(5)
いろいろ考えごとをしながら呑んだからか、いつもよりペースが早かったようだ。
笑いと酒の匂いに満ちた席をそっと抜け出し、スフィアーネは酔いを冷まそうと食堂のバルコニーに出た。すると扉を開けた先に、バルコニーの手すりに背中をあずけながら煙草を吸っているジェレミーがいた。
うっと思わないでもなかったが、このまま立ち去ったらなんだか負けたような気がして、スフィアーネは少し渋面を作りながらもそのままバルコニーへと足を踏み入れる。ゆっくりと歩いて室内からの明かりに背を向けたまま手すりに手を掛け、ジェレミーの隣に少し隙間を空けて並んだ。
だが互いに沈黙のまま、なんとも言えない居心地の悪さが漂う。
なんで彼に気づいているのにバルコニーに出てしまったのかと負けず嫌いな自分の性格を呪い始めたスフィアーネの横で、ジェレミーは懇親会の賑やかさをどことなく眩し気な表情で見つめながら、フワリと煙を吐き出した。
ジェレミーに喫煙の習慣があったとは、スフィアーネの記憶にはない。
「……煙草、吸うんだ」
「……呑んだ時だけな」
「ふうん……」
もう一口吸ってから、ジェレミーは灰皿に煙草を押し付けて消した。
よく知っているつもりだった男の、初めて見る仕草だった。
そんな小さな違和感にも、時間が経ったことを知らされる。
「恋人、いたんだな」
スフィアーネの方を見ないままそう呟いたジェレミー。
スフィアーネも彼の方を目だけでちらと見て、胸苦しさを隠すように息を吐いた。
「……別に驚くようなことじゃないでしょう?」
「そうだけど……言えよ」
「自慢げに報告することでもないでしょ」
会話が途切れ、また沈黙が流れた。
それ以上突っ込んで訊かれずほっとしたのも確かだが、先ほどまでとはまた違う気まずさに襲われる。
罪悪感、というのが一番近いかもしれなかった。
もちろん恋人関係は解消しているのだから別に不義を働いたわけではない。
スフィアーネだけではなく、ジェレミーの方こそ今ここに至るまでにいろいろなことがあったはずだ。
けれど、それらの事実をさらけ出したり受け止めたりする心構えが全く出来ていなかった。
少なくとも、スフィアーネには。
彼が今どんな表情をしているのか気にはなっても、手すりの向こうの宵闇から視線を動かす勇気は持てなかった。
そっと目を閉じて息を吐くと、少しだけ目眩を感じた。
ジェレミーかいる左側から顔を背けるように横を向き、両腕を載せていた手すりにさらに寄りかかって頬を当てる。ひやりとした感触がするも、それすら意識に幕がかかったようにぼんやりと感じられた。これは結構、酔っているのかもしれない。
隣のジェレミーが自分を伺っているのか、視線を感じたスフィアーネだったが、気づかないふりでそのまま目を閉じた。
「……気分、悪いのか?」
「……平気」
「いい大人が吐くほど呑むなよ」
「吐いてない」
「いつもあんなに呑んでるのか?」
「まさか……今日は誰かさんのおかげでペースが乱されたの」
「俺の所為かよ」
「……歳を取ったものよねー。この程度の酒で酔うなんて」
「なんだよ、年寄りみたいな言い方して。まだ二十四だろ?」
「私は二十四、ジェレミーは二十五かぁ」
「なにが言いたいんだよ、酔っ払い」
「時間は確実に流れてるんだなぁと思って。
私は酒に弱くなったし、貴方は煙を吐きながら分別臭いことを言うようになった」
「ま、大人になっちゃったからな、お互い。
何年、経ったんだっけ」
「……いつから?」
「最初に会ってから」
「んー……覚えてないなぁ」
少し間を置いて、スフィアーネは答えを濁した。
顔を上げて隣の男を窺ったが、明るく騒がしい食堂の方を見ているその横顔には特に何の感情も読み取れなかった。
立ち去るきっかけが掴めず、スフィアーネは再び目を閉じた。
ジェレミーの方もその場を離れないまま、静かに佇んでいる。
宵の風に吹かれているうちに、煙草のけむりも、二人の間にあった気まずい空気も、幾分流されたようだった。
「なぁ、スフィアーネ」
「……うん?」
「なんか……悪かったな」
「何が?」
「まぁ…………いろいろと。
まさか辺境騎士団でスフィアーネが勤務してるなんて、知らなくて。
短期間とはいえ、同じ職場に元恋人がいるなんて、居心地は良くないよな……」
言いにくそうなその声音に、スフィアーネは我知らず溜息をついた。
先ほど同僚に言われたことも思い出し、うーんと酔った頭で考えてはみたのだが、やはりちょっと違うなと思った。
「……別に、それほど気にしてないわよ」
「そう?
でも、できれば会いたく無かったりしたんじゃないか?」
「そりゃあ“げっ”と思ったのは確かだけど」
「思ったのかよ……でもまあ、そうだよな」
「確かに多少戸惑いはあるけど……それだけよ。
剣指南役でここにきたのも、たまたまこうなったというだけで、別に貴方に何か意図があったわけじゃないでしょ?
