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短いですが、魔獣との戦闘描写があります。
苦手な方はお気を付けください。
北方の冷たい風も、厳寒の頃からするといくぶん優しくなった気がする。
風に乱される柔らかい茶色の髪を押さえながら見上げた高い空には鳥の影一つない。
少しずつ春へと向かいつつある北の大地を彩り始めた草の若芽を風が撫でていく様子に、思わず笑みが浮かんだ。
サザランド北方辺境伯領の南側にある広大な農地。そこがスフィアーネの実家のあるミアノス子爵領だった。
元はだだっぴろい草原で羊や馬を放牧するくらいしかしていなかった土地だったのだが、スフィアーネの父、前ミアノス子爵が地質の調査・改良を行い、領内各所でその土地に適した作物を選定して作付けした結果、一代で北方隋一の農業地帯となった。
スフィアーネの子供の頃の愛読書は父が書き記した土地の研究資料で、自然と地質調査に詳しくなった。
王立学院でも主計科で経理などを学びつつ、地質分野の論文の読み込みと自分の研究も並行して行っていたほどだった。
中でも大地の大妖精の加護を受けたザクト南方辺境伯家のご当主が学院生時代に書き記されたという論文は、仮定、実験、分析のすべてが詳細かつ緻密で何度も読みこんだものだ。
遠目に見える林に目をやれば、厳しい北の冬に耐えた木々が芽吹きを迎えていた。
その中でも目を引く、もうすぐ薄紫色の花を咲かせるだろう背の高い樹木。
何処を見てもあの色が目に飛び込んでくる季節だけは、時間が経った今でも、正直辛い。そんなスフィアーネの心を知っている父は、毎年春先にはそれとなく実家に呼び寄せてくれる。優しい家族に囲まれて過ごせば自分の選んだ現在にもちゃんと幸せはあるじゃないかと思えて、胸の苦しさも和らぐ気がした。
学院を早期卒業し北方に戻った後、スフィアーネは休日を利用して独自に地質研究を続けていた。少しばかり大地の魔法が扱えるので、土の質、生えている植物の種類の他、大地の中を巡る魔力の流れも合わせて調査しているのだ。
かつての父が自分の知識で領地に恵みをもたらしたように自分にも何か出来るのではないかと考えたのも研究に打ち込む大きな動機の一つだったが、研究のことを考えている時間は彼を忘れていられたからというのもあった。
王都での眩しかった日常を思い出す暇がないように、仕事と研究をかわるがわるこなしながら日々を塗りつぶして過ごした六年半だった。
今回の休暇でも、実家に帰る途上にある街に逗留しながら、そこを起点にして地質や生態系などを調べている。北方は王都付近よりも魔獣の出没が多いので父は心配で独りでの調査はあまりいい顔をしないのだが、かといって護衛を雇えるほどの余裕はないし、正直一人の方が動きやすい。一人なら大地の魔力に乗って移動する『地行魔法』を使って調査地点まで行けるので、馬車を用意したりする手間と費用が抑えられるからだ。
もちろん調査中に魔獣に出くわすのは御免なので、魔獣除けの香を焚いて警戒しつつ、万が一出くわした場合は地行魔法で逃げる算段だった。
スフィアーネは鞄を探って小さな包みを開き魔獣除けの丸い練香を摘まみだした。煙の少なくなりかけた携帯型香炉の中にころりと足し入れるとすぐに新たに白い煙が立ち昇る。煙が濃くなったのを確認すると、スフィアーネは岩の上に置いていた香炉を提げて次の地点へと歩き出した。
その時だった。カササ、ザリザリという、何かが地を這うような微かな音を耳が拾った。
スフィアーネは警戒しながら咄嗟に周りを見回し、すぐに音の正体を見つけた。
大人の男性の腕ほどもある太さの黒く光る鱗に覆われた胴体と、そこから生えた黒い翼、ギラつく赤黒い眼。
(嘘っ、バジリスク!?)
