幕間 混迷する世界と混迷した世界3
一人の男が居た。その男は木の陰に潜み、息をひそめていた。手に構えるのは弓と矢、キリキリと鳴る弦の音が耳に届き、じんわりと汗が額に浮かんでいた。男は元々農家に産まれた3男坊であった、食うに困る程の不遇な環境に居た訳ではないが、長男が家を継ぐ風習の中、自分で土地を得る程の金を稼ぐか、あるいは長男に雇ってもらうか、多方面でやっていけるだけの技能を伸ばすか、選択肢は少なかったが、無い訳ではなかった。だが、男は何もしなかった、そして最終的に食うに困り、奪う事にした。
周囲に潜むのは男の仲間達だった。男は新入りに過ぎず、この辺りを縄張りにしているそれなりに名の知れた盗賊団だ。
奪うのは楽だ、暴力で解決するのは単純で明白だ。気をつけなければいけないのは軍と、そして魔獣。最近帝国との関係がキナ臭くなり、稼ぎ時でもあった。
弓の矢が指し示す先は一つの馬車。さして急いでいる訳でもなさそうなそれは商人の馬車とは趣が違った。が、しかし男達はその中の一人が前の街でかなりの金を持っている事を確認していたのだ。
馬車に乗る者はたったの4人、しかも女子供だ。黒髪の女が一人、金髪の女が一人。どちらも極上の女。そして黒髪の餓鬼と、あとは護衛だろうか? 腕が立ちそうな男が一人付いているだけ。つまり、その男を一人殺してしまえば後はもう自分達のモノだという事だ。
女日照りが続いていた為か、男は自分が熱り立つのを抑える事が出来なかった。僅かに浮かんでくる笑みが脂ぎった顔の上に浮かび、弦を引き絞る指に力が入る。
男の順番になる前にもしかしたら壊れてしまっているかもしれないが、それでもよかった。あれだけの極上の女には出会える事はそうそう無い。
ちらり、と馬車の幌から金の髪が流れる様に現れ、そしてその顔を見せた。美しい顔だった、そして眠そうな顔をした餓鬼も一人幌から飛び降り、ぐぃ、と背伸びをしている。15歳かそのくらいだろう、自分達の盗賊団にもそのくらいの年の奴が一人いるが、血気盛んなだけで役に立ちやしない。先輩風を吹かす自分より年下の餓鬼を思い出し、少しばかり顔を歪めた男の視線が、その餓鬼と合さった。
「え――」
笑みを浮かべていた。そして男は全身に鳥肌が立つのを自覚し、ヒッ、と悲鳴をあげたその声は鼓膜を破る程の爆音でかき消された。
○
「あぁー、この糞餓鬼てめぇ、俺の取り分はどーなってんだよ。ここんところずっと御者で運動不足だったんだぞ」
がりがりと頭を掻くのはニールロッドだ。視線の先、襲撃者が潜んでいると思われる場所は根こそぎ吹き飛ばされていた。
余程激しい衝撃だったのだろう、視界の端に脳髄やら内蔵がこげた木にこびり付いているのが見える。
更にその後漏れを零さない様にとばかり爆撃が数度、紫電が数回、走っていた。恐らく動ける者は最早居ない事は言うまでもなかった。
「早い者勝ちだな。そら、生きてるのが2、3人居るみたいだから拾ってきたらどうだ。時間が経てば音で魔獣がよってくる。連れてくれば“とっておき”の魔術で記憶を探ってやる、追っ手だったら面倒だ」
「……チッ、お前先日も記憶を探るって言っておいて二人廃人にしただろ。今頃は魔獣の餌になってるだろうが、殺すなら殺してやれって話だと思うぞ」
「……我らが姫様を狙うなぞ死罪ですら生温い」
「棒読みに聞こえるのは俺だけかねぇ〜」
肩を竦めて返したニールロッドにスオウも肩を竦めて返した。
そんな二人に声をかけたのは気怠げな表情を浮かべたルナリアだ。
「あんなに派手にやってよかったのかしら、目が有る可能性だってあったんでしょう?」
くだらない事で喧嘩をしてるんじゃないとばかりに告げるルナリアのその目には、ヒトを一方的に殺した事に対しての避難など毛程も含まれては居ない。
むしろ無駄な時間を取られる事に対して面倒だとでも言いたげである。
「言っても無駄ですよ姫様、どーせあぶり出しも兼ねてるんだろう?」
「街から離れてる事も有るし、牽制も含めて丁度良い。ただあまり面子を潰しすぎると面倒になるかもしれないが」
