか、その日に起こったことややったことを知らせ合うような仲になっていた。最初のうちはスマホのアイコンが重くて重くて仕方なかったのだけど、いったん慣れてしまえば関係ない。温は祖母と買い物にいったり、テニススクールで汗を流しているみたいで、トラとは違って充実した毎日を過ごしているらしい。
窓に目をやると、見たこともないような大きな蛾や無数の羽虫が、カーテンから漏れるわずかな電灯の光に集まっている。トラは虫が嫌いだ。人間とは大きくかけ離れたあの身体でどうやって動いているのか、と想像しただけで怖くなる。止まっている虫の腹を窓越しに指でなぞることすらできない。つまり、生理的に受けつけないのだろう。
今夜花火大会に行くことは、父に伝えてある。花火は二十時から一時間の間打ち上げられるので、十九時になればトラの家の前まで温が迎えにきてくれることになっている。温の家の人が車で送ってくれるらしいけど、どんな人なんだろう。
そろそろ準備でもするか。トラは押し入れの戸を横に滑らせ、中にある服を漁った。四ヶ月前まで入院していたわけだから、あまり服をもっていないのだ。さて、どうしよう。結局、ボーダーの入ったココナッツブラウンのシャツを選んだ。
家の外に出て、終わりかけの黄昏をぼんやりと眺める。南の空に輝く上弦の月。その月の周りでは、天秤座がほの暗く点滅している。すると、トラの目の中に強い光が差しこんできた。一台の車がトラの家の前のカーブを曲がり、ゆっくりと停まる。
後部座席が開く。降りてきたのは、浴衣姿の温だった。
「こんばんは、トラくん」
「こっ、こんばんは!」
言葉がどもる。しかも、不必要に大声だ。
それも仕方ないだろう。藤柄の注染浴衣は古典的だけど、温の雰囲気によく似合っている。帯の上に乗っかった豊かな胸なんか反則だ。しかもきれいに並んだ歯を見せながら、温はトラに近づいてくる。なんて、愛らしい人なんだろう。
「あれ、もしかしてトラの友達かい?」
その時、(運よく?)トラの父が帰ってきた。父は無精髭をポリポリと掻いて、まったく緊張の色など見せない。しかし温が軽くお辞儀をすると、父の手はぴたりと止まった。
「初めまして、山咲中学の藤原温と申します」
そこで車から年配の小柄な女性が降りてきて、父に向かって目礼をする。歳の頃からして、きっと温の祖母だろう。
「あ、ああ……それは、どうも」
ん。父の反応もおかしい。いつもとは違う。父はハンチングキャップを脱ぎ、それを両手でぎゅっと握った。
「こいつ、毎日退屈してるみたいで……だから、藤原さんに誘ってもらってほんとに喜んでいました。今日はどうかよろしく……」
お願いします、と続くはずの言葉が止まる。父は温を凝視して、それから目をゴシゴシとこすった。挙動不審な所作に、しばらくみんなで首を傾げていたが……、
「ハラショ――――ッッ!!」
突然、父のロシア語が炸裂した。
「お前、こんなきれいな子と花火に行くのか! いいなあ、トラ!」
温の顔がボッと音を立てて火を噴く。
「……え? わ、わたし? そんな……」
「もう、父さん」
トラは肘で父の腹をつつく。そこでようやく、全員の笑いが噛み合った。
だけどトラは内心、そうだろうそうだろう、と思っていたことは内緒だ。
そんなトラの心を隠しながら、車は亀山へと出発した。バックミラーの中で手を振る父の姿は、あっという間に豆粒大になった。




