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栄光の昭和  作者: 原幌平晴
第二部
33/76

第五話 二人の虜囚

「気に食わん。まったく気に食わん」

 いかつい顔を渋面にして、男は吐き捨てた。年の割にがっしりとした体格のせいで、尻の下のスツールはギシギシと悲鳴を上げていた。

「ビル、昼間からそんなに飲むと」

 同年代だが線の細い感じの男がたしなめる。

「これが飲まずにいられるか!」

 ジョッキをテーブルに叩きつけると、ビルと呼ばれた男は叫んだ。

「もう一杯!」

「ダメですよ」

 カウンターの向こうのバーテンに首を振る。

「邪魔するな、レイ」

 詰め寄られて、レイと呼ばれた方は顔をしかめた。

「飲みすぎですよ。それに……最後に風呂に入ったの、いつです?」

 酒臭さに負けず劣らず、ウィリアム・ハルゼーは体臭もきつくなっていた。

「風呂だと! あんな熱湯に入ってたまるか! あれこそジャップの罠だ!」

 レイ、すなわちレイモンド・スプルーアンスはため息をついた。

「慣れると意外と快適ですよ」

「冗談じゃない。俺たちは捕虜なんだぞ? どこの世界に優雅に風呂に入る捕虜がいる!」

 昼間から酒を飲んでる捕虜なら、ここにいるんだが。

 つい、そんなことを考えてしまうスプルーアンスだった。

 開戦当日。二人が乗っていた重巡ノーザンプトンは魚雷の至近弾で転覆し、海面に投げ出された。幸い、沈没を免れた連絡艇に引き上げられたが、目的地のハワイは百マイルも彼方。すぐに燃料も切れて漂流しているところを、日本の艦隊に救助されたのだ。そのまま日本が占領したハワイに送り込まれ、捕虜となった。

 が、奇妙なのはその扱いだ。真珠湾の軍港など軍事施設への立ち入りは禁止されている。外部との通信も制限されている。もちろん、島を出ることはできない。しかし、それ以外にはほとんど制約はないのだ。

 二人が日本の担当官に自分らの名前と階級を伝えると、基地の宿舎に残っていた私物が返還され、ホノルル近郊のコンドミニアムがあてがわれた。武器や通信機などは没収されたが、金銭などはそのままだ。ただ、風呂の温度設定は日本人好みにされてしまった。

 結果、かつて「ブル・ハルゼー」の異名を轟かせた猛者は、「スティンキー・ハルゼー」と化していた。

「あら、また会ったわね、お二人さん」

 ハスキー・ボイスが店内に響いた。女性が一人、大きな帽子を手に軽やかな夏服をなびかせて入って来る。

「よう、べっぴんさん。今日もまってるね」

 ハルゼーが隣に座った女に話しかける。

「あらやだ、ビルったら飲み過ぎなんじゃないの? レイ、お友達なんだから止めないと」

 この女、ハルゼーの体臭が気にならないのか。きつい香水をいつもつけているから、鼻が麻痺しているに違いない。

 そんな思いはおくびにも出さず、スプルーアンスは答えた。

「止めても聞いちゃくれないんですよ、アビー」

 アビー・ロックフェラー・セリザワはくすくすと笑った。

「ほーんと、男って変化に弱いのねぇ。あ、バーテンさん、ドライマティーニお願い」

 真珠湾奇襲にうろたえ、碌に反撃もできずに降伏となり、卑怯なだまし討ちと激昂しようとしたら、徹底した救助活動と食料の配給、自由すぎるほどの待遇。ハルゼーならずとも、捕虜となった兵のほとんどは、どうしていいかわからない有様だ。