まぁ、今回のコレは盗賊だろうし関係ないかもしれないが、と続けて告げながらぷらぷらと腕を振るスオウにニールロッドは胡乱気な表情を向けた。
「面子ねぇ……」
やや侮蔑と、そして嫌悪の含まれた視線をスオウへと向けたニールロッドは直ぐに軽く首を振って意識を切り替えた。
1週間程前、城から脱出して直ぐに受けた襲撃。そしてその襲撃者の四肢を捥ぎ、目を抉り、顔を焼いたその所業を見た後なのだ、既に面子など丸つぶれであろう。にもかかわらずその様な事を告げるスオウに対して評価が変わった所でおかしくは無い。まぁ、もともとそんなに良かった訳ではないが。
そしてそれを薄らと笑みを浮かべながら眺めていたルナリア王女に対しても思う所が有った。ニールロッドとて裏に生きる者だ。そういうモノは幾度となく見て来たし、より酷い拷問だってした事は有る。口封じの為だけに産まれたばかりの赤ん坊ですらその手にかけた事だってあるのだ。だが、そんな経験を積んでいるニールロッドですら、薄らと笑みを浮かべながら顔を焼いているスオウを眺めているルナリア王女は寒気を覚える程であった。
「(ま……、長い付き合いも有るし、捨てるのも出来んかねぇ、俺も耄碌したか。しかし、あれは間違いなく連合王国の暗部の連中だねぇ……、命令を出したのは国王か? それとも……)」
国王が出したにしては少々お粗末では有った。所謂2流所だったのだ。焦って暗殺者を雇ったという程ではないが、国王が口を出したにしては少々弱いという所だろう。そこから推測されるに他にルナリア王女が生きていてもらっては困る存在。
「(アグネッタ王妃か? ここに来て動くかねぇ……。ま、たしかに姫様の発言力が弱まったので期と言えば期だが、誰か後ろで囁いたんだろうが)」
ふん、とニールロッドは鼻を鳴らした。国政に国王が健在であるのにも関わらず、王妃が口を出した時点で国は終わる。それが王女の暗殺等もってのほかだ、破滅以外に道はない。全てがそうだとは言わないが、ニールロッドはそう信じていた。何よりアグネッタは他国の女だ、貴族連中も反発を覚える者は多いだろう。ナンナ王女が格下の6家に嫁入りしたのもその辺りの反発が少なかったからかもしれないとニールロッドは思った。そしてその考えは間違っては居ない、ただやや暴走気味であるという事を付ければではあるが。
そんな事を考えていたらスオウから怪訝な表情を向けられたので、ニールロッドは手を軽く振って返事とし、生き残りを探しに森の中へと入った。スオウに使われる事に関しては腹が立つが、アレには借りがあるのだ。身内を殺された(恐らくではあるが)という点はあるが、取り敢えずは姫様を救ってくれたという最大の借りがある。そして実力も十二分に有るとすれば従うしかない。これが姫様に敵対しているということであればあらゆる方法を持ってして排除せんと動くが、生憎と自分の雇い主である姫様が重要視しているのだ。ため息の数も増えるという物である。
「ぅ……、痛い……、うぁ……」
周囲は血と肉の焼けた匂いが充満し、そしてその中に声に鳴らぬ声を上げているヒトが居た。片腕が捥げ、恐らく飛び散った木片であろうモノが足や頬に突き刺さり血を流している。年は14か15か、スオウが爆撃した場所より離れていた為だろう、“不幸”にも死ぬ事が出来なかった少年だ。
ニールロッドは僅かに視線を動かし、少年の傍へと向かいそして見下ろした。
「痛ぃ……、た、たすけ、て……」
ぜぇぜぇと息を切らせながら口の端から血を零して懇願する姿を見てニールロッドは一つ溜め息を吐き、そして手首を鳴らしてナイフを一つ振った。抵抗無くするりとその少年の首を切り裂いたナイフはややおくれて線を描き、そしてつぅ、と血を垂らしたかと思ったらぶしゅり、と勢い良く首から血が噴き出した。絶望の色で染上げた顔でニールロッドを見上げた少年はそこで息絶えた。
「悪いな、餓鬼が餓鬼を拷問する様相なんてそうは見たくは無いんでね。悪いが他の生き残りを捜すとするよ。来世ではまぁ、狙う相手をよく吟味する事だな」
