調律
舞桜への説明を終えた英玲奈が、跳ねるようにソファから立ち上がった。それに伴い雛子も同じ仕草で立ち上がり、幼い手と手が繋がれる。
「では、行って参ります」
「私はここで待っていればいいの?」
「ええ。寧ろ出歩かないで頂いた方が助かります」
「わかった。先輩のこと、お願いします」
舞桜はその言葉と共に立ち上がり、英玲奈と雛子に頭を下げた。
託されたふたりが、扉を開けて校舎へ出て行く。その際見えた廊下の光景は、舞桜の記憶にある文化部部室棟と何ら変わりないものだった。ただ、本来ならあるはずのない突き当たりから見る廊下であった。
舞桜の視線を背中に受けながら、幼いふたりは廊下を進む。昇降口から外に出ると、弓道部道場のほうからがなり立てる声が聞こえてきた。
「ああ、もう始まっていましたか。急ぎましょう」
『うん!』
英玲奈と雛子はそれぞれ翼を広げて跳び上がると、校舎や校庭を迂回せず真っ直ぐに道場へ向かった。
「神薙! どこだ!! どこに隠れやがったァ!!」
矢道の真ん中に立ち、大声で喚き散らしているのは西園だ。部員はおらず、弓道場にいるのは彼をこの場に縫い止めている夜刀と小太朗、それから万一のときに強制浄化を行うために待機している桜司だけである。
夜刀は馬のように大きな犬の姿を取っており、低く頭を下げて唸り声を上げている。小太朗もその対角線上に位置取り、子犬なりに威嚇の声を上げている。
桐斗ほど領域保持が得意でない彼らは、ふたりで対象を挟み込むことで漸くその場に縫い止めることが出来る。
ふたりが降り立つと、唸り声を上げていた夜刀と小太朗が高く遠吠えをした。
「お待たせしました。雛子さん、お願いします」
『わかった!』
雛子は領域のすぐ傍に立つと小さく息を吸い込み、歌声を奏で始めた。
「ぐ……ァ……! な、んだ……!?」
途端、西園が頭を抑えて唸ったかと思うと、目を見開いて辺りを見回した。
彼のギラつく眼差しは頼りなく彷徨い、なにを捕らえることもなくふらついている。この場にいる二体の犬も、英玲奈も、雛子も、桜司も。一切彼の目には映っていない。
先ほども、西園は「どこに隠れた」と叫んでいた。そのときの目線も辺りを彷徨っており、夜刀たちのことは視界にも入っていない様子であった。
『まあまあ、いいじゃないッスか。オレらと違って生きて其処から出られるんスから。ちょっとの辛抱ッスよ』
「おい、犬っころ」
『うっす』
夜刀が冗談めかして言うのを、桜司が渋い顔で窘める。
夜刀たちの領域は、犬神の世界。犬神が生み出された一切の光すらない暗闇こそが、彼らの作り出す縄張りなのだ。
外から見れば何の変哲もない空間でも、中に囚われた者にとっては闇の世界。西園はいま、応える者も問いかける者もいない、出口のない闇の奥底に囚われている。
「や……め、っ……あぁ……!」
雛子の歌が響く。
道を違えた人間を正しい道へと誘う、優しい送り雀の歌声が。
やがて西園の双眸から涙が零れ、呻き声を漏らすと共に、膝から崩れ落ちた。両手で頭を抱えて、その場に蹲る。
「やめろ……やめてくれ……俺はもう、あんなことは……」
狂気が張り付いていた表情はいつしか元の彼を思わせるものへと変わっていき、呟く言葉の中に謝罪と後悔が交じり始める。ガクガクと震えながら何度も「俺のせいで」と繰り返したかと思うと、ぷつりと糸が切れたように意識を失った。
「お疲れさまです、雛子さん」
英玲奈が声をかけると、トランス状態だった雛子の目に、ふっと色が戻った。
『おわったー!』
うれしそうに声をあげながら、雛子が英玲奈に飛びつく。小さい体を抱き留めて頭を撫でてやると、擽ったそうな笑い声が漏れた。
『おてつだい、できた?』
「ええ、十分です」
上機嫌で子猫のようにすり寄る雛子を撫で、英玲奈は視線を西園へ向ける。
西園に取り憑いていた音の悪夢は全て祓った。あとは彼自身が何処まで以前の自分を取り戻せるかに掛かっている。結局のところ、つけ込まれるに至った原因である精神の脆さを克服しないことには、また同じことが繰り返される可能性もあるのだから。
「……さて。では、この場を部員共に返すとするか。戻るぞ」
「はい」
苦悶の表情で倒れ伏している西園をその場に残し、桜司たちは弓道場を去った。
―――雛子たちが調律している、その一方。
千鶴を伊織の家に残してきた桐斗は、伊月と共に西園の自宅を訪ねていた。縄張りを作ることは出来ても、他人の領域に踏み込むことが苦手な桐斗は、伊月に手を引かれて家の敷居を跨ぎ越す。妖は家人に招かれなければ家に入れない。但し、土地に根差した神にとっては、他人の家も公園も公道も等しく自身の領域なのだ。
家に上がり込むと伊月は迷いなく西園弓弦の自室を目指して突き進み、躊躇なく扉を開けた。途中、台所のほうから調理をする音が聞こえてきたが、お構いなしだ。そして家人もまた、伊月たちの存在に気付くことなく日常を送っていた。
「……あれか」
枕元に置かれた小さな箱を見据え、呟く。
