(8)
八年前、王立学院の最終学年の始まる直前の春の日、彼女に初めて会った。
「スフィアーネ・ミアノスです」
地元で散々揶揄われ続けていた『シェナの色』って表現もまったく腹が立たないくらい、初対面から鮮烈な印象を受けた。
せっかく巡り合えたこの機会を逃すまいと、今後も連絡を取って会えるよう約束を取り付けた。うきうきしながら寮の自室に帰ってから実家からの仕送り品の産地名の欄に『ミアノス領産』という文字を見て、彼女の実家が北方でも指折りの穀倉地帯を持つ子爵領だとようやく思い至った。
富裕な貴族家のお嬢様。でも彼女自身は明るく気さくな普通の女の子だった。
地質研究にものすごく熱心で話し出すと止まらないところ。
あと空を飛ぶタイプの騎獣が好きらしく、それらを見かけるとわかりやすく目の色を変えるところ。
「令嬢っぽくないでしょう?」
なんて、彼女は照れ臭そうに言ったけど、俺にはそのすべてが好ましく、愛しかった。
俺のはっきりしない薄紫色の髪が綺麗だと言ってくれて、それまであまり好きじゃなかった髪色も誇りに思えるくらい、愛していた。
王都で彼女と過ごしていたあの時間は、俺の中で何物にも代えがたいものだった。
ずっとこのまま隣で生きていきたい。自然と、そんな風に思うようになった。
彼女自身も、家を継ぐのは兄がいるから、学院で地質研究を続けるか、王都内で仕事を探すのだと言っていた。
爵位を継げない地方の男爵家次男の俺が、格上の子爵家の令嬢に求婚しようと思ったら、それなりの箔がいる。
だから王都勤めの騎士団の中でも最高峰の王立騎士団第一師団への入団を目指して頑張った。
めでたく王立騎士団で働き始めた最初の大仕事で、王太子妃様主催のお茶会の警護をした。
それ以来、貴族令嬢からの茶会やらなんやらへのお誘いの手紙がやたら来るようになった。
慣れない手紙でのやりとりに四苦八苦しながら、そのすべてに断りを入れる。
そうしたら逆にレア扱いされて、王城での勤務中に直接声をかけられることが増えた。
(遊んでるわけじゃない、こっちは仕事中だってのに)
そんな折、とある侯爵家から名指しで警護依頼が来た。
外国からの貴賓との会合の警護を、と言われた。
名指しされた時点で嫌な予感はしていたのだが、いざ指定された場所に行ってみると外国からの客人はおらず依頼してきた侯爵家の御令嬢が待っていた。
座ってくださいと言われたのを『職務中ですから』と固辞し、お茶の間中質問攻めにされたのも、のらりくらりとかわした。
その後、王城内で『侯爵令嬢が俺にご執心だ』という噂が流れているらしいと、同期の騎士から聞いた。
勘弁してほしかった。
婿に入るか、嫁にもらって後援を受けれるじゃないかと揶揄われるたび、じゃあ代わってくれと思う。
そんなために王立騎士団に入ったわけじゃない。
全部、彼女との未来のため。
そう思っていた当の彼女に『別れよう』と告げられた時、世界は色を失くした。
みっともなく縋ってしまいたいのを、必死でこらえた。
子爵位を継ぐために北に戻ると、そう言われたら、引き止めるなんてできなかった。
彼女の家は、名ばかり貴族のうちの実家とは違う。それを捨てて自分を選んでくれなんて、言えなかった。
「王都での活躍を、祈ってるわ」
そう言って優しく、どこか寂しそうに笑った、彼女の笑顔。
去っていくのは彼女で、置いて行かれるのは俺なのに。
まるで、俺の方が見送られているような感じがした。
彼女がいなくなって抜け殻みたいになった俺に、同僚が言った。
「この際、噂の方を本当にしちまえば?」
気づいたらそいつの顔を殴り飛ばしていた。
冷静になってすぐに謝罪し、同僚の方からも『慰めるつもりが言葉選びを間違えたのは自分の方だ』と逆に謝られた。
だが暴力沙汰には違いないので、一カ月の減俸と、当面の間は謹慎となった。
王国の顔でもある第一師団所属の騎士が喧嘩なんてもってのほかだ。
そのせいか、連日届いていた茶会だの夜会だのへのお誘いの手紙はぴたっと来なくなった。
でも心底どうでもよかった。
王立騎士団に籍を置き続ける意味すらも見失い、退団願を提出した。
寮で荷物をまとめていたら、第三師団の団長から呼び出しを受けた。
「俺、謹慎中なんですけど」
引き摺るように連れていかれた第三師団長室で不満げにそう告げると、フラシオン・ダカス師団長はぶはっと豪快に噴き出した。
「反省して謹慎してる、って顔じゃねぇだろ、それ」
「……仲間を殴ったことは、ちゃんと反省してます」
「退団願、出してんだって?」
「第一師団に留まる意味がありませんし、いても迷惑になるでしょうから」
「まぁな、喧嘩っ早いやつは、他国からの賓客や王族の周りには置けんからな」
くつくつと笑うダカス師団長の意図を掴みかねながらも、空っぽの気分そのままで、言葉を紡いだ。
「自分は崇高な意思があって、王立騎士団を志望したわけじゃないんです。
好きになった人が家格が上で、しかも俺は次男で継ぐ家もなくて。
座学はからきしだけど、体力と腕力ならまだ他人よりも自信があったから、騎士職の中でも格が高い王立騎士団を目指しました。