バジリスクは蛇と鳥の両方の特徴を有する魔獣で、猛毒を持っている上に凶暴で非常に危険度が高い。普通は迷宮の深部や森の奥などにいることが多くこのように開けた草原では出くわさないのだが、相手は生き物、絶対に居ないという保証はないのだ。
今目の前にいる個体の背に生えている翼はまだ小さく、蛇の部分もまださほど太くない。大きいものは人の胴くらいの太さにまで成長するというし、幼体なのだろう。ただそれでも危険なのは間違いない。
赤黒い眼でこちらを見据えたまま徐々に距離を詰めてくるバジリスクに向け煙を上げる香炉を翳してみたが、少し怯んだ様子を見せたものの逃げていく様子はない。額や背中を嫌な汗が伝うのを感じながら、スフィアーネは香炉を買った時の店主との会話を思い出していた。
『魔獣除けなら練香を焚くよりこっちの護符の方が効果があるよ、お嬢さん。
香の煙だと風向きに左右されるから有効範囲が狭くなりがちだし、地中には効果が薄いからね』
『うーん、でも高いでしょ?』
『確かに香炉と練香の方が割安だけどね。あと、このタイプの香は煙が少なめだからか一部の蛇系に効きにくいんだ。
サンドサーペントとか、バジリスクとか……』
(言ってた、確かに言ってたわ!)
忠告してくれたことには礼を言いつつも「そんな大物が出るようなとこには行きませんから」と最終的に護符ではなく香炉の方を選んだのはスフィアーネ自身だ。だが今それを悔やんでも仕方がない。
手に持っていた資料を片手で鞄にねじ込みじりじりと後ろに下がりながら、地行魔法を使うか迷う。この距離まで近づかれている状況で、果たして詠唱している時間があるだろうかと。
かといって、威嚇や攻撃になるような魔法はスフィアーネには使えない。残った練香を全部香炉に放り込んでみることも考えたが、煙が出ている香炉を翳しても嫌がる様子がない現状を見る限り、追い払うほどは効き目がなさそうだ。いざとなったら魔法で逃げればいいだなんて安易に考えていた自分が、心底恨めしかった。
うだうだ迷っている時間もないかと一か八かで地行魔法の詠唱を始めた時。
「クァーーーーーーッ!」
けたたましい鳴き声と風切り音が真上から聞こえた。思わず振り仰いだその先に、白い鷲の頭と太陽を浴びて金色に輝く獅子の半身、そして黒く大きな翼が見えた。
「イーライ!?」
「クァーーッ……クァックァッ!」
上空から一直線に舞い降りたグリフォンが、逃げようとしたバジリスクの幼体の胴をその鋭い爪が付いた前足で踏みつける。
反撃しようともたげた頭にも、追加でもう一撃。
そうしている間にグリフォンの背から飛び降りた騎士が、もつれ合うように戦う二頭の獣から護るようにスフィアーネの前に降り立つ。
身を捩りグリフォンの前足の鈎爪から逃れたバジリスクが威嚇のため大きく開いた咢に向け、騎士の手から火球魔法が放たれる。口内を炎に焼かれて暴れ狂うバジリスクを、鞘を払った長剣が薙ぎ払った。真っ二つになったバジリスクはそれぞれの胴をくねらせ暴れていたが、剣を突き立てられた頭はそのまま動かなくなり、もう一方もグリフォンに蹴り飛ばされた先でしばらくしたら徐々に動きを止めた。
剣についたバジリスクの血を拭き取ることもせず、ジェレミーは放心状態でへたり込んだスフィアーネに駆け寄った。
「フィー!! 大丈夫かっ!?」
「ジェレ……ミー……」
「怪我は!? 怪我はないか?」
「だい、じょうぶ……」
「フィー、無事でよかった……」
ぎゅうっと抱きしめてくる腕に安堵した途端、逆に心が恐怖に覆いつくされて身体がガタガタと震え始めた。
腕の中で震えるスフィアーネを宥めるように降ってくる「大丈夫、もう大丈夫だ」というジェレミーの声に涙が滲む。
「とりあえずここから移動するぞ。バジリスクの血臭で他の魔獣や獣が来るかもしれない」
ジェレミーは頷くスフィアーネを抱き上げ地面に落ちて壊れた香炉に水魔法を放って火を消した後、再びイーライの背に跨ると飛翔を促すため愛騎の腹をトンと軽く蹴った。




