第4話――工場をデートコースにするんじゃないわよ!――
鉱山の跡地に建てられたという伸銅品の工場は、資料館から歩いて十分くらいらしい。
自転車は資料館の駐車場に置いたまま、トラたちは工場に続く道を歩いた。傾斜はけっこうきつい。身体が後ろに引っ張られそうになるので、やや前傾をしながら進んだ。
温によると、この辺りは準工業地帯に指定されているとか。近くに民家はなく、鬱蒼と茂る山の間をアスファルト舗装の道路が一本に延びている。トラックやダンプカーが、ひっきりなしにトラたちの横を通り過ぎていった。
当初に見えた奥行きの三分の二くらいまで坂を上ると、急に右手の視界が開けた。十階建てのビルの高さほどもある煙突がもくもくと煙を吐き、その麓では五台のフォークリフトが忙しそうに旋回を繰り返している。二つの門を越え、三つ目の門に差しかかった時、温は慣れた足取りで工場の敷地へと入った。
「では、まずは事務所でご挨拶しましょうか」
温が目で示す先には、築四十年ほどのオンボロな二階建ての家屋。
「僕たち部外者ですけど、勝手に入っていいものなんですか?」
「はい、そこはご心配なく」
温が言うなら、大丈夫なのだろう。そう思って事務所の扉に手をかけようとした時、背後から「こらっ!」という怒声を受けた。
肩をビクッとさせて振り返る。駐車場の車止めに、中年の男が足をかけていた。身体つきはたくましいが白髪も多く、見たところ六十前だと思われる。
「きみたち、勝手に入ってくんじゃねえよ! どこのガキなん?」
「いえ、わたしたちは事務所に用があるんです」
温には少しも驚いた様子はなく、冷静に答えている。
「お、もしかしたら……すくねか?」
すくね? よーく聞いたことのある名前に、トラの額に丸い汗が浮かぶ。だけど、どうして工場の従業員がすくねの名前を出すのだろうか。
「あいつだったら厚生棟にいるよ」
「あら、すくねちゃん、お父さんと一緒に帰るつもりなのですね?」
「じゃ。呼んでこようか?」
「いえいえ、それには及びません。それより、板垣社長をお呼びいただけると助かるのですが……」
「社長ぅ~~?」
男が瞼をひくつかせながら、トラたちに近づいてくる。手には鉄製の熊手。まさか、この熊手で攻撃してくるつもりか!?
「きみたち怪しいねえ。いたずらなら、とっとと帰った方がいいよ?」
「ご心配なく。社長に『藤原温が来た』と伝えていただければ、わかると思います」
「藤原……? まあええ、ちょっと待っとけ」
男は熊手を自動販売機に立てかけ、頭をガリガリと掻きながら事務所へと入っていく。そして一分も経たないうちに、眼鏡をかけた痩躯の男が事務所から足早に出てきた。
「藤原のお嬢様!」
「板垣社長、ご無沙汰しております」
どうやらこの初老の人が社長のようだ。しかし今、板垣社長は温のことを『お嬢様』と呼んだ。温はこの工場と深い縁があるようだけど、いったい何者なんだろう。
「いやあ、どうしたんですか、今日は」
「急で申し訳ないのですが、同級生の彼と二人で工場を見学させていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです! じゃあ、少々お待ち下さい。ヘルメットを用意します」
そう言って、社長は再び事務所に戻っていった。
「やっぱり、藤原さんとこの子じゃったんか」
さっきの熊手を持った男が鼻の穴を膨らませる。その瞬間、駐車場の奥にあるプレハブの建物の扉が勢いよく開かれた。
「あれ、トラ?」
グレーのキャミソールに深紅のロングカーディガン。そしていつもの剪定鋏を小脇に抱えたすくねが、スタスタと歩いてくる。
「なんでこんなとこいんの?」
すくねはじろりと温を横目で睨んで、
「ああ、そういうことね」
勝手に自分で納得する。もしかしてトラと温がデートをしているとでも勘違いしたのだろうか。まあ、しかし、あえて誤解を解く必要もあるまい。一から説明するなら温の過去を暴露することになってしまう。
「すくねこそ、なんで工場にいるんだよ」
「あたし? あたしは父さんを迎えにきたのよ。もうすぐ終業だしね。これから父さんと亀山に食料品の買い出しに行くんだ」
「父さん?」
「わしじゃ、わし」
熊手を持った男が自分を指差しアピールする。この人は、すくねの父だったのか。言われてみれば、男の作業着の胸ポケットには『尾崎』の刺繍が入っている。
「で、今日は工場見学でもすんの?」
「うん。ちょっと、ね」
「あ、そ。まあ仲良くやんなさい。あんまり藤原先輩に迷惑かけんじゃないわよ」
剪定鋏を肩に担いだまま、トゲのある言い方をするすくねに、トラはちょっとムッときた。なんだ、迷惑って。トラは温を助けようとしているからこそ工場に来たのに。
「大丈夫だよ。温さんは社長と知り合いみたいだし」
「ふーん。藤原先輩は板垣社長と知り合いだったんだ……じゃあ、あんたは?」
「僕?」
「あんたは別に知り合いでもなんでもないんでしょ? もしかしてあんたが『工場見てみたいなぁ』とか言い出したんじゃないの? 危ないところもあるんだから、美術館行くみたいな感覚で見学するのはやめてよ?」
「そ、そうじゃないって……」
「すくねちゃん。トラくんは頼りになる人ですよ?」
温がトラの両肩に手を添えて言った。ぬくもりが肩から伝わってきて、やがて全身を巡る。トラはカチコチに固まり、一歩も動けなくなってしまった。