でも、彼女は王都から去って、俺は置いて行かれて、もう……俺には何も残ってない……」
最後の方は小さく零すような声になってしまった。
俺の呟きを聞き終えたダカス師団長は、「ふむ」とひとつ頷いた。
「別にいいんじゃねぇの?」
「………………は?」
「騎士を目指すきっかけや理由なんて、なんでもいいと思うぜ。
騎士たるものこうあるべき、なんて高潔な志で目指す奴なんて、一握りなんじゃねぇかな。
誰かのため、家のため、自分の名声のため。
踏み出す理由やきっかけなんて、そんなもんだろう」
「ですが……」
「俺は元傭兵だ。
今はこんなとこで王の剣になってるが、もとはといえば生きるために剣を取った。
金のために戦って、生き残るために剣技を磨いた。
その過程で出会ったとんでも親父に、まぁ性根の部分はだいぶ叩き直されたけどな」
ダカス師団長の言うところの『とんでも親父』とは、パイライト・ザクト王立騎士団総騎士団長のことだ。
フラシオン・ダカス師団長は傭兵時代、騎士団と合同で当たった大規模魔獣討伐においてザクト総騎士団長により見出され、その剣技に惚れこんで弟子にしてもらった、という話を、先輩方から耳にタコができるくらい聞かされたものだ。
「武器を持って戦うのが騎士であり傭兵だ。
同じように武器を持った相手、もしくはこちらに害意ある何かに対処していくのが俺達の仕事だ。
護るため、戦うために、俺達はいるし、そのためには命を賭けなきゃならん。
命を奪わなきゃこちらが奪われるんだからな。
その場面に、躊躇せず動ける覚悟があるなら、きっかけも理由も、なんだっていい。
俺は生きるために剣を取った。
でも、必死になって剣を振ってる間に、いろんな人に会って、いろんなことがあって。
護りたいもんがなんなのか、何のために自分が戦うのかが、ようやく定まった。
だから今、俺はここにいる。
お前は女のために騎士を目指したって言うけど、ただそれだけでここまではこれねぇだろ?
最初のきっかけや、一番の目的はそれだとしても、それだけじゃ学院の騎士科で首席はとれねえだろうし。
お前の剣の腕前、入団前にもこっちに報告が上がったくらいだったぞ。第三に欲しいと思ったけど、本人の希望で第一に決まったって聞いて、残念だったからな。
その剣の腕、このまま捨てるには惜しい。
第一を辞めるっていうなら、第三師団に来い、ジェレミー」
「……ですが…」
「第三師団は騎士の中でも特に危険な仕事を請け負うって言われてるが、それは第三師団だけに限ったことじゃない。
第一師団は城の中で警護するだけなんて思ってる連中もいるようだが、それもとんでもない勘違いだ。
第一師団は王城を護る砦であり盾だ。お飾りなんかではない。
魔法技術を研鑽し国のために使う第二師団、王国中で最も人と物と情報が集まる王都の警邏を一手に担う第四師団、そしてフェアノスティ王国最強の鉾であるわが第三師団。
すべてが揃ってこそ、フェアノスティが誇る王立騎士団である」
言いながら、ダカス第三師団長が立ち上がった。
自分も決して小さい方ではないが、その俺が少し見上げるほどの体躯だ。
漂ってくる気迫も並じゃなくて、下がりそうになる足を叱咤する。
「俺のもとに来い、ジェレミー・ノーツ。
その剣技をもって第三師団で戦えば、それほど思いつめる相手が住まう国を護ることにもなるだろう」
使い物にならんと思ったらその時はきっちりクビにしてやるから安心しろって、ダカス師団長は笑った。
後でこのやり取りを聞いた諸先輩からは『またダカス団長にタラシこまれたやつが増えたな』と言われた。
でも、全てを投げ出したくなっていたその当時の俺には、ダカス師団長の言葉は希望の光に思えた。
俺が剣を振るうことが、彼女がいる国を護ることに繋がる。
だったら、騎士の道を諦めずに戦い続けよう。そう思った。
第三師団で必死に戦い続け、気が付いたら六年半が経っていた。
任務の間、たまに戻る王都は、自分でも思っていた以上にまったく心が動かない虚ろな場所になっていた。
だって彼女はもう、ここにいない。
それを認めるのが嫌で、ほとんど休暇も取らず、任務の合間に暇があれば学院での指導役を買って出て時間を埋めた。
そんな俺に師団長が北方辺境騎士団の指南役の任務を振ってきた。
『半分は休暇だ。
故郷の空気を吸って気持ちにケリをつけてこい』
指示書には師団長の癖のある字でそう殴り書きがしてあった。
北方には、彼女がいる。
派遣先である領都ラシェナと彼女の実家の領地であるミアノス領を往復するためにイーライを連れていく手続きもした。
少しだけ、遠くからでも、顔が見れやしないだろうか。
そんな情けなくも淡い期待などは、着任早々に吹き飛んだ。
ずっと忘れられないままだった彼女が、記憶よりも大人の女性になった彼女が、そこにいた。
いろいろあった末に、実家を離れて領都の辺境騎士団詰所で働いていて、もうすでに新しい恋も見つけていて。
きっと幸せになるんだろう────俺の、知らないところで。
(ケリをつけてこい、か……まあ、潮時だよな)
そう、思おうとしたのに。




