第14話 モデルの突撃
土曜日の午後。
昨夜の居酒屋『赤のれん』での奇妙な出会いから一夜が明けた休日。
俺、鈴木悠作は、アパート『ひまわり荘』のキッチンで、極めて繊細な作業に没頭していた。
目の前にあるのは、ボウルに入った卵黄とグラニュー糖。
そして、小鍋で温められている牛乳と生クリーム。
バニラビーンズの鞘をナイフで裂き、中の黒い粒々をこそぎ落として鍋に加える。
「……温度管理が命だ」
俺は温度計を見つめながら呟く。
作っているのは『バニラアイスクリーム』だ。
市販のアイスも美味いが、一から作った濃厚なアイスクリームは別格だ。特に、添加物を使わずに素材の力だけで固めたアイスは、口溶けの良さが段違いだ。
まずはアングレーズソース作り。
卵黄にグラニュー糖を加え、白っぽくなるまで擦り混ぜる。空気を含ませることで、重すぎない食感を目指す。
そこに、バニラと一緒に温めた牛乳を少しずつ加えて伸ばしていく。
甘く、芳醇なバニラの香りが狭いキッチンに広がる。
これを鍋に戻し、弱火にかける。ここが勝負どころだ。
沸騰させてはいけない。83℃前後をキープし、絶えずゴムベラで底を混ぜ続ける。卵に火を通しつつ、決してスクランブルエッグにしてはならない。
適度なとろみがつき、ヘラで線が描けるようになった瞬間を見極めて火から下ろす。
「……よし。完璧なとろみだ」
俺はソースを氷水に当てて急冷する。
粗熱が取れたら、八分立てにした生クリームを合わせる。
泡を潰さないように、さっくりと、しかしムラなく混ぜ合わせる。
この「空気の含有量」が口溶けの良さを決めるのだ。
金属製の容器に流し込み、冷凍庫へ。
完全に固まる前に数回取り出して空気を含ませるように混ぜることで、氷の結晶を細かくし、滑らかな舌触りに仕上げる。
「完成が楽しみだ」
「ワフゥ……(じゅるり)」
足元で、ポチが冷凍庫を見上げて涎を垂らしている。
昨夜は留守番だったからな。甘いもので機嫌を取らないといけない。
「あとでやるから待ってろ。……さて、固まるまでの間に一杯やるか」
俺はグラスを取り出した。
まだ日は高いが、休日の特権だ。
それに、濃厚なバニラアイスクリームには、キリッとした炭酸のカクテルがよく合う。
用意したのは、クラフトジン『六』。
桜花、桜葉、煎茶、玉露、山椒、柚子という日本のボタニカルを使用した、繊細で奥深い香りのジンだ。
薄はりのグラスに氷をぎっしりと詰め、ジンを注ぐ。
マドラーでステアし、ジンとグラスを冷やす。氷が溶けた分だけジンを追加するのも忘れない。
そこに、プレミアムトニックウォーターを氷に当てないように静かに満たす。炭酸を飛ばさないためだ。
仕上げに、ライムを搾り入れ、皮ごと沈める。
『ジントニック』。
バーテンダーの腕が試されると言われる、シンプルにして至高のカクテルだ。
俺はグラスを傾けた。
シュワッ……。
炭酸の刺激と共に、柚子の爽やかな香りと山椒のスパイシーな後味が抜けていく。
「……美味い」
至福の時間だ。
昨夜は居酒屋で変装した高橋すずと遭遇し、トムヤムクンを分けるというハプニングがあったが、今日は誰にも邪魔されずに過ごせそうだ。
そう思った矢先だった。
ピンポーン。
無機質なチャイムの音が、静寂を破った。
俺はグラスを置き、眉をひそめる。
こんな時間に客? セールスか、それともカイトの件で嗅ぎつけたマスコミか。
ポチが低く唸り声を上げている。
「……はい」
チェーンをかけたまま、ドアを少しだけ開ける。
そこに立っていたのは、昨夜も見かけた覚えのある人物だった。
「こんにちは、鈴木さん! 昨夜はどうも!」
大きなサングラスをかけ、キャップを目深に被った女性。
トップランカー、高橋すずだ。
昨夜の居酒屋での変装とほぼ同じだが、今日はさらに大きな紙袋を抱えている。
