第22話 激辛カレーの誘惑
日曜日の夕方。
練馬ダンジョンでの「荷運び勝負」を終え、みのりとの束の間のランチ休憩を楽しんで帰宅した俺、鈴木悠作を待っていたのは、アパートの前で仁王立ちする巨躯の女性だった。
「……遅かったわね」
S級ポーター、山田しずか。
彼女はまだ、あの冷蔵庫サイズのコンテナを背負ったままだ。
その顔には敗北の悔しさはなく、むしろ求道者のような真剣な眼差しが浮かんでいる。
「何の用だ。勝負は俺の勝ちで終わったはずだぞ」
「ええ。だからこそよ。……貴方の技術、まだ底を見ていない」
グゥゥゥゥ……。
しずかの言葉を遮るように、彼女の腹から地響きのような音が鳴り響いた。
S級の筋力を維持するためには、常人の数倍のカロリーを消費する。勝負の後からずっと待っていたとすれば、ガス欠もいいところだろう。
彼女は顔を赤らめることもなく、真顔で腹を押さえた。
「……空腹で思考回路が回らないわ。補給が必要よ」
「はぁ……。わかったよ、入れ」
俺はため息をつき、鍵を開けた。
どうせ、ポチの餌も作らなきゃならない時間だ。
部屋に入ると、俺はすぐにエプロンをつけた。
消耗しきった彼女が求めているのは、細胞を叩き起こすような強烈な刺激とエネルギーだ。
「リクエストはあるか?」
「……辛いのがいいわ。頭が真っ白になるくらい、刺激的なやつ」
「了解だ」
俺は冷蔵庫の奥から、厳重に密閉された小瓶を取り出した。
中に入っているのは、赤黒い粉末。
埼玉ダンジョンの深層に自生する激辛魔草『ドラゴンス・ブレス・チリ』を乾燥させ、粉砕したものだ。
そのスコヴィル値は測定不能。一振りでワイバーンが火を吹いて逃げ出すと言われる代物である。
「今日はこれを使う。『特製・灼熱スパイスカレー』だ」
フライパンに多めの油を引き、クミンシードとマスタードシードを弾けさせる。
そこにみじん切りの玉ねぎを投入し、飴色を超えて焦げ茶色になるまで徹底的に炒める。
ベースはトマトとヨーグルト。酸味とコクで、辛さを支える土台を作る。
そして、スパイス投入。
コリアンダー、ターメリック、カイエンペッパー。
最後に、『ドラゴンス・ブレス』を慎重に加える。
ジュワアアッ!
刺激臭を含んだ湯気が立ち上る。
換気扇を全開にしないと目が潰れるレベルだ。
「くしゅんっ!」
足元でポチがくしゃみをして、部屋の隅に避難する。
五右衛門も『旦那ァ、毒ガス兵器でヤンスか!?』と布の中に引きこもった。
具材は、脂の乗った羊肉と、ダンジョン産のキノコ。
マトンの強い香りは、激辛スパイスと相性が抜群に良い。
強火でガンガン炒め合わせ、スパイスの香りを肉に叩き込む。
煮込むこと20分。
水分が飛び、赤い油が表面に浮いてきたら完成だ。
皿にターメリックライスを盛り、その上からドロリとした赤黒いカレーをかける。
仕上げにカスリメティを散らし、半熟卵のアチャールを添える。
「……できたぞ。食ってみろ」
俺はしずかの前に皿を置いた。
立ち上る湯気だけで、鼻の奥がツンとする。
「……すごい色ね」
しずかはゴクリと喉を鳴らした。
彼女はスプーンを握りしめ、覚悟を決めたようにカレーを口に運んだ。
パクッ。
静寂。
数秒後。
「~~~~ッッ!!!」
しずかの目がカッと見開かれた。
顔が一瞬で真っ赤になり、額から玉のような汗が噴き出す。
「か、からっ……! 痛い! 熱い!」
彼女は悲鳴を上げながらも、スプーンを止めなかった。
なぜなら、痛覚のような辛さの直後に、暴力的なまでの「旨味」が押し寄せてきたからだ。
マトンの野性味溢れる脂と、トマトの酸味。
それらをスパイスの香りがまとめ上げ、噛みしめるたびに脳髄を揺さぶる。
辛い。でも美味い。
食べるのを止めれば辛さに負ける。だから食べ続けるしかない。
これは食事ではない。生存本能をかけた戦いだ。
「はふっ、はふっ! ……んん〜っ!」
しずかは涙目でカレーをかき込む。
汗が顎を伝い、首筋へと流れる。
その鬼気迫る姿は、戦乙女の休息というよりは、何かに憑かれた修羅のようだった。
「……美味いか?」
「ら、い……!」
言葉にならない声を上げながら、彼女は完食した。
皿に残ったソースまで、ターメリックライスで拭って綺麗に平らげる。
「……ふぅ、ぅ……」
しずかはテーブルに突っ伏した。
全身から湯気が上がっている。デトックス効果が凄まじい。
「水だ。飲め」
