(11)
念のために、上空からバジリスクに遭遇した場所の近くに他の魔獣の姿がないのを確認した後、二人はスフィアーネが今日逗留予定だった街の方へと向かった。真っすぐミアネス領に向かうこともできるとジェレミーが提案したが、動揺が収まりきらない状態で両親に会うと不安がらせてしまうとスフィアーネが止めたのだ。
騎士団がある領都と違い、普通の街にグリフォンで降りると住民達を驚かせてしまう。ひとまず休める場所を探し、町の近くの小川のほとりに降り立った。
少し落ち着きを取り戻したところで、スフィアーネは深々と頭を下げ助けてくれた礼を言った。
「命拾いしたわ。助けてくれて本当にありがとう」
「礼ならイーライに。こいつが君の魔力を辿って見つけてくれたから間に合ったんだ」
「そう、なの?」
イーライを振り仰ぐと、グリフォンはどことなく自慢げにバッサーッと翼を広げた。
「クァックー」
「ありがとね、イーライ」
「ところで、ほんとにミアネスに向かわなくてよかったのか? イーライで飛べばすぐ着くけど」
剣に着いたバジリスクの血を小川で洗い流しながらジェレミーが訊いてきた。
「……もうちょっと落ち着いてからじゃないと。
そんな怖い目に合うなんなら研究調査なんて止めなさいって、言われちゃうし」
少し間をおいてから応えたスフィアーネに、ジェレミーはため息をついた。立ち上がって剣についた水滴を拭き取りながら、彼女の目を真っ直ぐ見た。
「そりゃ言われるだろう。俺だって、フィーが危険な場所に一人で行くのは反対だ」
「…………」
バジリスクから助けてもらったときからずっと、ジェレミーはスフィアーネを恋人時代の愛称で呼んでいた。
今も、彼女のことを案じて真剣な眼差しで見つめてくる。その視線を避けるように俯きながら、スフィアーネは膝の上に置いた手をぎゅっと握って唇を噛んだ。
(無意識なのかもしれないけど、勘違いしそうになるから……困る)
口籠ったスフィアーネを見てまだ怯えているのだと思ったのか、ジェレミーは鞘に納めた剣を自分の荷物の傍に置き、代わりにごそごそと漁って何かを取り出した。
「ほら、これ」
川辺の石に座っているスフィアーネの眼前に差し出されたのは、黒く光る魔晶石の嵌った護符だった。
「香炉、壊れちゃっただろ?
それに、香を焚くよりも護符の方が魔獣除け効果が高いから」
店の主人と同じようなことを言い、護符を渡そうとしてくるジェレミーを、スフィアーネは上目遣いに睨む。
「騎士団の支給品の横流しは、事務方としては見逃すわけにいきませんよ、ノーツ卿?」
「支給品じゃないって。私物だ私物」
「……でも、これ高いやつでしょ。貴方から高価な護符を貰う理由はないわ」
ふいと目を逸らして護符を押し返そうとするスフィアーネの手が、剣だこのある大きな手に捕まった。
「理由ならあるよ。俺が、君に危ない目に会ってもらいたくないって理由が」
「心配は有難いけど、それこそ、貴方に関わりは……」
「あるよ。だって俺、今でもずっと、君が好きだから」
さらりと告げられた言葉に驚いて思わず逸らしていた目を上げれば、真っすぐ見つめてくるジェレミーと視線がぶつかった。
「え……?」
「六年半前から、いや、出会ってからずっと変わらず、君が好きだ、スフィアーネ」
跪いたジェレミーは、護符を彼女の手の中に置き、その手を包み込むように握った。
「君が王都を去ってから、ずっと後悔していた。あの時どうして、みっともなく縋り付いてでも止めなかったのかって。
君の家は、俺の家とは違う。富んだ領地を継ぐのなら、それはきっと誇らしいことで、喜んであげるべきだって、貧乏男爵家の次男なんかが邪魔すべきじゃないって、思ったから。
本当は……傍に居たかった。居てほしかった。爵位よりも俺を選んで、欲しかった。
でもそんなの無理に決まってるって俺自身が諦めて、君の手を離してしまった」
「ジェレミー……」