「……昨日の今日だな。何の用だ? ここがよくわかったな」
「協会のみのりさんに泣きついて聞きました! ……昨日のトムヤムクンのお礼と、大事なお話があって来たんです!」
すずはサングラスを外し、真剣な眼差しを向けてきた。
その顔には、昨夜のほろ酔いの緩みはなく、プロの探索者としてのキリッとした表情が張り付いている。
俺はため息をつき、チェーンを外した。
ここで追い返して騒がれるよりは、話を聞いてさっさと帰ってもらった方がいい。
「……入れよ。散らかってるがな」
「ありがとうございます! お邪魔します!」
すずが部屋に入ってくると、ポチが警戒して飛び出してきた。
「ワフッ!(誰だお前!)」
「きゃっ! ……あら、可愛いワンちゃんですね」
すずは驚いた様子もなく、屈み込んでポチに手を差し出した。
ポチは鼻をヒクヒクさせ、すずから漂う高級な匂いに反応して、あっさりと警戒を解いた。現金な奴だ。
「こいつはポチ。家族だ」
「ポチちゃんですか。……ふふ、鈴木さんに似て、強そうですね」
すずは微笑み、改めて俺に向き直った。
そして、持っていた紙袋から一枚の封筒を取り出し、突き出してきた。
「単刀直入に言います。これ、企画書です!」
「企画書?」
「はい! 私のチャンネルでの公式コラボ企画、『パジャマの英雄・名誉回復スペシャル』です!」
……タイトルがダサい。
俺は封筒を受け取らず、腕組みをした。
「昨夜も言った気がするが、俺は目立ちたくないんだ。カイトの件で誤解は解けたし、これ以上騒ぎを大きくしたくない」
「でも、まだネット上にはアンチが残っています! 『動画は本物でも、人格に問題がある』とか『裏社会の人間だ』とか、好き勝手言われてるんですよ? 私はそれが許せません!」
すずが頬を膨らませて怒る。
どうやら、俺以上に俺の評判を気にしているらしい。
「私が保証人となって、鈴木さんの実力と人柄を公式に配信すれば、そんな雑音は一発で消えます。それに……」
すずは少し声を落とし、上目遣いで俺を見た。
「……私、昨日のトムヤムクンを食べて確信しました。貴方の技術も、戦闘スタイルも、もっと近くで学びたいんです。カメラの前で、貴方の凄さを証明させてください!」
熱烈なアプローチだ。
だが、俺は30歳の枯れたおじさんだ。
名誉よりも、アイスが固まるのを待つ時間の方が惜しい。
「気持ちはありがたいが、パスだ。今日はアイスを作ってる途中だし、ポチの散歩にも行かなきゃならん」
「そ、そんな……! 私とのコラボよりアイスと犬の散歩が大事なんですか!?」
「当たり前だろ。アイスは溶けるし、ポチは家族だ」
「ワフッ!(そうだそうだ!)」
ポチが得意げに鳴いた。
すずが絶句している隙に、俺は話を打ち切ろうとする。
その時だった。
「あらあら、悠作様。随分とつれない対応ですこと」
開けっ放しのドアから、もう一人、和装の女性がぬらりと現れた。
艶やかな黒髪に、あくどい商人のような微笑み。
骨董店主にして俺の債権者、加藤茜だ。
「げっ、茜。なんでここに?」
「集金……いえ、悠作様の『資産価値向上』のためのご提案に参りましたの」
茜は扇子を開き、口元を隠してクスクスと笑う。
すずの背後に立ち、彼女の肩に手を置いた。どうやらグルらしい。
「このコラボ企画……出演料、相場の倍は出していただけるそうですわよ?」
「え?」
「さらに、動画の収益分配も折半。投げ銭に関しては全額悠作様へ……。試算しましたところ、この一本で、悠作様のローンの利息分……いいえ、元金の一部まで返済可能ですわ」
ピクリ、と俺の眉が動いた。
借金1000万円。トイチの金利。
毎月の返済額は、F級の稼ぎでは到底追いつかないレベルだ。
それを、たった一本の動画で?