事切れた子供を一瞥し、ニールロッドは次の生き残りを捜しに行く事にした。生きていた所でスオウに殺される事は明白だ。
自分自身にこの様な感傷とも言える感情が残っていた事に少々驚きすら感じていたニールロッドだが、やや歩いた先に今度は両足が千切れていた大人の男を発見し、息が有る事を認めると一つ溜め息を吐いてそれを拾った。
残り少ない命を自分達の為に使ってもらう為だけに。
スオウによる情報抽出が終わった後、――やはり只の盗賊の類いであった――壊れた肉の塊と化したソレを念入りに焼いた後、数時間程馬車を進めた先で本日の宿の準備へと取りかかっていた。
ルナリア王女が居るため野宿は極力避けてはいたが、ゼロという訳にも行かない。表向きには未だ指名手配ではないが、裏では間違いなく掛かっており、果たしてそれが生死問わずであるかは不鮮明だ。信用出来る宿以外は極力使わない方が良いだろう。
まぁ、生憎とこの場に居る者でニールロッドも含め、野宿くらい文句を言うな、程度の事はルナリアに対して平気で言いそうな者しか居ないのだが。ちなみにフィーアは言わない、もといそもそもが必要な事以外は喋らないだろうが。
それに当の本人のルナリアもどこか楽し気であるため特に問題はないだろう。
ちなみにフィーアは今、スオウの手ほどきを受けながら木に吊るされた猪の解体を行なっていた。今日の夕飯である。
「そうだ、そこの肉は後で薫製にするから適当な大きさに切り分けておいてくれ。内蔵は処理が面倒だから後で穴を掘ってそこに埋めるとしよう。毛皮は所詮二束三文だ、ニールロッドいるか?」
そもそも売る先が無ければ売り様も無く、スオウの言う通りそれほど高い金額になる事は無い。むしろ匂いの問題も有る為、持ち歩くよりは破棄が妥当だろう。金に困っている訳ではない。問われたニールロッドも僅かに顔を歪めて断った。
色白の肌、細い指、あの手で数千数万と殺して来たであろう事を想像させない程の手付きで猪をバラして行くフィーア。4階級、加護持ちに猪の解体をさせるものなどスオウくらいのものかもしれない。いや、そもそもクラウシュベルグでは、アルフロッドを削岩機代わりに使っていた事もあった。それに比べればまだマシかもしれないが。
「おい、ここで野営するなら近くで解体するんじゃねぇよ。血の匂いが溜まるだろ」
「後で風魔術で入れ替えておくから問題ないさ。猪肉に限らず新鮮なうちに捌いた方が臭みがなくていいんだ。それにフィーアが王女様の傍を離れるとまずいだろ?」
「お前が一人で解体してくれば良いだろうが……」
「馬鹿言うな、可愛い次女だ、面倒を見てやらんでどうする」
次女だぁ? と不機嫌な声を上げたニールロッドにルナリアは思わず苦笑を浮かべた。スオウより一つか二つ上であろう加護持ちを持ってして次女と言う、となると長女はアリイアとでも言うのであろうか。相も変わらずこの男の思考回路は奇天烈怪奇であると再認識したルナリアは馬車の縁に腕を置いて面倒くさ気に呟いた。
「それで、その娘達の為に頑張る健気なお父さんはこの後どうするつもりかしら? グリュエル領に着いたとしても現状私の権力は殆ど無いに等しいわ。戦争が始まる可能性が有る今グリュエル領で貴方が見つかれば縛り首が良い所よ?」
「御心配なく、エスコートはその手前までです。それに私も少々気になる事が有りますので……、申し訳有りませんが別で動きます」
「あら、途中で放り出すのかしら? 感心しないわね」
「フィーアを付けさせますから大丈夫でしょう。姫様の指示に従う様に言っておきますので」
その言葉にルナリア、ニールロッドは眉を顰め――、そして直にルナリアはそれを理解し、やや破顔して笑みを浮かべた。つまりは“そういう”事だ。
そんな表情に一瞥もくれる事無くスオウは先にニールロッドが作っておいた、もとい作らせた焚き火をスオウは確認し、その回りに石囲いを作り出す。
「それにそもそも名も顔も知られておりませんので、偶々逃げ出していたルナリア王女を保護したという体裁も出来なくは有りませんね」
「そんな都合のいい話は無いでしょう……」
