第32話 決着、そしてパンツ
その瞬間、東京大迷宮・第3演習場を埋め尽くす5万人の観衆から、呼吸という生理現象が消失した。
アリーナの中央。
S級探索者、「雷帝」ジーク・ヴァイス。
最新鋭の魔導アーマーに身を包み、最強の剣士として君臨していた男の足元には、無惨に切り裂かれた革ベルトと、重力に従って滑り落ちたズボンが積み重なっている。
そして、白日の下に晒されたのは――。
ショッキングピンクの生地に、ファンシーな『クマさん』が楽しげに踊る、勝負パンツだった。
ジークの太腿は白く、寒風に震えている。
クマさんのつぶらな瞳が、中継カメラのレンズ越しに、全世界の視聴者と見つめ合っていた。
「…………」
静寂。
あまりにも予想外すぎる光景に、脳の処理が追いつかない。
最強の男が、クマさん。
雷帝が、ピンク。
そのギャップは、暴力的なまでの破壊力を持っていた。
最初に反応したのは、実況アナウンサーだった。
『あ……えっと……これは……?』
その震える声が、堰を切った。
「ぶふっ……!」
観客席のどこかから、こらえきれない噴飯音が漏れる。
それが連鎖し、波紋のように広がり、やがてドーム全体を揺るがす爆発となった。
「ギャハハハハハハハハハ!!」
「嘘だろオイ! クマさんかよ!」
「雷帝の趣味、ファンシーすぎんだろ!」
「腹痛い! 誰か救急車!」
「スクショ撮った! 拡散! 拡散!」
爆笑。哄笑。嘲笑。
5万人の笑い声が、物理的な衝撃波となってジークを襲う。
シャッター音が機関銃のように降り注ぎ、フラッシュが雷撃以上の眩しさで彼を灼いた。
「な、ななな……ッ!?」
ジークの思考が再起動する。
足元の寒さ。
観客の視線。
そして、巨大スクリーンに大写しにされている、自分の股間のクマさん。
瞬時にして、彼の顔はパンツと同じショッキングピンクに染め上がった。
羞恥で血管が切れそうだ。
彼は慌ててズボンを引き上げようとするが、焦りとパニックで足がもつれ、無様に踊るような動きになってしまう。
「み、見るな! 見るなぁぁぁぁっ!!」
絶叫するジーク。
だが、一度流出した「デジタルタトゥー」は消せない。
今日この瞬間、彼は「雷帝」から「クマさん」へとクラスチェンジを果たしたのだ。
俺、鈴木悠作は、そんな彼を数メートル後ろから冷ややかに見下ろしていた。
「……派手な趣味だな」
「き、貴様ぁぁぁ……ッ!!」
ジークが涙目で俺を睨む。
その瞳には、殺意よりも深い、絶望的な屈辱の色が浮かんでいた。
「俺に恥をかかせるために……あえて、こんな……!」
彼は勘違いしている。
俺が彼を転ばせ、肉を斬らずにベルトだけを斬るという、神業的な手加減をしたのだと。
戦士として敗北させるのではなく、男としての尊厳を破壊する。
それは、圧倒的な実力差を見せつけるための、最大の侮辱だと受け取ったのだ。
「(……いや、俺は普通に腰を狙っただけなんだが)」
俺は心の中で弁解したが、口には出さない。
彼のアーマーの継ぎ目がそこしかなかっただけだ。
勝手に転んだのは向こうだし、勝手にパンツを見せたのも向こうだ。俺のせいじゃない。
「殺せ……! いっそ殺せぇ!」
「殺さんよ。帰るのが遅くなる」
俺はナイフをポケットにしまい、審判の方を見た。
「……3分経ったろ? 俺の勝ちでいいな?」
審判の協会職員は、笑いを必死に堪えて肩を震わせていたが、俺の言葉にハッとしてマイクを握った。
「し、試合終了! 勝者、鈴木悠作!」
判定が下る。
その瞬間、会場の爆笑は割れんばかりの歓声へと変わった。
勝者への称賛と、敗者への生温かい拍手が入り混じる。
「くそおおおおおおお!! 覚えてろよぉぉぉぉ!!」
ジークはズボンを両手で押さえたまま、脱兎のごとく退場ゲートへと走り去っていった。
その背中には、哀愁とクマさんが漂っていた。
彼が再び表舞台に出てくるまでには、相当なリハビリ期間が必要になるだろう。
天井のキャットウォーク。
立ち入り禁止の暗がりで、山口純子はスコープ越しにその光景を見届けていた。
「……あらあら。随分と可愛らしい趣味をお持ちで」
純子は冷ややかに笑い、ライフルの安全装置をかけた。
彼女の計算通りだ。
ジークのプライドを粉砕し、かつ悠作の手を汚さずに勝利させる。
完璧な仕事だった。
