第26話 温泉回・後編 ~計算高い天使と茹でダコのおっさん~
埼玉・裏山ダンジョン深層、『秘湯・裏見の湯』。
S級ポーター・しずかによる物理的な整地で完成した即席の露天風呂は、今まさにカオスの坩堝と化していた。
湯気の中にひしめく美女たち。
すず、ゆき子、瞳、みのり、しずか。
そして、逃げ場を失い岩陰で小さくなっている俺、鈴木悠作。
「悠作さん、背中流しますってば!」
「アタシが流す! 師匠の広背筋、触らせて!」
「待ってください。水圧による心肺機能への影響を計測します」
四方八方から伸びてくる手。
ポチも興奮して「ワフワフ!」と泳ぎ回っている。五右衛門は『旦那、目の保養でヤンスねぇ』と呑気に湯に浸かっている。
俺はのぼせかけていた。湯温のせいではない。状況の熱量のせいだ。
「……もう勘弁してくれ」
俺が天を仰いだ時だった。
「お待たせしましたぁ♡」
湯けむりの向こうから、鈴を転がすような甘い声が響いた。
その場の空気が一瞬で止まる。
現れたのは、最後の一人――コンビニ店員、山口純子だった。
全員が息を呑む。
なぜなら、彼女の格好が、他の女性陣とは決定的に異なっていたからだ。
すずのハイレグや、ゆき子のマイクロビキニといった「水着」ではない。
彼女が身につけているのは、純白のバスタオル一枚のみ。
胸元から太腿の際どいラインまでを、一枚の布で頼りなく覆っているだけ。
濡れた黒髪をかき上げ、上気した肌を露わにして立つその姿は、清楚でありながら、計算され尽くした破壊力を秘めていた。
「じ、純子ちゃん!? それ、水着じゃないの!?」
すずが裏返った声で叫ぶ。
「えへへ、すみません〜。急いでて水着忘れちゃって……。これじゃダメですか?」
純子は小首をかしげ、潤んだ瞳で俺を見つめる。
あざとい。あまりにもあざとい。
だが、その破壊力はS級モンスター並みだ。
「……悠作さん。お湯、温かいですか?」
純子が湯船に足を入れる。
白い肌がお湯に触れ、紅潮していく。
「あ、足元が滑りそうで怖いですぅ……。悠作さん、手を引いてくれませんか?」
彼女は俺に向かって手を伸ばした。
その瞳の奥に、スナイパー特有の「獲物を狙う光」が一瞬だけ見えた気がしたが、湯気のせいだろうか。
「……っ、泥棒猫!」
「計算高い女!」
すずとゆき子が牽制するが、純子は柳に風とばかりに無視する。
俺はどうしていいかわからず、とりあえず手を伸ばした。
ここで無視して転ばれたら、それこそ大惨事だ。
「……気をつけて入れよ」
「はいっ♡」
純子が俺の手を握る。
柔らかく、冷たい手。
彼女はゆっくりと俺の方へ近づいてくる。
そして、俺の目の前まで来た、その瞬間だった。
「あっ!」
純子の足が、何もないところで大きく滑った。
いや、滑ったフリをしたように見えた。
彼女の体が前につんのめる。
「きゃっ!」
彼女の手が宙を舞い――。
バサッ。
重力に従い、彼女の体を覆っていた唯一の防壁、バスタオルが滑り落ちた。
――時が止まった。
茜が設置した配信用のカメラには、濃密な湯気が都合よくかかり、視聴者には「何かが見えそうで見えない」絶妙な映像が流れていたはずだ。