 それは、一見冷静に見えるスプルーアンスも一緒だった。

「まったく、うちの旦那なんて手紙もよこさないんだから。仕事と結婚すりゃよかったんだわ」

 旦那が聞いたら「その手があったか」と言いそうだな。

 スプルーアンスは反射的にそんなことを思った。

 ハルゼーが毒づく。

「くそっ! 今度あいつに会ったら、一杯奢ってやるからな覚えていろ!」

 妙な毒づきだが、それが芹沢との賭けだった。乗艦を沈められた方が奢る。

 それがケチの付きはじめに思えてならないスプルーアンスであった。

 日本と英米の間では捕虜の交換が始まっていたが、日本人の捕虜は極めて少ない反面、英米の捕虜は増える一方だった。日本人の捕虜一人に対して英米人の捕虜は百人はいた。しかも、帰国を許されるのは一般兵卒が先で、将官は後回しだった。

 スプルーアンスはため息をついた。このところ、ため息の回数が増える一方だ。


 一九四二年一月一日。「わだつみ」は新年をセレベス海で迎えた。三千海里の大長征だが、予定の二倍かけてもまだ三分の一しか消化できていない。

「ミンドロ海峡には参りましたね」

 海野副長の言葉に草薙艦長は頷いた。

「あんなに海底地形が複雑だとは思わなかった。二度と通りたくないね」

 水深は十分あったものの、海底は山あり谷ありで迷路のようだった。何度も行き止まりにぶつかり、引き返す羽目になってしまった。たったの百五十海里、準急航行なら数時間で突破できる距離であるにも関わらず、五日間もかかるというありさまだ。また、その先のスールー海からセレベス海へ出る浅海域も、少しでも水深のある航路を探しては夜を待って進んでいったので、日数がかさんでしまった。

「しかし、この先のマカッサル海峡は水深も十分あります」

 副長は海図を見ながら言った。

「海底地形も複雑ではないので、一気に進むことができるはずです」

「まぁ、そうだな」

 顎鬚をしごきつつ、艦長も同意した。

「よし、準急航行に移ろう」

 そして快調に飛ばした数時間後。機関停止の間に前方を探っていた聴音手が報告した。

「感あり、駆逐艦四隻」

 思いがけず、敵艦隊に出くわしてしまった。通信ブイを上げてみると、救援を求める味方の通信が飛び込んできた。敵はどうやら、バリクパパンを目指す上陸部隊を運んできた日本の輸送船団を襲っているらしい。

 艦長が苦い顔をする。

「マレー沖の海戦で、無傷だった駆逐艦だな」

 こちらの雷撃はプリンス・オブ・ウェールズとレパルスに集中して当たってしまったので、随伴していたその他の艦は被害がなかった。そのため、戦功を焦って出てきたのだろう。

「どうしますか?」

 副長の質問に艦長は即答した。

「目障りだ。叩き潰そう」

 まず、間違って味方の艦に当てないよう、泡沫遮音膜マスカーを展開して、敵艦隊のすぐそばまで接近する。そして、回頭しながら続けざまに魚雷が四本発射された。


 その敵艦隊に襲われた日本の輸送船団の一隻には、二十四歳の若き中尉が乗船していた。主計、つまり艦上で事務や補給を担当する係なので、直接戦闘に携わることはない。そんな彼も、未明に艦内に響き渡った警報に叩き起こされた。早速、甲板での監視員に任じられる。