あきれ顔で言ってくるルナリアにスオウは苦笑を浮かべた。当然その通りであったからだ。
現行犯であると思われるとは思わないが、とはいえど関わっている可能性も有ると取られるのは明白。無駄な時間を拘束される可能性は高い、それはスオウの望む所ではない。
「しかしグリュエル辺境伯が敵対する可能性はありませんかね、姫様。一応監禁に反対しなかったですしねぇ」
ニールロッドの疑問ももっともだ。むしろ操られる可能性を知っている場合、その場で拘束される可能性も高い。
その疑問に答えたのはルナリアではなく、スオウであった。尚、石囲いは既に完成し、その上に何処から持って来たのか鉄板をどん、と置いた。その様子にルナリアはそう言えば馬車の片隅に有った様な気がしたなと思い出していたりする。
「可能性としては限りなく低いだろうな。リリス王女にフィーアを手駒として懐に入れている上、刻印による縛りは既に無い。フィーアを連れてその姫様の二の腕でも見せてやれば直ぐに悟るだろうさ。あるいは驚くかな? あぁ、リリス王女が嫉妬するという可能性の方が大きな問題かもしれないな」
楽し気に告げるスオウ、グリュエルがソレを知っているという前提で話すその立ち位置に不審な点はあれど今問いつめる必要性も無い。そんな事をルナリアが考えているのを理解しているのか理解していないのかはさておき、その張本人であるスオウは鉄板の上に先ほどの猪から取れた脂身を塗りたくっている。同時に先日出て来た街で購入しておいたであろう野菜を取り出して何事かを呟き、空中に水球を作り出したかと思ったら手元にボウルを取り寄せ、その水球を使い野菜を軽く洗っていた。
ちなみにフィーアは残りの肉を等間隔に切り分けて保存する為に袋へと詰め込んでいる。どこか楽し気に見えるのは気のせいだろう。
「嫉妬ねぇ……。それよりルナリア王女を匿うという事は国王陛下に叛意を持つと取られても仕方が無いと思うんだがねぇ」
そのフィーアの様相を眺めていたスオウに問いかけたのはニールロッドだ。疑問は当然だろう、拘束されている筈のルナリアを囲う事は陛下の意志に反する。脱獄を手伝った者を逃しても同様だろう。だがそれに対してスオウは淡く笑みを浮かべたあと頭を軽く横に振って「問題ない」、と答えた。
国王はルナリアの死を望んでいない、それはゴドラウの記憶からしても推測出来る話だ。それをグリュエルも把握しているかは不鮮明だが、“何も言わない王”と“帝国の脅威に対する力”であれば後者に天秤が傾く事は間違いが無い。
「薫製を作るなら桜の木片があればベストだったな。まぁ、無い者は仕方が無いか、干し肉も作るとして余りは明日の宿屋に分けるとでもするか」
ぶつぶつと突然関係のない事を呟きだしたスオウにいつもの事だとニールロッドとルナリアは軽くため息を付き、鉄板の上に適当な大きさに切り下処理の済ませた肉を並べて行くスオウを眺める。
良い部位なのだろう、肉の焼ける匂いが鼻腔を刺激し、空いていなかったと思っていた腹に空腹感を覚えた。
「家畜用に飼育したのが豚でそうでないモノが猪だと言うが、品種改良が全くされていない以上有る程度の妥協はやむを得ないか……」
「あら、別に不満は無いわよ。貴方の作るモノは大概美味しいしね」
「当然ですルナリア様、私も食べるのですから」
「王族と同じ食卓を囲んでいる時点で相当な事だとわかってるんだろうな餓鬼……」
しかも野宿で毒味役も居ない、よくもまぁルナリアも文句を言わないモノだと感心しても良いくらいかもしれない。
戦力だけで見れば世界でもトップクラスの様相では有るので安全面で見れば文句は無いだろうが。
「たまにはこういうのも悪く無いわ、もっと絶望的な状況を懸念していたのだけれど」
事実逃亡中の身であるルナリアにとって平穏平和とも言えるこの状況で違和感に近い感情を覚えても不思議ではない。
その辺りは適応力の高さと現状把握能力の高さであろうか。少なくとも監禁場所から出た後、ルナリアの口から弱音という言葉が出た事は無い。