だが、至近距離にいた俺の視界には、湯気ごときでは遮蔽しきれない「真実」が飛び込んできた。
「……!」
純子は、慌てる様子もなく、俺の胸に飛び込んできた。
「きゃっ! ごめんなさい、私ったらドジで……♡」
その声は、驚くほど棒読みだった。
確信犯だ。
俺の胸に押し付けられる柔らかな感触と、視界を埋め尽くす肌色。
そして、耳元で囁かれる悪魔の囁き。
「……悠作さん。私のこと、ちゃんと見てくれました?」
プツン。
俺の中で、何かが焼き切れる音がした。
長時間の入浴によるのぼせ。
視覚情報のオーバーロード。
そして、純子による至近距離からの精神干渉攻撃。
俺の脳の処理能力は、限界を超えた。
「……湯あたりだ」
俺は呟き、意識を手放した。
視界がホワイトアウトする。
体がゆっくりと湯船の中に沈んでいく。
「悠作さん!?」
「師匠ー!?」
「悠作!? 鼻血出てるわよ!」
「心拍数急上昇! 脳波がフラットラインに……!」
女性陣の悲鳴が遠くで聞こえる。
ブクブクと泡を吐きながら沈んでいく俺の目に最後に映ったのは、してやったりの笑顔でバスタオルを拾う純子の姿だった。
「……ん」
俺が目を覚ましたのは、茜が用意した休憩用のテントの中だった。
頭が重い。
目を開けると、心配そうなポチの顔があった。
「クゥーン……」
ポチが俺の頬をペロペロと舐めている。
そのザラついた感触で、意識が現実に戻ってきた。
「……俺は、生きてるのか?」
「気がつきましたか、悠作さん!」
「よかった……! 師匠が死んだかと思った!」
周りには、浴衣に着替えた女性たちが集まっていた。
すず、ゆき子、瞳、みのり、しずか。
全員、髪が濡れて艶っぽい。
そして、少し離れたところで、純子が「てへぺろ」と舌を出している。
あの女……あとで説教だ。
「随分と派手にのぼせましたわねぇ。配信は最高潮の盛り上がりで終了しましたわよ」
茜がホクホク顔で言った。
どうやら俺が気絶している間に、配信は切り上げられたらしい。
アーカイブが残っていないことを祈るばかりだ。
「……腹が減った」
俺は起き上がりながら言った。
湯あたりと気疲れで、エネルギーが枯渇している。
何か、ガツンとくる肉が食いたい。
それも、極上の脂と赤身を兼ね備えた、最強の肉が。
「肉だ。……すず、確か持ってきてたな?」
「はい! もちろんです!」
すずがクーラーボックスから取り出したのは、竹の皮に包まれた巨大な肉塊だった。
『近江牛』。
日本三大和牛の一つ。きめ細やかなサシが入った、サーロインのブロックだ。
常温に戻しておいたのか、脂が少し溶け出して輝いている。
「……よし。やるか」
俺はふらつく足で立ち上がり、携帯コンロの前に立った。
今の俺を回復させるには、これしかない。
『近江牛の厚切りステーキ』だ。
まずは肉の表面に、岩塩と挽きたての黒胡椒を振る。
余計な味付けはいらない。肉そのもののポテンシャルを引き出すだけでいい。
厚手の鉄フライパンを煙が出るまで熱し、牛脂を溶かす。
そこに、肉を静かに置く。
ジュゥゥゥゥーーーーッ!!