「……本当か?」
「嘘はつきません。契約書も私がチェックしました。お得意様を騙すような真似はさせませんわ」
茜の目が「¥」マークになっている。
こいつ、自分が確実に回収できると踏んで、すずの入れ知恵に乗ったな。
「それに、悠作さん。私も賛成よ」
さらに、階段の下からもう一つの声がした。
スーツ姿の伊藤みのりが、疲れた顔で階段を上がってくる。
今日は休日のはずだが、手には協会の書類鞄が握られている。
「みのりちゃんまで……。なんだ、包囲網か?」
「人聞きが悪いわね。業務連絡よ」
みのりはすずと茜に軽く会釈をして、俺の目の前に立った。
「先日話した『S級昇格試験』の日程が決まったわ。来週よ」
「早いな」
「上層部が急かしてるのよ。でね、この試験には『実技審査』があるんだけど……通常は協会の試験官立ち合いのもとで行うの」
「面倒くさそうだな」
「ええ。でも、もし貴方が、現役のS級やA級ランカーとパーティを組み、高難易度ダンジョンを攻略した『公的な記録』があれば……実技審査を免除できる特例があるのよ」
みのりはチラリとすずを見た。
「高橋さんはA級筆頭。彼女とのコラボ動画は、そのまま審査資料として使えるわ。つまり、この案件を受ければ、面倒な試験会場に行かなくて済むし、いきなりS級ライセンスが交付されるってわけ」
なるほど。
みのりなりの、俺への配慮というわけか。
借金の返済。昇格試験の手間省略。そして何より、目の前で期待に満ちた瞳で俺を見つめる、美女の圧力。
これを断れる男がいたら連れて来い。俺が説教してやる。
「……外堀、埋められたな」
俺は天を仰いだ。
ため息を一つつき、観念して肩をすくめる。
「……はぁ。わかったよ」
「本当ですか!?」
「受ければいいんだろ、受ければ。その代わり、条件がある」
俺はすずを指差した。
「俺はあくまで『サポート役』だ。主役はあんた。俺は後ろで荷物を持ってるだけにする。……あんまり派手なことはさせないでくれよ」
「もちろんです! 『最強の荷物持ち』……最高の画になります!」
すずはガッツポーズをした。
その横で、茜が電卓を叩き、みのりが「よし、これで書類仕事が一つ減った」と安堵の息をついている。
「(これで……堂々と隣にいられる!)」
すずの心の声が聞こえてきそうな笑顔だ。
まあ、昨夜のトムヤムクンをあんなに美味そうに食べてくれた礼だと思えば、悪くはないか。
「じゃあ、詳しい打ち合わせは中で……と言いたいところだが」
「はい?」
「ちょうどいい時間だ。……アイス、食うか?」
俺は冷凍庫から金属製の容器を取り出した。
程よく固まった『バニラアイスクリーム』だ。
スプーンですくうと、ねっとりと糸を引くような粘りがある。濃厚な証拠だ。
ガラスの器にアイスを盛り付け、ミントの葉を添える。
そして、俺が飲んでいたジントニックを新しく作り直し、人数分用意した。
「どうぞ。自家製アイスと、ジントニックだ」
「えっ、アイスと……お酒ですか?」
すずが驚いた顔をする。
茜とみのりも興味深そうにグラスを手に取った。
「合うんだよ、これが」
俺はアイスを一口食べた。
卵と生クリームの濃厚なコク、バニラの甘い香り。口の中で冷たく溶けていく。
その余韻が残っているうちに、ジントニックを流し込む。
シュワッ。
炭酸の刺激とジンのボタニカルな香りが、アイスの甘さをスッと切ってくれる。
口の中がリセットされ、またすぐに次の一口が欲しくなる。
「……んんっ!」
すずが目を見開いた。
「美味しい……! 濃厚なのに、全然くどくない! ジントニックの苦味が、バニラの甘さを引き立ててます!」
「あら、これは危険な味ですわね。いくらでも食べられそうですわ」
「悠作、あんたまた腕上げた? これお店出せるわよ」
女性陣に大好評だ。
ポチも自分の皿のアイスをぺろぺろと舐め、幸せそうに目を細めている。
狭い部屋に、三人の美女と一匹の魔獣。
賑やかで、少し窮屈なティータイム。
俺は部屋の隅で魔石を齧る五右衛門を見ながら、遠い目をした。
「……俺の平穏な休日は、どこへ行ったんだ」
諦めにも似た独り言は、彼女たちの楽しげな話し声にかき消された。
こうして、俺の公式デビュー戦となるコラボ配信の日程が決まった。
それは同時に、新たな騒動を呼び寄せる狼煙となるのだが、今の俺はまだ知る由もなかった。