じりじりと焼き目を付けて行く肉を見ながら時折ひっくり返すスオウ。暫くして表面を軽く焼き終えた肉を一度鉄板の隅へと除け、鉄製のヘラで鉄板の上にこびり付いていた肉片をこそぎ落し、その上に馬車の荷台から取り出して来た鍋を置いた。
「そうそう毎日野宿では疲れるでしょうからその辺りは上手く調整致します。ただあと二日程はこのままですが、この辺りは線路が通っていませんので仕方が有りませんね。次の領土を抜ければグリュエル領まで出ている蒸気機関車にのれますのでそうすれば直ぐでしょう。チケットの偽造は既に済んでますので」
「問題なく行けるかしら?」
「さて……」
首をひねったスオウはじりじりと暖まって来た鍋の中に買って来ていたバターと小麦粉を投入し、やや中央部から鍋をずらし、弱火として炒め始める。そして視線はニールロッドを見る。見られたニールロッドは僅かに顔を歪めて答えた。
「一応入って来ている情報ですと封鎖が始まってるみたいですねぇ、それがルナリア王女様に対してなのか、起る可能性がある戦争に対してなのかは不鮮明ですが」
物資の有そう手段として汽車は現在最高峰のモノである。その手段をある程度握る為に拘束をかけるのは常套手段だろう。
ニールロッドとしては後者の可能性の方が高いと考えていた。とはいえど理由は兎も角として制限が掛かっているという時点で元も子もないのだが。
「どうするのかしらスオウ?」
「まぁ……、行ってから考えるとしましょう。それに西と違い東は賄賂もわりかし効き易いですし、少々急ぐ必要はあるかもしれませんが、大丈夫でしょう」
ふむ、と一つ呟いてから手に持った牛乳瓶を睨み、日持ちしないから全部入れるか、と続け鍋の中にくるくると混ぜ続けるヘラの中に一瓶ぶち込んだスオウの言葉にルナリアは軽く笑った。やや焼けて色味が着いた小麦粉が綺麗に混ざりあった所でスオウは鍋を鉄板のさらに隅へとやり、今度はボウルによそっていた野菜を鉄板の上に置き、軽く火を通す。
「戦争が始まるのは非常に困りますのでそれは何とかしなければなりません。あるいはこちらに被害が極力少ない状況で初戦を切り抜けて頂くか、ですが」
「停戦、ね。和平は無理ね国の面子もそうだけれどグリュエル卿は兎も角セレスタン卿は認めないでしょう。部下が大量に死んでいるのだし、ま、殺した張本人はここに居るのだけれどね」
そう告げて楽し気な視線でスオウを見るルナリア、ルナリアにとってもはや自国の民がいくら死のうが知った事ではないという感情も無い訳ではないのだ。復讐する相手が勝手に潰れてもらっても困るという意味合いで協力的な点も無い訳ではない。螺子曲がっている情念を押し付けながらルナリアはうっすらと笑みを浮かべ続ける。
火の通った野菜、そして焼いておいた肉を先ほど作った鍋の中に全て投入し、蓋をしたスオウはヘラでその鍋の中身、シチューを少しよそい味見をした。
「もう少し、か。……代償としてフィーアを求めてくる可能性も無いとは言えませんね。その場合は残念ながらセレスタン卿にもご退場頂きましょうか?」
「それは困るわ、深遠の森の守りが手薄になるのは困るもの」
私が消すなら兎も角魔獣に蹂躙されるのは本意では無い、とでも言いたげな視線にスオウは肩を竦め、答える。
「でしたら後者でしかないでしょう、とは言えど消耗は帝国の利ともなります。全体で言えば不明瞭では有りますが、もはや皇帝一人が手に負えない可能性が高いでしょう」
「“粛正”、ね……。どこからその情報を仕入れて来たかは聞かないけれど、フィーア・ルージュ、リリス、アルフロッドでも駄目かしら?」
「さて、可能性としてゼロとは言いませんが、国運をかけた状態で賭けに出るのは愚策かと、まぁそれはそれで面白いかもしれませんけどね」
「ふふっ、それもそうね」
口元に手の甲を当て、くすくすと楽し気に笑うルナリアにニールロッドは眉を顰めた。
「姫様……」
苦言を告げる様な声色で問いかけられた言葉にルナリアは呆れた顔を向けて「冗談よ」、と返す。それが本心かどうかは定かではないが、取り敢えずの回答としてニールロッドはため息を一つ吐く。こんな役所ではなかった筈だと内心ぼやきながら。
