プロローグ
昼下がり。
書き入れ時である昼食の時間帯を過ぎ、大きな店とはいえ活気を失いつつあった喫茶店の扉が開かれ、暖かな風が入り込んできた。
扉の軋む音と、扉に備え付けられた凛とした鈴の音に反応した者が約半数。残りの半分は気にもとめないか、もしくは全く気が付かなかったかのどちらかだ。
しかし、その消極的な半数の客たちの視線も、次第に新たな来客に注がれていった。
あどけなさの残る、十五・六歳ほどの少年だ。
暗めの茶髪で、長くも短くもない。瞳も黒っぽい濃褐色だ。茶髪・金髪、淡褐色の目や碧眼といった、明るい色の髪や眼を持つ者が多いこの地域では、地味ではあるが珍しく、目立つ。
それ以外を見ても、随分と注目を浴びる風貌だった。
ベージュのロングコートを着て、手には手袋を嵌めている。雪も解け、寒さよりも暖かさを多く感じるこの季節に、コートはまだしも、手袋は異様に目についた。
荷物は背負った小さな皮の袋だけだ。年季の入ったやや薄汚れたその袋が、ボコボコと膨らむほど、ありったけの道具を詰め込んだ様子からして、おそらく長期の旅人だろうと思わせる。
珍しい顔立ち、季節はずれの風貌、若い旅人。それだけでも十分目立ってはいたが、それ以上に目を引くものがあった。
左腕の袖の肩口から先が、まるで何もないように、だらしなくぶら下がっていた。いや、『ように』ではなく、おそらく本当に何もないのだろう。
「隻腕か……」
客の誰かが呟いた。
その少年は真っ直ぐにカウンターに向かい、背もたれのない木製の丸椅子を、静かに少し引いてから腰かけた。
「ご注文は?」
髪をオールバックにし、白シャツに黒ベストと、いかにもマスター風の店員(事実、彼がこの店のマスターだ)が尋ねた。
「コーヒーを」
見た目のあどけなさに反して、大人びた、澄ました表情で少年は答える。それを聞いて、マスターは頷いたかどうか、微かな反応のみを見せると淡々と準備を始めた。
「無理すんなよ兄ちゃん、コーヒーは苦えぞ。どうせ大人ぶるなら、酒でも飲んでみたらどうだ? なんなら一杯くらい奢ろうか? ははっ」
まだ十代ほどにしか見えないと判断してか、テーブル席から茶々を入れるスキンヘッドの男がいたが、それを少年は無視した。見向きもされなかった男は不機嫌そうに舌打ちし、昼間からの飲酒に戻っていった。
「ここがこの町で一番大きな店だと聞いたのですが」
少年はマスターに問う。
「誰が言ったんです、それ?」
マスターは微笑み、少年にコーヒーを差し出した。そして続ける。
「まあ、一番大きいかどうかはさておき。おかげさまで、それなりには、やらせてもらってますよ」
少年は渡されたコーヒーに、砂糖もミルクも入れずにブラックのままで口をつけた。熱かったのだろうか、それとも苦かったのだろうか、彼は一瞬顔をしかめた。だが、すぐに微笑んだことが、その答えが前者だったことを物語っている。
「おいしいです」
「それはどうも」
「人を探しています」
彼は脈絡を無視して、急に話題を変えた。
「そういうのは夜に来た方がいいですよ」
この喫茶店は夜になると酒場に様変わりする。多くの旅人が刹那の癒しを求めてやってくるため、情報量としてはそちらの方がはるかに大きいのは誰が考えても明らかだった。
しかし、少年はその提案に首を振る。コーヒーに口をつけながら、肩を竦めて彼は言った。
「酔っ払いの相手は疲れるんですよ。それに、なめられる。そもそも、店に入れてくれないことの方が多いですしね」
「お客さん、いくつですか?」
その質問に、少年は少し首を傾げた。
「さあ? たぶん、十六です」
捨て子か。少年への注目も落ち着きつつあった中でも未だに少年に注視している周りの客が、そのようなことを異口同音に呟いていた。最近では字の読めない者、数字を知らない者は少なくなってきた。そのような時代に自分の年齢を知らないというのは、その大多数が自分の生まれた年を知らない捨て子という事になる。
「なるほど。言っておいてなんですが、たしかに私でも入店をお断りするかもしれませんね」
少年の曖昧な答えには触れずに、マスターは表情を変えずに言う。
「入れてくれない店の方が健全で良い店です。入れてくれる店は逆に、無法状態で手におえない」
「どんな人で? わかるとは限りませんよ」
間接的に褒められ気を良くしたのか、マスターは頬を緩めながら尋ねる。
「真っ赤な髪の男です。長さは、そうですね……。男にしては長くて、肩くらいあります。背は高いですね。ただ、体格は説明できません。細身でもないし、太っているわけでもないし、かと言って、がっちりしているかと言うと……。まあ、平均よりはがっちりしている程度でしょうか。左右のどちらかの目に眼帯をしています。あと、どうせ髪で隠れてわかりませんが、眼帯をしていない目の方の耳に耳栓……耳当てと言った方がいいでしょうか。とにかく、そんな物をつけています。耳がすっぽり隠れる形で、おしゃれな装飾がされています。実年齢は四十五ですが、たぶん三十くらいに見えます」
「ああ、その男は知りませんけど、その男を探しに来た女性なら知ってますね」
オーナーはすぐ答える。その迷いなく話す様子に少年は驚いたようで、目を見開いた。少年のコーヒーを持つ手がピタリと止まる。
「……本当に?」
「ええ。探している男の風貌も変わっていたので、覚えていますよ。あなたの言うことと、そっくりそのままです。けど、それよりも飛びきりの美人だったので覚えていますよ」
マスターはニヤリと笑った。
「いつ、ですか?」
「昨日ですよ。ただ、無事でいるかは知りませんけどね」
「どういう意味です?」
「美人でしたが、とても幼く見えました。お客さんと同じくらいじゃないですか? それに、来たのは夜です。あまりにも危ないので、質問にだけ答えて、すぐにお引き取り願いましたけどね」
「ああ……」
少年はため息をついた。
美人だが幼く、そして夜にやってきたとなれば、酔っ払いたちの注目の的となってもおかしくはない。中には、見るだけでは満足しない連中もいるだろう。マスターの対処と、少年のため息はそのことを案じた故なのだろう。
「その女性の特徴は?」
少年は身を乗り出すようにして訪ねる。澄ました印象を受ける少年にしては、意外な行動だった。よほど、期待を膨らましているのだろう。
マスターは自らの黒色のベストを少し引っ張り、そして言った。
「黒。これに尽きますね。真っ黒な長い髪、黒い瞳。そして、黒いコートです」
「東の出身なのでしょうか?」
遥か東の人間は肌の色や髪の色、瞳の色も違うという。そして、その中で特に一般に言われているのが、黒い髪だった。
「さて? お客さんもそうなんじゃないですか?」
少年も黒とまで言わないが、暗めの茶髪で、東の人間とのハーフだと言われてもおかしくはない容姿だった。
だが、少年は首を横に振る。
「僕がどこから来たのか、僕も知りたいくらいです……。ありがとうございます。ごちそうさまでした」
少年は最後にコーヒーカップを空にすると、代金を払って喫茶店を後にする。
扉の鈴の音が鳴り止んだ後、その後を追うように二人組の男が喫茶店を出ていった。