「あ、やらしい」
「そうですか? すみません」
温の手が肩から去っていく。トラはほっとしたが、温の落ち着いた微笑みを斜め上に見た瞬間、頬の辺りがカーッと熱くなるのがわかった。
「やっぱりこいつ、変態だ」
すくねは唇を尖らせて、門の方へ走る。
「おい、すくね。危ないぞ」
すくねの父が注意をするも、すくねは門を出たところで剪定鋏を怒ったように開閉させた。ジョキジョキ、という乾いた音が立つ。なんだい、からかいやがって。
「変態って言うなよ」
トラはすくねを追った。せっかく温と工場見学をしようというのに、おかしなことを言って注目されては困る。もうすぐ社長も戻ってくるだろうし。
「うるさい! 工場をデートコースにするんじゃないわよ!」
「違うって言ってるだろ!」
「ばーかばーか!」
すくねが舌をべっと突き出した時だった。
県道から工場の門に、一台のフォークリフトが入ってきたのだ。
「わっ!!」
フォークリフトの運転手はすくねに気づき、すぐにハンドルを切った。しかしリフトの軌道はすぐに変わらない。真っ直ぐに、すくねに突っこんできている。
後方からすくねの父の叫び声と温の悲鳴が聞こえる。だけど二人とすくねには距離がある。すなわち今、すくねを救えるのはトラしかいない。あるいは、すくねが自力で事故を回避するかのどちらかだ。
しかしすくねは、ぺたん、とおしりを地面につけてしまった。その拍子に剪定鋏も飛んでいく。これはいけない――。トラはすくねの前に、両腕を広げる形で立ちはだかった。
だけどこのままではトラもすくねも轢かれてしまう。フォークリフトの重量は平均で約4トン。普通自動車の二倍から三倍の重量を誇る。時速3キロの速さで衝突すれば死亡事故に繋がるというのだから、トラ一人でその進行を塞ごうというのは無理な話だ。
であれば、これしかない。
トラは胸ポケットに手を入れた。鞘から剣を抜くように鉛筆を取り出す。残された時間は一秒もない。トラは手首を素早く動かし、乱れた字を空気中にぶちまけた。
(かわす)
暴風が吹き荒れる。リフトのタイヤが地面と摩擦し、甲高い音を立てる。まるであの世の音のようだ。フォークリフトはトラを喰らうように接近し、しかし、そのまま駐車場へとドリフトを利かせながら滑りこんでいった。
すり抜けた……。
辺りにはゴムの焦げた匂いが充満し、運転手は座ったままブルブルと震えている。
「あぶ、ない、わよ……」
先に口を開いたのは、すくねの方だった。
「……うん。危なかったな。ギリギリ、だった……」
言いながらトラは、目を見開いた。
鉛筆が透明になっていく。重さも、感触も手のひらから消えていく。やがて鉛筆は最後の仕事を終えたかのように、無へと帰ってしまった。なぜ……?
「トラくん! すくねちゃん!」
「すくね、大丈夫か!?」
温とすくねの父が駆け寄ってくる。温は、トラとすくねが怪我をしていないことを確認し、大粒の涙をぽろぽろと流した。
「よ、よかった……」
「お嬢様?」
事務所の入口でそう言ったのは、二人分のヘルメットを手にした板垣社長だ。社長は事態をよく呑みこめていないようで、左右に首を振る。
「見学の準備が整いましたが、どうかされましたか?」
「社長、今日は見学どころじゃありませんよ。山村が事故を起こしかけよったんですわ」
すくねの父が、こめかみに青筋を立てながら社長に言う。
「事故?」
「はい。まあ、うちのガキがちょろちょろ歩いとったんも悪いんですけどね。山村は前方不注意ですわ。安全確認もできとりませんでした。なんもないとは思いますけど、いちおうこの二人を病院に連れてっちゃろうと思うんです」
「そうか。そりゃ、そうした方がいいな。安全会議は月曜でいいか?」
「はい。月曜の午前中に安全衛生課と山村班全員でやります。午後には報告を出します」
なんだなんだ、話がどんどん大きくなっていく。今から病院に行くとしたら、温との工場見学はどうなるのだろう。工場は、事故に対してやたらと深刻に考えているようだ。
「板垣社長、見学はまた日をあらためてお願いさせて下さい」
「お嬢様……それでいいんですか?」
「はい。わたしからもお詫びします。急に見学を依頼し、申し訳ございませんでした」
「そんな……! いや、また別の日で結構ですので、ぜひお顔を見せて下さいね」
「ありがとうございます。そのお気持ちに、感謝いたします」
温は深々と頭を下げ、そして、すくねの腕を取って自らの肩にかけた。
「な、なにするの」
「お父さんの車まで、一緒に行きましょう」
「いっ! いらないわよ」
すくねは身じろぎをして温から離れようとする。きっと、今まで温に厳しくあたってきたすくねだから、気恥ずかしくて仕方がないのだろう。
「すくねちゃん、震えてるじゃないですか。ほら、トラくんもすくねちゃんの荷物を持ってあげて下さい」
トラは温に言われるままに、アスファルトの上から剪定鋏を拾い上げる。
「わかった! わかったからっ! だけどこの肩はいらないわ……。離して」
すくねは温の支えを外し、先頭ですくねの父の車に向かって歩き出した。ひとことも発しないすくねだけど、その背中はトラたちに「ついてこい」と語りかけている。
温が本当に嬉しそうに笑っていたのを、トラは見逃さなかった。




