第二十話 三つの言語
「ふぁー、暑いねぇ」
抜けるような青空を見上げ、光代は呟いた。
肇の寝起きの目には、南国の太陽はきつかった。しかし、フィリピンの首都マニラが暑いと言っても、先日までいたトラック泊地はもっと南だし、珊瑚海は赤道の向こうだった。改めて、大和ホテルの冷房の偉大さを感じた。
タラップで立ち尽くしていると、光代に叱られてしまった。
「お父さん、それじゃシュウちゃんが出られないでしょ」
「おっと、すまんな、修君」
肇が降りると、後ろにいた村雨修もマニラ空港に降り立った。普段は寡黙なこの少年も、光代といるとよく話すし良く笑う。ただ、気が付くと会話がナバホ語になってしまうのが問題だ。人前では気を付けるように言っているのだが。
空港を出ると、見知った顔が出迎えた。肇が声を掛ける前に、気が付いた修が声を上げた。
「あなたは……」
かつて上海で肇を助け、村雨一家をナバホ族保留地から連れ出すために手を貸した冴木だった。
「お久しぶりです、村雨君」
冴木は肇に向きなおって会釈した。
「石動閣下、お久しぶりです。この旅の案内役を仰せつかりました。何なりと」
肇が途中で遮る。
「あー閣下は結構ですから、冴木さん。ざっくばらんで行きましょう」
気がかりだったことを訊ねる。
「それより、美鈴はどうしてます?」
冴木は微笑むと答えた。
「今や立派な同僚です。途中でこの旅にも加わる予定です」
光代が喜ぶだろう、と肇は思った。そこで、本人が現れるまで光代には内緒にしておくことに冴木と決めた。
まず一行は、冴木が運転する車でマニラ市内に向かった。天蓋のないオープンカーだった。太陽が眩しいため、冴木はサングラスをかけた。
街には人があふれ、活気があった。南国らしく道行く人の肌は浅黒いが、肇もここでひと月も暮らせば見分けがつかなくなるだろう。実際、日本人と思われる姿もかなり見かけた。
話されている言葉は現地のタガログ語と英語が半々だが、時折、片言の日本語も混ざる。
「景気は良いみたいですね」
肇の言葉に冴木は頷いた。
「米軍がマニラから早くに撤退して戦火にあわずに済んだのと、日本からの援助が入って、国の基盤づくりの工事が進んでますからね。そこで働いて賃金を貰えば、現地の庶民が潤うわけです」
光代が聞いた。
「国の基盤、ってなぁに?」
肇は、そのことで七年前に、サッスーン卿と上海で激論したことを思い起こした。
「道路とか水道、電気や瓦斯や鉄道などだね。これらが無いと、工場も商店も建てられない」
答える肇に、冴木が指摘した。
「もう一つ、大事なものがありますよ。学校です」
これは肇には意外だった。
「米国の統治下でも、学校はかなり作られたはずでは?」
サングラスを持ち上げ、冴木は肇を見た。
「そうした学校の教師には米国人が多く、授業は英語だけでしたけどね」
なるほど、と肇は頷いた。様々な分野で、米国人が引き上げて開いた穴を、日本人が埋めているわけだ。
「英語だけの学校から、タガログ語を公用語として教える学校に切り替えている最中です。言葉は国民意識の土台ですからね」
明治の日本は、海外から取り入れた近代的な用語を、漢文を参考にして漢字による造語に翻訳した。経済や精神など、その語彙は極めて多く、そのため日本ではどんな学問でも日本語で学ぶことができる。
一方、タガログ語にはそのような翻訳が行なわれなかったため、現状ではタガログ語だけでの教育が極めて困難だった。
「そんなわけで、タガログ語の中に英語の単語を挟む話し方が広まってます。書く方もタガログ語をローマ字風に表記します」
冴木が指さした看板はアルファベットが並んでいたが、タガログ語らしい単語に英単語も混ざっていた。
「タガログとイングリッシュの合成なんで、タギリッシュと呼ばれてます」
肇が尋ねた。
「日本人の教師が増えているそうですが、日本語も普及しそうですか?」
「そうですね、今後、英語を日本語が置き換えるかもしれません。その辺はまだ流動的です」
冴木は車を停めた。
「ここは旧市街で、イントラムロスと呼ばれています。スペイン語で、城壁の中、という意味です」
その名の通り、幅の広い堀の向こうに重厚な城壁がそそり立っていた。
「最初にこの国を植民地にしたのはスペイン人でした。当時の彼らはこの土地の人たちを家畜か何かのように酷使するだけで、教育など考えていませんでした。そして、自分たちは城壁で囲んだ都市の中に住み、この中に学校や教会など、自分たちのための施設を作ったのです」