「冗談はさておき私としてもこの国が無くなるのは困るので」
「この国がでは無くて貴方の後ろ盾が無くなるのが困るのではなくて?」
試す様に告げられた言葉にスオウは淡く微笑んだだけで答えは返さなかった。
スオウの目の前の鍋がコトコトと音を鳴らし、料理の完成が近い事を知らせてくる。ポークシチューの完成である。
ヘラに数滴掬って味見をしたスオウはやや首を傾げ、塩と金と同等くらい貴重でもある胡椒で味を整えた。
けして野宿で食べる料理で使うレベルの物ではない。まぁ、クラウシュベルグ領を含め、物流が活発になったカナディル連合王国では他国に比べればまだ安い事は間違いないが。
じぃ、と先ほどからスオウの傍に立ち無表情な顔でその作業を見ていたフィーアに視線を向けたスオウ、パチパチと二度瞬きしたフィーアに対して手を出せ、と告げた。
「御意」
命令に従う従者の如く、スッ、と出て来た色白の肌、病的とも言える程のその手の平にシチューの雫を数滴垂らす。当然少々冷ましてから。
いつもの流れなのだろう、手の平の上にのった数滴のシチューをじぃ、と見つめたフィーアは待て、をされている犬の様にも見える。数秒、スオウが顎をしゃくり、促すと同時にフィーアはそれを舐めた。
「どうだ?」
「塩味」
答えもまた簡潔であり、必要最低限のものでは有った。求めていた答えではなかったのだろうスオウはやや苦笑し、ルナリアへと向き直った。
「相変わらずの様ね」
「まぁ、所詮エネルギー補給の一つとして食事をしていただけに過ぎませんからね。それに快楽を挟む考えすら無いのでしょう。さてはて人形である様な今と人形であったような過去と、どちらが恵まれ幸せであったのか」
「それは私に対しての当てつけかしら? そんなもの所詮主観的なモノに過ぎないわ。他者が判断する事はその他者の個人的な主観に基づくモノでしょう。幸せである、か、不幸せである、かを判断出来る基準が無いヒトに対して幸せかどうかを問うのは愚問だわ。もしそれを示して欲しいのだとしたらそれは貴方が幸せだと言われて救われたいというだけの自己満足に過ぎないでしょう?」
「あるいは幸せであるという基準を設けたものに、その判断基準を投げる事にもなるでしょうね。毎日ヒトに嬲られる事が幸せだと洗脳される可能性も無いとは言えない。飽く迄も私に取っての幸せに対する価値観の共有を強制的に求め、それに対してそうであったと答えてもらい自分の労力に対しての対価、金銭ではない自己満足と呼ばれる幸福に浸りたいだけ、か」
く、とスオウは自嘲した。今更の話では無いか、と。
「フィーアを手に入れた事は王女様にとっても有益です。それに異論を挟む余地はない、様々な副次的な障害は発生するでしょう、が。フィーア自身は使い捨てにされる事無く生きて行けるし、こちらとしても最大級の戦力を確保出来た。多少の葛藤など無駄以外の何ものでもない、ですかね?」
「本当に葛藤してるか疑問ね。貴方が今更そんな事を言う筈も、考える筈も無いでしょう? 使い捨てではないけれど、死ぬまでこき使われる事に対してそれが良い事かどうか等愚問ね。“私”にとって良い事であれば何も問題は“無い”。そう言って欲しかったのかしらスオウ?」
今度はルナリアが嗤った。自嘲ではなく嘲笑であった。
嘲るように嗤われたスオウは軽く目を伏せ頭を下げた。ただの目礼に近い軽いモノだ。問いには返さず、とくに深みにも踏み込まず、そしてスオウは出来上がっていたシチューの盛りつけを始めた。
程よく煮えたシチューの香りは辺りに漂い、食欲を刺激する。それぞれに渡り切った所で食事が始まった。日は既に半場落ちていた。
○
日が落ちる、暗闇が辺りを覆い、目の前の焚き火の火を絶やさぬ様に薪をくべた。
時刻は深夜2時を回った所だろうか、正確な時間が分からないので何とも言えないが、月と星の位置関係からおおよその時間を割り出した。
ルナリア王女は既に就寝しており、護衛を含めた形でフィーアも隣で寝ている。
最初は横になって寝る事すら出来なかった彼女だが、最近は漸く横になって寝る事を覚えた。
