第5話――エッフェル塔のように立派な男だな――
トラにとって、今日のホームルームは格別だった。
クラスメイトたちは皆浮き足だっていて、西森先生の話をちゃんと聞いている奴はほとんどいない。だけど西森先生はむしろ穏やかな笑顔を浮かべてこう言った。
「では皆さん、いよいよ明日から長い夏休みに入ります。長い休みにしかできないこともあると思いますので、ぜひ、たくさんのことにチャレンジして下さいね」
起立、礼。
クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように、校舎から初夏の日射しの中に走っていった。夏休みの幕開けである。長い長い四十日間が始まる。宿題は課されているけれど、部活に入っていないトラは自分で自分のやるべきことを考えないといけない。
なにをしよう。
誰と会おう。
目の前には自由が広がった。果てのない大地が口を開ける。皮膚に粘りつく空気が、今日はどうしてか気持ちいい。この世は無限大だ。
一昨日、温から初めてラインが届いた時は、ちょうど風呂に入っている時だった。脱衣所で身体を拭いていると、チカチカとライトを明滅させるスマホ。そのラインの送り主が温だと知った瞬間、トラは急いで下着をはいて自分の部屋へと戻った。ベッドにダイブ。ごろごろごろごろ。ごろごろごろごろ……。ここは学校でもない。温は離れたところに住んでいる。なのに温の意志が電波に乗って、トラの手元に届いたのだ。
温は、工場見学はしばらく延期にしよう、と書いていた。よく考えたら、なにも知らないトラを工場に連れ出したのは軽率だったとか。続けて、お詫びの言葉も書いてあった。
まあ、事故に遭いかけたのはたしかだけど、病院に行けば特に怪我はなかったのだし、別に謝られることもないよな、とは思う。ただ、トラが工場に行きたがるのも変な話だ。とりあえずは温に従うことにした。
そして、トラは次の一文を読んで目を三十回くらい瞬かせた。
『もしよければ、亀山の花火大会に行きませんか?』
行きませんか……?
これは質問文。トラの回答を必要とするもの。あの温と一緒に、亀山の花火大会。
速攻でOKと返事した。断る理由はなにもない。同級生と花火に行くだけでもテンションが上がりそうなものなのに、その相手が温とくれば、マクラにボディーブローを叩きこんでも仕方がないだろう。ごめんよ、マクラ――。
「おーい、なにボーッとしてんのかな?」
ハッと気がつくトラの目の前には、手のひらを上下させる義夫の姿があった。
そう、トラは義夫と一緒に『祝☆夏休み』と銘打って、茅葺きの屋根の下にあるいつもの自動販売機に集まったのだった。トラはオロナミンC、義夫は得用コーヒーで乾杯。土の匂いのする微風が、トラの鼻の奥を優しくくすぐる。
「夏休みっても……なんもやることねえなあ」
「ヨッシーは去年、なにしてたの?」
「ゲームやって、テレビ見て、じいちゃん家行って……そんなもんかな。トラは?」
「あ、僕は病院にいたから」
トラがそう言うと、義夫はしまったというような顔をした。
「すまんすまん! えっと、その……」
「いいよ、別に。だから今年は色々行ってみたいんだよね」
「ん、そっか。じゃあ、俺のじいちゃん家、一緒に行ってみっか?」
「ほんと? 嬉しい嬉しい。予定立てたら教えてよ」
一面の田畑に、灼熱の日差しが下りる。義夫は「ふう、暑ぃな」と言って腕で額の汗をぬぐう。空気も揺らめくアスファルトの上。トラは地平線から走ってくる一台の車に気がついた。義夫はポケットに手を入れ、物珍しそうな視線を車に向ける。
近づいてくるその車は、見知ったものだった。
剥がれかけた塗装に、セルリアンブルーの二本のライン。
オリーブの移動図書館が二人の目の前に停車した。運転席の扉が開く。痩身のオリーブが、靴音もなく地面へと降り立った。
「やぁ、トラくん。第二幕だね」
「……オリーブ!」
オリーブはいきなりその場から駆け出し、躊躇なくトラに抱きついてきた。
「久しぶりだなぁ。なんだね、お姉さんがしばらく見ない間に大きくなったじゃないか」
セミロングの髪が、白昼の幻想のようにふわりと揺れる。義夫の手から飲みかけのコーヒーの缶が落ちて、ガコン、と音が立つ。
「どうだい。あの本の謎は、解けたかい?」
「いや、まだだよ。本は読んでみたけど」
「ほう、どんな内容だった?」
「鹿の子供が、お母さんを助けるために自分の脚を神様に差し出すんだ。でも、そこまでしか書いてなかったよ。続きがありそうな、短いお話だった」
「ふーん。妙な話だねえ……」
オリーブは親指を、彼女の凜々しい唇に添える。そこでトラは、例の鉛筆のことも思い出した。こちらも、オリーブには報告しておかないと。
「あの不思議な鉛筆だけど……二回使ったら消えちゃったんだ」
「消えた?」
「うん。なんでだろ? 二回とも、友達を助けるために使ったんだけどね」
「……わからない。まあ、それで友達を助けられたのならよかったじゃないか」
するとトラは誰かにくいくいと奥襟を引かれた。
「ちょっとちょっと、トラ先生」
さっきから蚊帳の外だった義夫だ。しかし、なんで先生付けなんだ?