「あの頃王城で流れていた、俺と侯爵令嬢の噂を君が知ってたことも、聞いた。それが君を傷つけただろうことも」
「……っ」
「今更だけど……本当に、ただの噂に過ぎなかったんだ。
茶の席に呼び出されたのは事実だけど、護衛に徹していただけだった。けど、あっという間に尾ひれがついて噂が拡がった。
そんな風に見初められて貴族家に入る騎士もいるらしいから、俺もそうだと思われたんだろうけど、俺にはずっと、君しか見えていなかったんだから。
必死で噂を否定してたんだが、まさか王城に流れた噂が学院にまで伝わっていたなんて、思いもしなかった。本当にすまなかった……」
六年半前に聞こえてきた噂を思い出し、スフィアーネの顔が強張った。
『格上の令嬢と良い仲になっているらしい』
『もしかしたらこのまま侯爵家にはいるんじゃないか、そうなれば彼にとっては僥倖だろう』
そして、学院の寮に訪ねてきた美しい人に言われた言葉も。
だからあの時のスフィアーネは、決断をしたのだ。
「私も、貴方に謝らなきゃいけないこと、あるわ」
「君が……?」
「学院を辞める理由、爵位を継ぐからっていうの、嘘だったの」
「……え?」
「貴方の噂を聞いて……ショックだった。
でも、もしもそれが本当なら、貴方にとってはまたとないチャンスなんじゃないかって、聞いて……その通りだと、思ってしまったの。
貴方は優しいから、私が傍にしがみ付いていたら、チャンスを諦めてしまうんじゃないかって。
でも、貴方はそんな風に考える人じゃないって思いたい自分もいて、迷って、疑心暗鬼になって……そんな時、あの方が、学院に訪ねてきたの」
「まさか……」
「侯爵家に貴方を迎えるつもりで話が進んでいるから、私の方から貴方と距離を取ってほしいって」
「そんなわけないだろう!? 俺は、君がっ……!」
思わず声を荒げたことにハッとなり、ジェレミーが謝った。
「ごめん……君を責めるつもりは……」
だが、スフィアーネは寂し気に微笑んでふるふると首を横に振った。
「……責められても仕方ないわ。私は逃げたんだもの。
貴方に直接聞くのが、それであの方を選ぶって言われるのが、怖かった。
だから嘘をついて、王都から北に逃げ帰った。
そのくせ、貴方を信じ切れない自分の弱さを棚に上げて引き留めてくれなかった貴方を恨めしく思ったりもした。
私はこんなに寂しいのに、貴方は辛くなかったのかって」
苦しみ足掻いた過去の記憶。
あの時は出口のない暗闇に囚われているような思いであったが、こうして言葉にすればするほど陳腐な思い出のようにも聞こえる。
思いを吐き出す意味はここにもあるのかもしれないが、先に進むために過去の自分の感情を貶めなければならないのだとしたら、なんとも悲しいことだ。
繋いだ手から伝わるジェレミーの体温は、スフィアーネにとっては懐かしいものだった。
胸に宿る温かさは愛しさももちろん含んでいる。
やはり、今でも自分にとってのジェレミーは『特別』なままなのだと、スフィアーネはあらためて思い知った。
だからこそ、辛くてもちゃんと終わらせなければいけない。
今度こそ。
「ずっと、いっしょに居たかったわ、ジェレミー。
本当は、傍に居たかった。
嘘をついて、信じて待てなくて、ごめんなさい。
貴方には貴方の未来があって、それをどうこう言う権利は私にはないけど、私が貴方の傍に居たいってことは伝えるべきだった。
言っても困らせるだけだったとしても、伝えることだけは、すべきだったのにね」
黙ったままスフィアーネの述懐を聴いていたジェレミーが、少しだけ目を伏せて「そうだな」と呟いた。
「言葉が足りていなかったのね……似たもの同士ね、私達」
「まったくだ……」
「ただ傍に居たいって、たったこれだけのことを言うのに、六年半も、かかっちゃった」
「ほんとだな」
ふふ、とスフィアーネが笑った。
はは、とジェレミーも笑った。
多少自嘲を含んだ笑いを北方の風が攫っていく。
「これで、区切りがついた?」
「………君は?