それに、別に会いたく無かったというわけでもないもの。
嫌いになって別れたんじゃ……ないし」
端的に答えることは難しいが、そんな感じかな、とスフィアーネ自身納得した。
尻すぼみになりながら最後に付け加えた一言も、スフィアーネの偽りない本音だった。
別に会いたくないと思っていたわけではない。
ただ、再会したのが突然すぎて、心の準備が出来ていなくて戸惑っているというだけ。
同じ辺境騎士団にジェレミーがいること。
三カ月したら去っていってしまうこと。
それぞれが、すでに別々の未来に向けての人間関係を抱えていること。
いろいろと気持ちは整理し切れていないが、現状こうなってしまったのはお互いに受け入れていくしかないのだ。
あの頃のスフィアーネが、時間をかけてジェレミーが隣に居ない現実を受け止めたように。
「……そうだな」
スフィアーネの言葉をゆっくりと咀嚼した後、ジェレミーが呟いた声はとても優しいものだった。
「まあ、会いたくて堪らなかったってわけでもないけどねー」
「……君の方こそ一言多いじゃないか」
「ジェレミー……は?」
「うん?」
「本当は会いたくなかったの?」
「……」
ずっと目を閉じ喋っていたからだろう、スフィアーネは本当に眠くなってきてしまったようだ。
途切れがちに訊ねられたことには答えず、ジェレミーは遠慮がちにその肩を揺らした。
「こら。寝るなよ」
「…………寝てない」
「嘘つけ、その間が証拠だろ。
立ち寝とか、器用すぎない?」
ふわ、と風に髪を撫でられたような感覚があって、スフィアーネはふふっと小さく笑った。
たぶん、ジェレミーが夜風を遮る魔法を使ってくれたのだろう。
(初めて会った時も、確か同じ魔法をかけてくれたっけ)
「フィー?」
懐かしい愛称で呼ばれた気がした。
酔いの回ったアタマで思い出す、八年前の春先の出会い────────
北方から引っ越してきたばかりのスフィアーネは王立学院内の敷地を見学して回っていた時、故郷の春を告げる花と同じ色の髪をした男性を見つけた。
北方を出るときには街のあちこちに満開になっていたのに、風土が合わないのか王都では一本も見かけなかった、故郷の花。
『シェナの色……』
思わずこぼれ出てしまった小さな声に、その人がスフィアーネの方を見た。
『もしかして、君も北方出身?』
『あ、はい……すみませ────』
『中等部の新入生か……迷子にでもなったかな?
ここは高等部だぞ。中等部の敷地はあっち』
背の高いその人は、傍に来て覗き込むようにそう問いかけてきた。
まるで幼子にするように。
たぶん十二歳以上が入学を許される、中等部の新入生だと思ったのだろう。
正直、そういう勘違いには慣れていた。
スフィアーネは小柄な上に童顔なので、昔から実際の年齢より幾分年下に見られがちだ。
慣れてはいる――――が、腹は立つ。
『いえ、高等部で間違いありませんのでご心配なく。失礼します』
つっけんどんにそれだけ言うと軽く礼をして立ち去ろうとした。
『ちょ……待ってくれっ』
手首を掴んで引き止められた。
男自身にしても咄嗟の行動だったのだろう、掴んだ手はすぐに謝罪とともに放されたのだが。
『……まだなにか?』
『いや、悪かった。
ご令嬢の手に突然振れたこともだけど、その、中等部だと勘違いしたこと……』
『いえ。
慣 れ て ま す か ら』
『……申し訳ない』
大柄な男が肩を落とし、眉尻を下げて謝ってきた。
心底悪かったと思っているのが伝わってくる真摯な態度だったので、沸き上がったスフィアーネの怒りもすぅっと抜けていった。
『もう、いいですよ。
年下に間違われるのはしょっちゅうですし……」
『え、っと……学院内の見学、だよね?
もしよかったらだけど、さっきの勘違いのお詫びに、ここからは俺に案内させてくれないかな?
無理に、とは言わないけど……どう?』
『…………』
半分くらいナンパかな、と思わないでもなかったが、案内役がいてくれたほうが効率的なのも事実だと思った。
『では、お願いしても良いですか?』
『えっ、ほんとにいいの? っじゃなくてっ、喜んで!
俺はジェレミー・ノーツ』
『……スフィアーネ・ミアノスです』
差し出された大きな手を握り返し、スフィアーネも名乗った。
少し照れて『よろしく』と言った彼の瞳は若葉色で、長身と、その髪色と相まってますます新緑の上に満開の薄紫の花を咲かせたシェナの木のようだと思った。
案内してもらううちに日が傾いて、寒いだろうと風を遮る魔法をかけてくれた優しい彼に、自然と惹かれた。
あの出会いから一年半が経った頃、当たり前のように隣にいた人の元を離れて、スフィアーネは一人で北方に戻ってきた。
今は一緒にいたあの頃とは違うし、ジェレミーはまたすぐ王都に戻るのだから気安くすべきではない。
分かっているのに、酔ったせいで距離感を間違えて言わなくていいことまで話してしまった気がする。
酒に弱くなったから。
いろいろあって気疲れしたから。
ジェレミーが昔と変わらず優しいから。
いろんな言い訳を頭の中に並べながら、スフィアーネはふるりと頭を振って睡魔の手を振り払う。
「先に戻るわ」
それだけ告げ、スフィアーネは踵を返すとジェレミーの方を見ないままにバルコニーを後にした。
「俺は……ずっと会いたかったよ」
残されたジェレミーが呟いた言葉は、スフィアーネに届くことはなかった。