俺は氷水を差し出した。
しずかはそれを一気に飲み干し、荒い息を整えながら顔を上げた。
その瞳は潤み、頬は上気し、どこか恍惚とした表情を浮かべている。
「……悠作」
「ん?」
「このスパイスの配合……。辛さと旨味の黄金比……。完璧だわ。まるで人生の縮図……」
しずかは震える手で俺の手を握った。
熱い。火傷しそうなほどの手の熱さだ。
「私、わかったの。貴方の強さは、この『刺激』を受け止める土台(器)の大きさにあるって」
「……何言ってんだ?」
「悠作。私、貴方のこと……」
しずかは真剣な眼差しで、俺を見つめた。
「……結婚して」
「はあ?」
俺は耳を疑った。
カレーを食わせただけで、なんでそうなる。
「私の人生を、貴方に背負ってほしいの。……いいえ、貴方の人生を、私が半分背負うわ」
「お断りだ。俺の人生はソロプレイ専用だ」
「照れなくていいのよ。……まずは同棲から始めましょう」
しずかは俺の拒絶を「照れ隠し」とポジティブに解釈し、勝手に部屋の隅に自分のコンテナを下ろしてスペースを確保し始めた。
「ここがいいわね」
「置くな。床が抜ける」
こうして、S級ポーター・山田しずかによる「強引な入り浸り」が確定した。
俺の平穏なアパートは、また一人、規格外の住人を迎えることになったのである。
翌日、月曜日の朝。
俺はいつものように早起きし、キッチンに立っていた。
しかし、その環境は昨日までとは一変していた。
狭い6畳間には、雑魚寝するゆき子と瞳、そして座ったまま仮眠をとっているしずか。
足の踏み場もない。
このカオスな状況で平常心を保つには、無心で何かを作るしかない。
「……パンを焼くか」
俺が取り出したのは、昨夜のうちに仕込んでおいたデニッシュ生地だ。
強力粉と薄力粉をブレンドし、バターを折り込んで何層にも重ねた生地。
これを伸ばし、三角形に切り分ける。
クルクルと巻いて、三日月型に成形する。
『クロワッサン』だ。
オーブンに入れ、焼き上がりを待つ。
その間に、飲み物を用意する。
今日は少しリッチに『エッグノッグ』を作ることにした。
ボウルに卵黄とグラニュー糖を入れ、白っぽくなるまで擦り混ぜる。
そこに温めた牛乳と生クリームを少しずつ加え、弱火でとろみがつくまで加熱する。
火から下ろし、バニラエッセンスとナツメグを一振り。
本来はブランデーを入れるが、朝なのでノンアルコールだ。
チーン。
オーブンが焼き上がりを告げる。
扉を開けた瞬間、芳醇なバターの香りが爆発的に広がった。
「……んん……?」
「……いい匂い……」
バターの魔力に引かれ、床に転がっていた連中がのそりと起き上がる。
黄金色に焼き上がったクロワッサン。
外はサクサク、中はしっとりとした層が重なり合っているはずだ。
「ほら、朝飯だ。並べ」
俺は焼きたてのクロワッサンと、温かいエッグノッグを配給した。
テーブルなどないので、全員手に持って食べるスタイルだ。
「いっただきまーす!」
ゆき子がクロワッサンにかじりつく。
サクッ、パリパリッ。
軽快な音が響き、バターの香りが鼻腔を抜ける。
「うっま! 何これ、店のより美味いんだけど!」
「……層の重なりが均一です。熱伝導率の計算が完璧ですね」
瞳も眼鏡を曇らせながらハフハフと食べている。
「そして、このエッグノッグ……」
しずかがカップに口をつける。
カスタードクリームのように濃厚で、優しい甘さ。ナツメグの香りがアクセントになっている。
サクサクのクロワッサンとの相性は抜群だ。
「……悠作。貴方、本当に何者なの? 荷運びだけじゃなく、こんな繊細な作業まで……」
「ただの料理好きなおっさんだよ」
俺は自分の分のクロワッサンを齧り、エッグノッグを啜った。
美味い。
手間をかけた甲斐があった。
「ワフッ!(俺のも!)」
ポチが足元で騒ぐ。
俺はバター控えめの端っこをちぎってやった。
窓の外では、新しい一週間が始まろうとしている。
部屋の中は、ギャル、リケジョ、S級ポーター、そして魔獣で満員御礼。
さらに、あと数時間もすれば、食材を持ったすずや、集金に来る茜も現れるだろう。
「……俺の家は、いつから無料の食堂になったんだ」
俺の嘆きは、クロワッサンを頬張る女性たちの笑顔にかき消された。
まあ、美味いものを食って静かになるなら、それでいいか。
俺は諦めて、二つ目のクロワッサンに手を伸ばした。