「それでも僅かな殺気で目を覚ますんだから大概だな……」
完璧な殺戮人形だ。文句の付け様が無い程の徹底的な洗脳、驚異的な力を持つ相手に対して妥当な行為とも言えるだろう。そこに人権や人道など塵一つない。時代背景からしても妥当とも言えるが。
「まぁ、強力な魔術儀式によって洗脳している立場の奴が言った所で説得力は無いな……、そう思わないか? ニールロッド」
「……チッ」
ゆらり、と動く夜の闇。周囲を囲む木々の隙間からニールロッドが姿を現した。
「情報の確認は済んだのか?」
「お前に答える義理はねぇなぁ」
敵愾心満載の視線に思わず苦笑が浮かんだ。時折見せる殺意の篭った視線ではあったが、ルナリア王女の手前、何より借りがあるからこそ抑えていたモノだろう。恐らく“周囲の部下”にもちくちくと言われていると言った所か。
ニールロッド、ルナリア王女の手駒とはいえど別に彼一人という訳では無い、スゥイの繋がりや、学院で出会ったブランシュ・エリンディレッド等、それなりに伝手は広い。今はその手駒も情報収集という名目て半数以上は外を回っているであろうが、目に見えぬ所で警戒も行なっている。
「くだらない遣り取りをしている余裕が有るとは羨ましい事だな」
「まぁ、確かにな。てめぇのやらかした件で文句の一つも言いたいって奴らが多くってねぇ。直接ぶつかっても殺せそうにないからちくちくとウルセェのさ」
「仲間意識が分からないとは言わないがね、罠にはまった奴が間抜けなんだろ?」
放った言葉と同時に殺到する様な殺意に思わず口角が釣り上がった。
「フィーアが起きるぞ?」
「他者に対する殺意は鈍感なのは調べ済みなんだろうさねぇ」
「いいや違うさ、五月蝿くて起きるんじゃ無いかって言ってるんだ」
――σω§
言葉は往く年も積み重ねて繰り返したかの様に修練されたものとなって口から漏れる。次に出る言葉も発音も口の動きすらも全てが全て自分の物の様にころころと朗朗と紡がれて行く。この感覚は自分自身でも不可思議だと感じる様な事だ。自分の事であるのに自分の事ではないかの様な不思議な感覚。そして音は現実となって世界へと顕現する。
周囲を覆っているであろうニールロッドの部下全ての目の前に魔方陣が出現した。
「“隊長”部下の手綱を確りと握ってやるべきなんじゃないか?」
「さてねぇ」
肩を竦めて答えたニールロッドに思わず溜め息を吐いた。つまりは、手綱を握るのが面倒だったので種を撒いた俺に芽を積ませたんだろう。
目の前に示された命の脅威という魔方陣を見せて。
ややあって目の前のニールロッドが手を振ると同時に周囲からの圧力が目に見えて減って行った。どうやら納得したようだ。
「尖り過ぎてると面倒が増えるぞ餓鬼」
「確かにその通り、それに関しては文句の言い用が無い……」
珍しく心配してくれる様な言葉だ、あるいはそれを示す為に一芝居うったか。確かに無茶のし過ぎなのは事実だろう、だがそれに生の実感を覚えてしまっているのも事実だ。
果たしてそれはルナリアのモノなのか、それとも奪った他の誰かのモノなのか。
少なくともこの国に対する執着心の様な物は恐らくゴドラウのモノであろう。そしてだからこそ、ルナリアを切る事も出来ない。
いや、スオウ・フォールス個人としてはルナリアを切る事は道徳的価値観から出来なくて、ゴドラウの記憶が感傷的価値観から出来ないというべきか。ルナリアの感情はそうそうに切れと言ってはいるのだが。
「……コンフェデルスの連中が軍を動かしたらしいねぇ。そいつとガウェイン辺境伯の動きがキナ臭い、ま、そっちは帝国との接触に一段落した後で処理するんだろうがねぇ」
「やっかいなグリュエル辺境伯と最近台頭してきたクラウシュベルグ男爵もそっちに掛り切りになるだろうから、にしても随分と杜撰だな」
「あそこはセレスタン辺境伯の様に実力主義で切磋琢磨もしなければ、グリュエル辺境伯の様に常に帝国の脅威に晒されている訳でもない。ぬくぬくと温室で育ったお坊ちゃんなのさ。それに加えてその事が元でセレスタン卿とグリュエル卿から嘲られている。同じ建国の4家だと言うのに。それが気に入らないんだろうさ、先々代まではまだマシだったんだけどねぇ」