 すると、月明かりに照らされた海面に、一条の白い航跡がこちらに迫っているのが見えた。

 大声で叫ぶ。

「八時の方向、雷跡!」

 ただちに輸送船の船橋では船長の指示が飛ぶ。

「取舵一杯! 両舷全速!」

 間一髪、魚雷は艦尾をかすめながらも外れた。しかし、そのため魚雷を放った敵艦に近づくことになってしまった。

 敵艦の砲身がこちらを向く。口径は小さいが、装甲など一切ないこの船は一撃で沈むだろう。

 そう思い、死を覚悟した時だった。

 突然、その敵艦は爆発し、真っ二つにへし折れて沈んでしまった。

「……何が起こった?」

 あっと言う間に轟沈する敵艦。見渡しても他の艦の姿は見えない。


「魚雷、すべて目標に命中」

 聴音手の報告に、草薙は頷いた。

「よし、では先を急ごう」

 「わだつみ」は深く静かに潜航していった。


 翌朝、若き中尉は船長の下に呼ばれた。

「魚雷を発見したのは貴官か」

「はい、船長殿」

「ご苦労であった。手柄だな」

 次に、敵艦が沈んだときのことが話題となった。

「付近に味方艦は居なかったのだな」

 直に問い詰められ、中尉は固くなりながらも答えた。

「ありませんでした」

 船長は頷いた。

「うむ。おそらく、マレー沖で活躍したという、うちの潜水艦だろう」

 中尉に向き直ると、船長は思い出したように尋ねた。

「ところで、君の名は?」

 中尉は直立不動のまま答えた。

「中曽根康弘であります」

 数十年後に日本の総理大臣になる男だった。


 事の起こりは、新年のパーティーだった。日本軍の計らいで、ホノルルの公会堂を借り切って開かれたものだ。

「捕虜のくせに、なにがハッピー・ニュー・イヤーだ」

 会場の隅で、相変わらずスプルーアンス相手にくだを撒いているハルゼーだった。

「それ以上飲まない方が良いですよ」

 勇猛果敢な親友がすっかり落ちぶれているのを目の当たりにしていると、スプルーアンスの胃はどうも落ち着かず、食も進まなかった。

「あらあら、お二人さん辛気臭いわねぇ、相変わらず」

 アビーがグラスを手に現れた。

「あなたはいつも陽気ですねぇ」

 スプルーアンスは呆れ顔だった。

「どうせすることもないんでしょ? なら楽しまなくちゃ」

 そうかといって、彼女のように楽しむ気にもなれないスプルーアンスだが、ハルゼーは違った。

「おう、楽しんでるぜい! ジャップの酒を飲みつくしてやる!」

 ジョッキを高々と掲げて飲み干す。が、ジョッキをテーブルに置くと、急にぼんやりとした表情になってモゾモゾとしだした。

「ビル、どうしました?」

「どうしたの? トイレならあっちよ」

 二人に問い詰められて、ハルゼーはやっと言葉を絞り出した。

「いや……その、背中が痒くてな。アビー、掻いてくれないか」

 ちゃんと風呂に入らないからだ、とスプルーアンスはため息をついた。このところは、たまに海水浴のついでにシャワーを浴びるだけだった。

「しょうがないわねぇ。私はあなたの奥さんじゃないのよ」

 シャツの首筋から手を突っ込んだ。

「ちょっと、なにこれ」

 手をどけて、首筋からシャツの中を覗き込む。

「真っ赤なブツブツだらけじゃない! 一体、どうしたのよ?」

 スプルーアンスも覗き込んだ。赤い発疹が背中全体にできていた。

「ビル、ちょっと腕を」

 袖をまくりあげる。こっちも発疹だらけだった。

「病院へ行かないと」

 そのまま腕を掴んで引っ立てる。

「おいよせよ、こんなの病気でも何でも」

「立派な病気です。さあ、早く!」

 幸い、夜でも開いている市内の病院がすぐに見つかった。

「皮膚病ですな。しかも伝染性です」

 医師の診断によれば、すぐに隔離して治療が必要だという。

「しかし占領下のここでは難しいので、アメリカ本土へ戻すよう、日本軍に言いましょう」

 ここで、医師はスプルーアンスに向かって言った。

「あなたもです。彼に触れていましたね。感染している疑いがあります」

 帰国できるのはうれしいが、喜んでいいものやら複雑だった。

「他にも彼に触れた者はいませんか?」

 スプルーアンスは思い出した。アビーも触っている。

 こうして三人は速やかに本国に送り返された。運よく、スプルーアンスとアビーは感染していなかったが、ハルゼーは丸一か月の間、体中に嫌な臭いのする薬を塗られて隔離された。しかし、ついでに長年患っていた歯槽膿漏も治療してもらえた。

 二月の半ば、「ブル・ハルゼー」は復活した。


登場人物紹介


実在する人物には【実在】としています。


中曽根康弘なかそねやすひろ

【実在】輸送船の主計科士官。階級は中尉。

史実でのバリクパパン沖海戦(マカッサル海峡海戦)では日本の輸送船に多大な被害が出ており、本人は九死に一生を得たとのこと。


次回 第六話 「二つの策」


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