「こちらの美しいお嬢さんは、どなたなのですかなぁ?」
思わず頬をひくつかせてしまうほどの猫なで声。トラの全身が、ゾクッとする。
「さすがは先生。すごいですな、こんな美人とお知り合いだなんて」
「ちょ、ヨッシーって……」
「俺にも紹介してくれます……よね!?」
義夫の顔が眼前に迫る。トラは思わず「ひえっ」と声を上げるも、オリーブは手首を腰に当てて、興味深そうにうなずいた。
「ほうほう、これはエッフェル塔のように立派な男だな。トラくんの友達かい?」
「うん。藤田義夫っていうんだ。ヨッシー、この人は僕が入院していた時にお世話になった移動図書館の司書さんで、オリーブだよ」
いい機会なので、トラは双方の紹介を済ませる。
「オリーブさんですか。素敵な名前ですね。俺のことはぜひ、ヨッシーと呼んで下さい」
「ははっ、ヨッシーくんもなかなか面白い。だが、三分ほど無言で待っていてくれてもいいかな? 私はちょっとトラくんと話したいことがあってね。すまないが」
義夫は口にチャックをする一人芝居を演じ、じっと二人を見つめるだけの石と化す。オリーブは小さく吹き出して、それからトラへと目を合わせた。
「ところでトラくんの病気は回復したのかな?」
「うん。オリーブにもらった本を読んでから、肺の穴が塞がったんだ」
「ほう、それはよかった! やはりあの本には『なにか』があるね。誰がなんのために書いた本なのか、突き止めなければならないようだ」
「オリーブも元気になったの?」
「そうそう、それだ。実は、私の方も不思議なことがあったんだ」
「不思議なこと?」
「うん。きみはあの鉛筆で私に自由をくれただろう。それから、手紙に書いたとおり、私は山咲の外に出てみることにした」
オリーブは人差し指を軽く振りながら、もくもくとわき立つ入道雲へと向ける。
「色んなところに行ったよ。海に近づけば、異人の歴史の残る街があった。赤茶けた煉瓦がきれいだったなぁ。それからフェリーとやらで大きな島に行ったんだ。湾を囲む形で私と同じ名前の植物が栽培されていたんだよ。旅人にその名を呼ばれる度に、私は振り向いてしまった。もう、おかしくておかしくて」
「いいなぁ、楽しそう」
「それから、もっと遠くへ。私は、さらに色んなところへと行くはずだった。でも、私にはその島が限界だったんだよ」
そう言ってオリーブは、指差している手を残念そうに下ろす。
「なぜか、山咲からあまり離れたくないんだ。なんだろう、郷愁とは違う。私はずっとこの街で育ってはきたが、別段この土地に義理があるわけでもない。けれど、身体がどうしても山咲を恋しがるんだ。ほんとにどういうわけなんだろう、私はこの街でまだやるべきことを残しているような気がする。もしかしてトラくん、きみに関係することだろうか」
オリーブは、暗い笑みを浮かべた。
どうやらまだ、オリーブは完全な自由を手に入れられていないようだ。鉛筆が消えてしまった今、手がかりがあるとすればやはりあの『本』しかない。
「さて三分が経ちましたっ!!」
突然義夫が叫んだ。あまりの大きな声に、トラの脊髄がピクリと動く。義夫は胸を拳でどんと叩き、オリーブの前でその胸を張った。
「おや、ヨッシーくん。三分が過ぎてしまったのかい」
「ええ。俺の心の時計で数えたので間違いないっす。今度は俺の番ですね」
「きみにもなにか……問題が?」
「そうです。俺にとっての問題は、あなたのことをなに一つ知らないことです。で、オリーブさんの趣味はなんですか? どこに住んでんの? ていうか、歳はいくつ?」
温さながらのアンケート攻めに、オリーブはやれやれのポーズをとった。ただ、オリーブの口元は緩んでいるので、おそらく義夫には好意的な印象を抱いているのだろう。
「よし、ちょっと待っていなさい」
そう言ってオリーブが図書館から持ってきたのは、カバーのかかった一冊の本だ。
「ヨッシーくん、きみはこの本を読むといい」
「え、これ、なんの本ですか!? 俺、感激です!!」
「あはは、まあ私にもよくわかんないんだけどね。でも私が適当に取った本は大抵、手渡した相手の運命に繋がっているのさ」
「えー、そうなんですか! じゃあ読みます。えーと……はっりすつうぇーど……」
「それは本のカバーの名前じゃないか! それに、正しくは『ハリスツイード』だよ」
「あ、あらら……?」
あっはっは! オリーブは腹に手を当て、笑いに笑った。そしてひととおり笑いきった後、指で涙をぬぐいながら唇をほころばせる。
「その本は貸しておくからじっくり読みなさい。また、二人に会える日までにね」
「あれ? オリーブはもう行っちゃうの?」
「うん。きみと少し話をしたかっただけなんだ。ま、男同士の友情も大切にするといい」
オリーブは移動図書館に乗りこみ、クラッチを踏みながらエンジンをかける。排気筒から抜ける快音。オリーブは窓からバイバイと手を振りながら、ギアを加速させていった。
オリーブが去った後、トラは義夫の顔をそろりと見上げてみる。
義夫の瞳は、太陽の光を全て集めたように輝いていた。