「そしてそれであったほうが良いとした者も居たという事か……」
問いに対してニールロッドは答えなかった。選ばれた者である貴族、その認識が有る状況で幼少期から権力を持つ子供が居たとすれば果たしてどのように育つのか。そしてそんな予想が付き易い思考回路を持った権力者を有効活用しようとする連中が居ない筈も無い。犠牲となるのは民であり、無力な者達である。
――どちらにせよ、今考える様な事では無い。
「それはそれとして、だなぁ……。こっちとしては正直確認したい事が一つある」
目があった。射貫く様な視線に思わず怪訝な表情が浮かんだ。問われる内容に思い当たる事があり過ぎて、だ。
スゥイの事か、アリイアの事か、あるいはアイリーンの事か、如何考えても一級品の爆弾だらけである。そんなモノを抱えてあちらこちらに手を出しているのだ、未だにこの首が繋がっている事に感謝しても良いかもしれない。
「フィーア・ルージュを拘束した術式はなんだ?」
「過去の遺物、かな?」
「宮廷魔術師を洗脳した術式、どこで手に入れた?」
「努力で」
「何故ゴドラウ師長を殺した?」
「聞く必要が有るのか?」
ふぅ、とニールロッドが溜め息を吐いた。
問われた内容は今更蒸し返す様な事でもない、探りはそっちで勝手にはいっているだろうし別にこちらも説明する義理等無い。目の前にフィーア・ルージュという戦力が存在し、ルナリア王女を操っていたと“される”ゴドラウを殺した所で咎められる理由等無い。
ふん、と軽く鼻を鳴らし、再度焚き火に薪をくべた。
「不毛な質問を繰り返す事の無意味さを知るべきだと思うけれど、まぁ不安な感情を抑圧する為に情報を必要とするのは分かるさ、それが不毛であり答え自身に明確な物が無かったとしても」
「お前のその言い方はやめた方が良いぜぇ、他人の神経を逆なでしてる様なもんだ。あるいはそれを理解して言ってんのかもしれんがねぇ」
吐き捨てる様に告げたニールロッドは哨戒に戻る、と行って闇へと消えて行った。
虫の鳴き声と風のざわめきだけが残る。温い風が肌に触れ、空には変わらぬ月が二つ。そのうちの一つ、青い月を睨み上げた。
変わらずそこに有る青月、加護持ちの配給源であるそれを。
フィーアは知っていた、いや、粛正が知っていた。リメルカ王国に残されていた古文書がそれを裏付けていた。
アレは加護持ちの為のタンクであると示されていた事実、それの裏付けとそれだけではない、という事実を。
「けれど全てを知っている訳ではない。だがもはや……」
真実は遠く、そしてあれほど焦がれていた執着心が薄れつつあるのを自覚していた。あぁ、これはフィーアの記憶の為だろうと。
世界はモノクロで、価値を感じる事はない、加護持ちは外れた存在、“この”世界の生き物ではなく、“この”世界の生き物に価値等感じないのだ。
それでも、まだ動くこの体は蓄え奪った記憶によるものに過ぎない。ゴドラウはこの国とルナリアのアン王妃の残した命に執着し、アリイアは死と血と愛に飢え、いつぞや始末した殺し屋のブラッドは金と生を望み、フィーアは世界に何も価値を覚えなかった。スオウ・フォールスが欲した自分が自分であるというソレは最早既に自分が自分でなくなっているという矛盾の元で崩れつつある。
記憶の混濁と記憶の流入、経験が全てのヒトの人格を作り上げるというのであれば、今の自分はスオウ・フォールスであると言えるのかどうか。
「なぁ、クラウシュラ」
問うた言葉に答えは無い。知った者にソレは現れないのだから。
――解離性同一性障害
ありすぎる知識に押しつぶされない為に作り上げた人格。今はただの記憶ベースとなったプログラムの一つに過ぎない。下地は済んだ、準備は終わった。
「クラウシュラ・キシュテインなんて最初から居なかった」
手を挙げた、自分を知るヒトは最早誰もいない。最初から居なかった。
指の隙間から見える青い月は変わらずそこに居た。