耳を劈くような激しい音と共に、甘く芳醇な和牛香が爆発的に広がる。
ココナッツや桃にも例えられる、和牛特有の甘い香り。
テントの中が、一瞬で高級ステーキハウスの空気に変わる。
「……いい音」
「匂いだけでご飯いけるわ」
女性たちがゴクリと喉を鳴らす。
俺は肉を動かさず、表面にメイラード反応が起きるのを待つ。
約1分。裏返してさらに1分。
表面はカリッとクリスピーに、中はレアに。
焼き上がったらアルミホイルに包み、温かい場所で5分ほど休ませる。
この「レスト」こそが、肉汁を全体に行き渡らせる魔法の時間だ。
その間に、ガーリックチップを作る。
スライスしたニンニクを低温の油でじっくり揚げ、きつね色になったら取り出す。
付け合わせは、シンプルにクレソンと、刻みわさび。
「……飲み物はこれだ」
俺が用意したのは、ブラジルの国民的カクテル『カイピリーニャ』。
サトウキビの蒸留酒「カシャッサ」に、ぶつ切りにしたライムと砂糖を加え、これでもかというほど潰して混ぜ合わせ、クラッシュアイスを注いだものだ。
今日はポチもいるので、アルコール度数は調整してある。
「……よし、切るぞ」
休ませた肉を、包丁で切り分ける。
スッ……。
抵抗がない。まるでバターを切っているようだ。
断面は鮮やかなローズピンク。肉汁が溢れ出すことなく、繊維の中に留まっている。
「完成だ」
皿に盛り付け、ガーリックチップを散らす。
醤油をひと回し。
鉄板の余熱で醤油が焦げ、香ばしさがプラスされる。
「いただきます!」
全員で手を合わせる。
俺は一切れを箸で掴み、わさびを乗せて口に運んだ。
……溶ける。
噛んだ瞬間、肉の繊維が解け、濃厚な脂の甘みが口いっぱいに広がる。
赤身の旨味と脂の甘み。それがわさびの辛味で引き締まり、醤油の香ばしさが鼻に抜ける。
「……んん〜っ!!」
女性陣から悲鳴のような歓声が上がる。
「柔らかい! 何これ、飲み物!?」
「脂が甘いわ……。でも全然しつこくない」
「細胞が……活性化しています。エネルギー充填率120%……」
そこに、カイピリーニャを流し込む。
ライムの鮮烈な酸味と、カシャッサの野性味あふれる甘い香りが、口の中の脂を一瞬で洗い流す。
冷たく、爽快な喉越し。
濃厚な和牛と、南国のカクテル。
意外な組み合わせだが、脂と酸味のバランスが完璧なマリアージュを生んでいる。
「合う……! ステーキにライムのカクテル、最高です!」
「悠作、あんた天才ね。……これならいくらでも食べられるわ」
ポチにも、味付けなしのサイコロステーキを与える。
ポチは目を輝かせ、一瞬で飲み込んだ。
「ワフッ!(もっと!)」
俺は肉を噛み締め、カクテルを煽った。
生き返る。
湯あたりの気だるさが、心地よい満腹感へと変わっていく。
「……まあ、色々あったが、悪くない休日だったな」
俺が呟くと、純子がグラスを持って隣に来た。
今は浴衣姿だ。はだけないようにしっかりと着ている。
「悠作さん。今日はドジっちゃってすみませんでした♡」
「……わざとだろ」
「ふふ、何のことですか?」
純子は悪びれもせず微笑んだ。
その笑顔は可愛らしいが、俺は知っている。こいつが一番油断ならない相手だということを。
テントの外では、星空が広がっていた。
こうして、カオスな温泉慰安旅行は幕を閉じた。
茜は売上でホクホク顔。
ヒロイン……いや、女性陣は温泉と肉で肌ツヤが良くなり、ポチは腹一杯。
俺の疲労だけがピークに達していたが、まあ、この肉が食えたなら良しとしよう。
★★★★★★★★★★★
翌日。
コンビニのバックヤード。
山口純子は、愛用のライフル『ブラック・ウィドウ』を丁寧にメンテナンスしていた。
その手つきは、恋人の髪を梳くように優しい。
「ふふ……昨日の悠作さん、可愛かったなぁ」
彼女のスマホには、昨日撮影した悠作の写真が保存されていた。
のぼせて目を回している顔。
肉を食べて幸せそうな顔。
「いいデータが撮れました。……これを糧に、今週も害虫駆除、頑張りましょうか」
純子は銃身にキスをし、妖艶に笑った。
コンビニの表では、「いらっしゃいませー!」という明るい声が響いている。
彼女の守護天使としての活動は、まだまだ終わりそうにない。