城壁の門をくぐり、車を進めた。歴史を感じさせる西欧風の建物が立ち並ぶ。肇は、どことなく上海の外灘に似ていると思った。
「外国っぽいねぇ」
光代は物珍しさが先に立つようだ。彼女が良く読む、欧米の翻訳物の物語のイメージなのだろう。一方、修は何か考え込んでいる様子だった。
肇が言った。
「ここに閉じこもっていたスペインに比べると、米国の支配はかなりましだったのでしょうか」
「そうですね。少なくとも、フィリピンをアメリカに近づける努力は伺えます」
冴木の返事に、さらに肇が聞く。
「それはフィリピンの米国化であって、現地の独自文化の否定になりませんか?」
「はい。そうならないようにするのが、日本の責務でしょうか」
冴木の答えに、肇は考え込んでしまうのだった。
「日本人の教師が日本語で教えたのでは、米国と一緒ですね。むしろ、こちらがタガログ語を学ぶべきでしょうか……」
冴木はそれには答えず、車を走らせてホテルへ向かった。
ホテルで荷物をおろし、食堂で昼食をとると、肇は光代に言った。
「お父さんは午後、人に会う約束があるんだ。光代たちは冴木さんと街を見て回るといい」
光代の顔が輝いた。
「え、ホントに?」
冴木が頷いた。色々、見て回りたいのだろう。
肇は修に向かって言った。
「というわけだから、光代のことをよろしく頼むよ」
修の目が見開かれ、こくこくと頷く。マニラの治安は比較的良いそうだから、護衛が二人も付けば光代も安全だろう。
また、了の歴史では「敵性外語」だとかで英語の学習が禁止されたそうだが、とんでもない話だ。ハワイにしろフィリピンにしろ、英語がなければ統治できるはずない。光代や修も学校で英語の授業があり、修は母語の一つでもあり優秀だった。
二人とも、言葉の壁は乗り越えられそうだった。この分なら、地元の子供たちと友達になれるかも知れない。
一同を後にして、肇は一人マニラ市街を歩く。途中、何度か通行人に道を聞く。タガログ語はさっぱりだが、英語が通じるのはありがたい。これが何年かすると、日本語が通じて当たり前になるのだろうか。
たどり着いた先は、元は倉庫だったレンガ造りの建物だった。入り口にかかっていた看板には、手書きで二段に渡った名称が書かれていた。
「MAKAPILI」
「比島愛国同志会」
日本統治下で設立された民兵組織、アルテミオ・リカルテ将軍が率いるマカピリである。ちなみに、MAKAPILIとは比島愛国同志会をタガログ語で記載した頭文字の組み合わせだ。
銃を抱えた兵士が二人、入り口の警護をしていた。見慣れない銃なのでよく見ると、米軍が使っている型式だった。投降した米軍からの鹵獲品なのだろう。暑さもあるのだろうが、二人は気だるげな様子だ。肇は、治安の良さの証だと思うことにした。
名前を告げると、兵士の一人が奥に入り、しばらくすると走り出てきて敬礼をしてきた。もう一人にタガログ語で何か告げると、そちらも慌てて敬礼をする。一体、冴木たちI機関がどんな紹介をしたのか気になるが、兵士の後について建物の中に入った。
天井の高い屋内は、衝立のようなもので簡易に区切られているだけだった。その奥まった一角に通されると、そこだけ籐で編まれた長椅子などの調度が整えられていた。簡素な執務机の向こうから一人の老人が立ち上がって、流暢な日本語で挨拶をしてきた。
「ようこそ、石動閣下。私がリカルテです」
またしても閣下だ。訂正するのも面倒なので、そのままにする。
「アルテミオ・リカルテ将軍、お会いできて光栄です」
長椅子を進められ、背の低い卓を挟んで向かい合って腰かける。
「どうやら、マニラの治安は良さそうですね。将軍のおかげです」
肇の言葉に、リカルテは手を振って答えた。
「いやいや、まだまだです。安定しているのはルソン島の一部で、他の島々はこれからです」
これも、了の世界から大きく変わった点だ。あちらでは軍部が「食糧の現地調達」を行ったため、米などを輸入に頼っていたフィリピンは酷い食糧不足となり、これが苛烈な軍政と一緒になって、戦後にまで続く反日意識を生んだという。開戦前の御前会議で「皇軍は乞食でも盗賊でもない」と主張し、食糧などの持参を訴えたことがここでも役立っている。占領直後に独立させたことも正解だった。
了が言うには、マニラ湾の西側バターン半島の先端にあるコレヒドール要塞が陥落したとき、何万人もの米兵とフィリピン人兵が捕虜になり、食糧もなく酷暑の下で半島を歩かされたため、大量に死者が出て「バターン死の行軍」と呼ばれたという。しかし、こちらでは戦闘終了と同時に補給船が大挙して接岸し、全く逆の状況となった。