俺とのことは、もう過去のこととして片付けられたのか?」
「私は………まだ時間がかかりそう。だけど、今度こそ、ちゃんと前に踏み出せるよう、頑張るつもりよ……だからジェレミーも王都で頑張ってね」
意を決して繋いだ手をほどこうとしたが、さきほどまでよりしっかりと握られてしまい、スフィアーネは困惑する。
「もう何処にも、行かせない」
「ジェレミー……」
「区切りなんか、つけられるわけない。
そもそも、 別れるっての自体が間違いだったんだ。
だから……もう諦めたりしない」
捕まえた手が白くなってしまうほど強く握り締めて、ジェレミーはスフィアーネの目を見てハッキリと告げた。
「スフィアーネ、一緒にきてくれ」
一瞬固まった後に言われた意味がじわっと脳に染み渡ってきて、スフィアーネは目をしばたいた。
「何、言って……?」
「一緒に、王都に来てくれ。
こっちに戻るときから、遠目にでも君に会いたくて、そのためにイーライも連れてきたんだ。
あっさり再会できたのに舞い上がって、そのくせ君が俺のことなんかもうとっくの昔に過去のこととしてキリをつけてんじゃないかと思うと距離を詰めていいのか迷って。しかも君に恋人がいるとわかって落ち込んで。ほんと、君のことになると俺、女々しくて駄目だ。
今更もうどうしようもないのかって諦めようとしたけど……けど結局は、忘れるのも、諦めるのも、無理だった。
なにをどうやっても、君でなきゃダメなんだ」
「私はようやく踏み出す決意を……」
「踏み出すなら、もう一度、二人で一緒に先に進めばいい」
「二人、一緒に……?」
「それとも俺のことなんかもうどうでもいいのか?」
「そんなわけ……!」
「スフィアーネ……勝手なことを言ってるのも、今更なことも、十分承知してる。
王都に行くとなれば今の仕事とか、こっちの家族や友人とか、いろいろなものから引き離さなきゃならない。
けど、やっぱり駄目なんだ。君じゃないと。
六年半前は何もかもが中途半端だった。
でも今度こそ、君を諦めない。もう離れたくない。そばに居たいし、居て欲しい。
スフィアーネ、頼む」
ジェレミーの右手がゆっくりと伸びて、スフィアーネの頬を撫でた。
「好きだ、スフィアーネ。
今でもやっぱり、君は俺の中じゃたった一人なんだよ。
だから、君も、もう諦めないでくれ」
「ジェレ……ミー……」
「俺と一緒に生きてくれ」
一緒に、生きる。
その言葉がスフィアーネの身体を震えとなって駆け巡った。
ぎゅうっと目を閉じ俯いてしまいそうになるのを、頬を包んだジェレミーの手がやんわりと受け止めた。
スフィアーネが伏せた瞼をゆっくり押し上げれば、愛しさを湛えた新緑の瞳が見つめていた。
心の奥底、手の届かない場所に押し込めて蓋をした想いが、光を放つ。
あの頃、怖くて手を伸ばすことができず目を逸らすしかなかった未来が目の前に開けた気がした。
「ジェレミーに、ついて、いきたい……連れて行って、ください」
小さいけれどハッキリとしたスフィアーネの返答に、ジェレミーが詰めていた息を吐きながら嬉しげに笑った。
包み込まれて同じ温度になったスフィアーネの頬と彼の指を、堪え切れなくて溢れ出た涙が濡らしていく。
「時間かかって、たくさん悲しい思いをさせて、ごめんな」
震える細い肩を抱き寄せて、スフィアーネの耳元でジェレミーが囁いた。
「ずっと君だけだ。愛してるよ、フィー」
* * *
その後、止まっていた時間が一気に動き出したように、いろいろなことがあった。
ミアネス領を訪ねたジェレミーの髪色を見ていろいろ察したスフィアーネの兄であるミアネス子爵イルスが、彼の胸倉を掴んで殴ろうとしたり。
ジェレミーに会うため王都に来たスフィアーネが、彼の間接的な上司でもある方に気に入られ彼の研究助手として雇われることになってジェレミーがやきもきしたり。
そして春の終わり、二人は親しい人を招いて婚姻の儀を執り行った。
再会して三カ月半、互いの気持ちを再確認してからはひと月ほどで婚姻の儀まで済ませたことを「性急だ」と言う者は、二人のこれまでを知る人の中にはいなかった。
王都の北側郊外、広めの厩舎がある小さな家が二人の新居だ。
二人が暮らす家の庭には一本の背の高い木がある。
ミアネス領から移植したその木は毎年枝一杯に薄紫の花をつけ、春の訪れを教えてくれる。
「行先は?」
「ここと、あと北方辺境伯領近くの、ここ」
「了解」
「今回の休暇はわりと日数あるから、両方の実家に顔を出しに行く?」
「いいね」
一緒にまとまった休みが取れると、二人は北方に向かう。
スフィアーネは地質調査の続きをするため、ジェレミーはその護衛として。
「クァーククッ?」
「今日もよろしくね」
二人一緒に、グリフォンのイーライに乗って。
(終)
最終話まで読んでくださってありがとうございました。