「軸足を砕くのは簡単でしたが、それでは悠作さんの『不戦勝』になってしまいますからね。あくまで悠作さんの実力で勝ったように見せかけつつ、相手の心だけを折る……。我ながら良い狙撃でした」
彼女は空薬莢を拾い上げ、ポケットに入れた。
証拠は残さない。
「悠作さんにあんな汚いものを見せるなんて……目が腐ってしまいます。お詫びに、今夜はとびきり美味しいお夜食を作って差し上げないと」
純子は「任務完了♡」と小さくVサインを出し、愛銃『ブラック・ウィドウ』を分解してケースに収めた。
闇に溶けるように撤収を開始する。
誰にも知られることのない、守護天使の完全犯罪だった。
彼女のスマホの「駆除リスト」からは、『雷帝・ジーク』の名前が消され、『処理済み』のスタンプが押されていた。
アリーナは歓声に包まれていた。
「パジャマの英雄」コールが巻き起こっている。
俺は疲労感たっぷりにため息をついた。
「……帰りたい」
もう十分だろ。
これ以上目立ちたくない。
S級昇格は決まったが、これからの面倒事を考えると胃が痛くなる。
俺がそそくさと退場しようとすると、VIP席から女性陣がフェンスを乗り越えて駆け寄ってきた。
「悠作さーん! すごいです! カッコよかったです!」
高橋すずが目を潤ませて飛びついてくる。
「師匠! マジ神! クマさんウケる! 拡散決定!」
山本ゆき子がスマホで連写している。
「……効率的な勝利でした。精神的ダメージによる再起不能を狙うとは、策士ですね。あのベルト切断の技術、物理演算してみたいです」
中村瞳がブツブツと分析を始めている。
山田しずかも腕を組み、「見事な重心崩しだったわ。……やはり貴方は、私の見込んだ男ね」と勘違いしたまま感心している。
伊藤みのりは「あー、胃が痛い……でもこれで文句なしのS級ね。協会の面目も保てたわ」と座り込んでいた。
加藤茜は「あのパンツの柄、グッズ化できるかしら……『雷帝のクマさんボクサー』、売れそうですわね」と不穏なことを呟いている。
「……お前ら、声がでかい」
「いいじゃないですか! お祝いですよ!」
俺が顔をしかめていると、足元で「クゥン」と甘えるような声がした。
見下ろすと、そこにはポチがいた。
首から下げた「応援団長」のタスキが少しずれている。
ポチは俺の足に前足をかけ、つぶらな瞳でじっと見上げてきた。
「ワフゥ……(終わった?)」
上目遣い。
首を少し傾げ、耳をぺたんと伏せている。
そして、チラリと出口の方を見て、また俺を見る。
「ワフッ、ワフン(外、行きたい。歩きたい)」
尻尾をパタパタと振るその仕草は、「ずっと良い子にして座ってたんだから、ご褒美に散歩連れてってよ」と全身で訴えていた。
さっきまでの騒動など我関せず。
ただひたすらに、主人との散歩を求めている。
俺のズボンを、小さな前足でクイクイと引っ張る。
「ねえねえ、行こうよ」と言わんばかりの催促。
普段の暴れん坊将軍とは思えない、計算されたあざとさ。
誰に似たんだか。
「……はぁ。わかったよ」
俺はその可愛さに負け、しゃがんで頭を撫でた。
ふわふわの毛並み。温かい体温。
殺伐とした決闘の後には、この癒やしが必要だ。
「帰りは歩いて帰るか。天気もいいしな」
「ワオンッ!(やった!)」
ポチが嬉しそうに飛び跳ねる。
その質量でアリーナの床にヒビが入り、破片が飛び散ったが、今は気にしないことにしよう。
請求が来たら茜に回せばいい。
「じゃあな、お前ら。俺はポチの散歩があるから先帰るぞ」
俺が歩き出すと、背後から慌てた声が追いかけてくる。
「えっ、待ってくださいよ悠作さん!」
「祝勝会しましょうよ! アタシ、肉買ってく!」
「私のデータ整理も手伝ってください。本日の戦闘データは貴重です」
「今日の打ち上げは、私が奢るわよ! 経費で!」
女性陣が騒ぎ出す。
どうやら、今夜も俺のアパートは定員オーバーになりそうだ。
「……勝手にしろ」
俺はポチを連れて歩き出した。
背中には五右衛門、足元にはフェンリル。
そして背後からは、個性豊かな厄介者たちの追走。
S級になっても、俺の日常は変わらないらしい。
いや、むしろ加速していく予感がする。
まあ、それも悪くないか。
今夜の宴会のメニューを考えながら、俺は会場を後にした。
その夜。
アパート『ひまわり荘』に女性陣が集結し、深夜まで大騒ぎになったことは言うまでもない。




