第3話――『藤原温』の文字がとにかく眩しくて――
藤棚の下のベンチで、トラは温のちょうど隣に座った。
温はさっきからずっと無言だ。
理由はわかっている。歴史資料館で見せた醜態を恥じているのだろう。だからといって明るい話題を振るスキルがトラにあるはずもなく。結局はだんまりしたまま、時間だけが無情に過ぎていった。太陽も、わずかに西に傾いてきたようだ。
「あの卵かけご飯……」
なんとか埒を明けようと、トラは頑張って口を開く。
「え?」
「その……おいしかったですね」
「あ、はい。そうですね……」
「アンケート500問とか、すごいですよね。今度、集計結果を教えて下さい」
「まあ、機会があれば」
温の声にはまったく覇気がない。本当に、温の返事なのだろうか? トラに卵かけご飯を紹介してくれた温。スーパーターボモードの掃除機みたいにテンションを上げた温。まるで別人だ。温は翳りを帯びた目をして、申し訳なさそうにうつむいている。
「歴史資料館の展示、難しかったですね」
「はい」
頑張れ、僕の口。もっとすらすらと、動け。
「そもそも、ある程度鉱山のこと知ってる人じゃないとわかんないんですよ」
「鉱山の町にある資料館ですからね……」
「僕、『軟水処理』とか初めて聞く言葉でしたし」
トラがそう言った瞬間だった。
「軟水処理?」
温の空気感が固定した。声には芯が戻っている。なんだ? なにがあった? またしてもNGワードを口に出してしまったのでなけりゃいいんだけど。
温は、深い霧をはらんだ顔でトラにしっかりと目を合わせてきた。
「どうして、トラくんが軟水処理を知っているのですか?」
「え? ……いや、資料館で見たからですけど」
「それはおかしいです」
温の唇の間から、白い歯がちらりとのぞく。
「資料館に、軟水処理の展示はありません」
「あれ、そうでしたっけ?」
「わたしは、あの資料館に何度も行ったことがあるんですよ? だから、どこにどの展示があるかということくらい覚えています」
「でも、ありましたよ。たしか下部鉱体の模型の隣に……」
「下部鉱体? おかしいです。変ですよトラくん。下部鉱体の模型なんか置いていませんし、そもそも下部鉱体という鉱山の専門用語をトラくんが知っていることからして不思議なんです。もしかしてトラくんはここに来る前、高城鉱山について調べてきました?」
温はトラを疑うように見る。だけど、そんな馬鹿なことはない。
「いえ、僕は今日まで高城鉱山のことを知りませんでした。これは、誓ってもいいです」
「だったら、どうして」
温の瞳孔が急速に萎み、いつものとろんとした目つきに戻る。少し笑っているようにも見えるが、その笑顔が心からのものではないことくらいトラだってわかっている。トラは温に気づかれないよう、小さくため息をついた。
「トラくん、今日はまだ、時間あります?」
ふいに温が言った。
「ええ、大丈夫ですけど」
「今からついて来てほしいところがあるんです。高城鉱山が閉山になった跡地に伸銅品の加工工場ができているのですが、わたしとそこに行ってくれませんか?」
「へ?」
「なんでもいいんです。トラくんが感じたこと、思い出したことがあれば、わたしに教えて下さい」
「そんな。僕はなにも知りませんよ? さっきのだって偶然頭に閃いただけで……」
「わかっています。無茶なお願いかもしれません。でも、もしかしたら、トラくんなら」
「……わかりました」
トラはベンチからすっくと立ち上がる。たぶん力にはなれないと思うが、トラが工場に行くことで温が納得してくれるならそれでいい。
だが、温はベンチに座ったまま、バッグからなにかを取り出している。
「あの、トラくんはスマホをもっていますか?」
「いちおうは」
「では、連絡用にラインを交換しておきましょう」
「え?」
「嫌、ですか……?」
「そ、そんなことありません! じゃあ、これ……」
スマホを差し出すトラ。温はおそらく工場でトラが迷子になったら困るだろうと思って連絡先を交換してくれるのだろうが……なんというか、超ラッキー。
友達一覧に表示された『藤原温』の文字がとにかく眩しくて、仕方がなかった。