リカルテは言葉を続けた。
「この国が貧しいのは、米国の植民地として輸出用のサトウキビやココナッツなどが偏重され、主食の米やトウモロコシの生産がなおざりにされていたからです。しかも国民の大半はプランテーションの小作人です」
肇が応じる。
「それを是正するため、治安が戻った農村には日本兵が入り、一緒に農作業をしながら技術指導をしているはずですが」
老将軍は頷いた。
「日本の緑の革命ですな。この地に根付いてくれることを願うばかりです」
そのとき、兵士が一人、飲み物をついだグラスを卓に置いて行った。琥珀色の液体で、氷が浮いている。リカルテはグラスを手に取り、肇にも勧めた。
普段飲まない肇にとって、昼間から飲酒というのは抵抗があったが、一口あおる。
麦茶だった。
「……将軍は、日本には長かったのでしたね」
リカルテは頷いた。
「比米戦争に破れて上海に抑留され、そこを脱獄して以来ですからのう。かれこれ二十年以上でしたか」
米国からの独立を求めた比米戦争が終わったのが一九〇〇年。その後、何度も米国への忠誠を誓うように強要された。共に闘った仲間が次々と忠誠を誓い恭順する中、ただ彼一人は拒否し続け、逮捕、国外追放と帰国を繰り返すことになった。
「ラース・ビハーリ・ボースには会われましたか?」
インド独立運動の活動家の名を、リカルテはあげた。
「直接の面識はありませんが」
しばし言い淀んで、肇は続けた。
「健康が思わしくない、という話は伺ってます」
「そうですか……」
リカルテを上海から脱出させるために尽力したのは、同じ独立活動家であるラースだった。国は違えども、祖国の独立を願うという意味では同志だったのだろう。事実、リカルテの米国に対する抵抗が、アジア各地にいたインド人に、英国への隷従に対する疑問を抱かせたのは間違いない。
「年月の波というものは、そうやって色々なものを削り取っていくのでしょうなぁ」
窓の外、遠くを見やる。
肇は切り出した。
「実は、本日伺ったのはこの秋に予定されている大東亜会議の件です」
「ふむ」
視線を翻し、肇の眼を直視する。
「この国からはラウレル大統領が出席するのでしょう」
どことなく、リカルテは他人事のようだったが、肇は言葉を続けた。
「その通りですが、そこへ将軍、あなたも出席して頂きたいのです」
意外だったらしく、リカルテは目を見張った。
「私が?」
肇は頷いた。
「ただ日本だけが、欧米列強の植民地支配に異を唱えたわけではない。その生き証人として、ぜひとも」
リカルテは目を伏せ考えこんだが、やがて頷いた。
ホテルに戻ると、光代がはしゃいでいた。
「こっちの学校に行ったらね、沢山お友達ができたの」
本来なら夏休みの時期だが、戦争で遅れた分、こちらでは補習が行われているのだという。授業の中に割り込む形になってしまったが、日本人の教師の計らいで、こちらの子供たちとの交流の時間を持たせてくれたのだ。
「折り紙を教えてあげたらすごく喜んでくれてね、お返しにタガログ語の歌を教えてくれたの」
手に持った紙には五線譜が書かれ、カタカナで歌詞が書かれていた。「レロン レロン シンタ」というのがタイトルらしい。日本語の訳詞も添えられている。レロンは意味が無い囃し言葉で、日本のソーラン節のような感じだ。シンタは「愛しい人」という意味らしい。
光代は歌いだした。南国の明るい調べで、日常の些細な光景が描かれている。
レロン レロン 愛しい人
パパイヤの木に登るのね
新しい籠を持って
私にとってくれるのね
てっぺんに着いたけど
急に枝が折れちゃった
ついてなかったね
他の枝を探そうよ
歌いながらくるくると回る光代を、部屋の隅で修が眩しそうに見ていた。
その修が、食事の後で肇に話しかけてきた。
「石動さん」
この少年に直接話しかけられるのは、非常に珍しいことだった。少年は言葉を続けた。
「ディネも、自分たちの言葉で教育を受けられるでしょうか」
ディネは修が生まれ育ったナバホ族が自らを呼ぶ言葉だった。意外にも大人びた問いに肇は戸惑ったが、しばし考えて答えた。
「そうだね。この戦争が終われば、日本もディネのためにいろいろなことができるだろう」
少年の真摯な問いに答えたからには、それなりの責任が伴う。そう肝に銘じる肇だった。
登場人物紹介
実在する人物には【実在】としています。
アルテミオ・リカルテ
【実在】民兵組織、比島愛国同志会の指導者。
ホセ・ラウレル
【実在】フィリピン共和国大統領。
次回 第二十一話 「二つのタイ」