一見するとただの箱だが、中身は呪詛に塗れた絡繰である。蓋を開くと赤黒い文字がびっしりと書かれていて、そのどれもが負の感情を表わす語ばかりだ。
「怨嗟、嫉妬、侮蔑、屈辱、悲嘆、死……こんなのが奏でる音なんか聞いて寝たら頭がおかしくなるに決まってるじゃん……こっわ」
横から覗き込んだ桐斗が、顔を歪めてオルゴールを睨む。
妖である桐斗や、神族である伊月にはこれほどはっきりと見えている悍ましい文字の数々も、人間の目には映らない。だからこそ西園はただの気休めとして購入し、毎夜の如く聞き続けたのだ。
常であればこの場で浄化するところだが、伊月はオルゴールを閉じるとそのまま踵を返した。
「出るぞ」
「はーい」
オルゴールを手に、西園宅を出る。と、敷居を跨いだ瞬間、目の前が揺らいで陽炎の如く人影が現れた。
散切りの髪に、黒と骨灰色の瞳。片目に刻まれた虚の文字とニヤニヤ笑いを浮かべる口元から除く尖った歯は、一度目にすれば忘れられない強烈な印象を見る者に与える。
「虚屋」
「然様でございます。商品回収に参りました」
ニタニタと嫌な笑みを張り付けた男が、伊月を見据えて言う。伊月に虚屋と呼ばれたこの男は、西園に件のオルゴールを売ったアンティークショップの店主だ。当然常世の住人であり、嘘屋と同様、求める人間の前に姿を現す類の怪異である。
伊月は、手にしていたオルゴールを虚屋に放り渡すと、用は済んだとばかりに桐斗の手を引いた。
「お待ちくださいよ、龍神様。一週間以内のご返品ですから、此方をお返ししなければなりません」
虚屋が差し出したのは、ありふれた日本銀行券の千円札が一枚と、五百円玉が一枚。恐らく、西園が虚屋に支払った代金だろう。しかしそれにもまた、オルゴールの内部にびっしりと書かれていた赤黒い呪詛の文字が張り付いている。
西園本人がオルゴールを返しに行けば、今度はオルゴールの音色を介さず、その場で呪詛を受ける仕組みである。
「無為な真似を」
伊月が受け取った瞬間、じゅっという水が蒸発するときのような音を立てて、呪詛が綺麗に消え失せた。
「いやあ、さすがは浄化の水龍様ですねえ。お美事お美事。では、吾はこれで……」
虚屋は手品を見せられた子供のように手を叩き、伊月を空々しく褒めたかと思うと、深く一礼して姿を消した。
「……僕、虚屋のことよく知らないんだけどさ、あれって何なの?」
虚屋が消えた先を訝しげに眺めながら、桐斗が訊ねる。
伊月は出てきたばかりのところを引き返してオルゴールがあったところに千五百円を置き、ぽつりと。
「虚無の形」
今度こそ家を出て、人の子のように道を行きながら、伊月は語る。
「あれは、名の通りの虚だ。実のないもの。虚名、虚栄、虚飾……栄光や名誉を求める者の前に現れ、虚を与える。願いを叶えると嘯き、その実叶えられるのは歪んだ形だ」
「なんか、それって……」
堕ちたカミサマポストが、似たような怪異になっていたことを桐斗は思い出した。
古今東西、願いを叶える存在はいくらでも在る。名を変え姿を変え、おまじない等の形を得て、或いは土地に根差した都市伝説として。しかしその大半は人にとって都合の良いものではない。ただ願うだけで叶うなどということはなく、場合によっては願いの内容に見合わぬ重い代償を払わされる羽目になることもある。
黄昏郵便も、形式としては同様の存在だ。人が願うところに現れ、それを叶える。
但し此方は怪異に見舞われた者が救いを求めた場合にのみという、狭い条件がある。きれいになりたい、有名になりたいなどといった我欲には反応しないため、都市伝説として町に蔓延しても、実際人間の目の前に現れることは稀である。
「良かれ悪しかれ、この街には怪異が集まる。町長からして鬼族だからな……」
何処か遠い目をして伊月が言うと、桐斗も「ああ……」と溜息交じりに同意した。
「てゆーかさ、いつのまに入れ替わってたんだろ? 僕、全然気付かなかった」
「恐らくだが、町になって数年経った頃だろうな。その頃から町が良くなりだした気がする」
「前の町長さんも悪いひとじゃなかったよね?」
「まあ……だが、人間が整えられるのは人間のための町だけだからな」
「あ、そっか」
前の人はご愁傷様だね、と桐斗は心にもなく呟く。
この街の町長は、元々人間だった。鬼灯町が出来て暫く経った頃、花屋街から要請を受けて百鬼が人界入りし、町長の首を喰らった。そして花屋街は百鬼の体を人質として預かり、百鬼の首と町長の体を縫い付けた。そうして生まれたのがいまの町長である。
ゆえに、いまの百鬼は本調子ではなく、人里で昔話にあるような大暴れは出来ない。龍神様の件が起きたとき、犬神の毒気に当てられた女子生徒らを蹴り飛ばしても、腹に穴が開いたり首が吹き飛んだりしなかったのは、そのためだ。
「あっちはもう終わったかなー」
のんびり歩きながら桐斗が言うと、伊月はじっと鬼灯高校のほうを見つめた。
「……済んだようだ」
「じゃ、千鶴つれて帰ろ」
桐斗の言葉に頷き、ふたりは珍しく境界を越えずに、徒歩で迎えにいった。




