st.Ⅸ Their Plan
「全く、隠し撮りなんて最低!」
洗面所の鏡に向かいながら、私は濡れた髪を拭いていた。
この間、王から取り上げた写真の山を思い出して、怒りが再び込みあがってくる。
もうしないって約束してくれたとはいえ、あの件以来どこにいても落ち着かなかった。どこかであの人が覗き見てるんじゃないかって。
ちょっとしたホラーだわ。
バスルームを出てタオルを食事用テーブルのイスにひっかけると、嫌なことは寝て忘れようと掛け布団をめくった。
「は……っ!」
大声を上げそうになって慌てて口を塞ぐ。そこには私より先に横になっている人がいた。
いつもの黒曜石のような瞳は閉じられ、白い枕に小さな墨の川を描いてすやすやと寝息を立てているその人。
「陛下……っ」
びっくりした。まだ心臓がバクバクいってる。
何してるの、こんなところで。まさかまたイヤらしい写真を撮りに……?
とりあえず起こそうと手を伸ばした。
「……ソフィ、ア」
楽しい夢でも見ているのか、幸せそうに微笑んでつぶやかれたのが私の名前でドキリとする。布団をめくられても起きる気配がないから、よっぽど熟睡しているんだろう。
このまま寝かせてあげようと思った。きっとすごく疲れてるんだわ。
寝巻きじゃないから苦しくないかしらとも思ったけれど、上着と靴はきちんと脱いであるし。
そっと布団をかけて、慎重に目にかかっていた髪を払った。
こうしてみると、なんてキレイな顔立ちをしているんだろうとつくづく思う。薄く開いた唇から牙さえ見えていなければ、まるで天使や精霊のよう。
ヴァンパイアのくせにこんなに寝入るなんてと思いつつ、それだけ心を許してくれているのかとくすぐったくもあった。
――『良かった、無事で。もし君にまた何かあったら、私はこのさき生きては行けん』
――『この腕より、足より、眼より、命より……君のことが大切だ、ソフィア』
――『たとえ灰になろうと、それで君が救われるのなら』
人形のように眠るこの人と、過去にもらった言葉が重なり合う。
私を何よりも深く愛してくれている人。
「おやすみなさい」
ごく自然な動作で頬にキスを落とした自分に、私自身が驚いた。
心を許してしまったのは、きっと私も同じ。
カウチに寝そべって、薄いブランケットを体にかけた。少し熱のこもった息を吐いて。
*****
やっぱりカウチは少し寝づらかったみたい。いつもはミントさんが起こしに来るまで寝ているけれど(朝日が昇らないから起きづらい)、今日は勝手に目が覚めた。時計を確認すると七時十五分前。
彼女はいつも七時丁度に起こしてくれるから、もう起きていようと体をおこした。
肘かけと高さが合わなかったらしく、少し首が痛い。
ベッドに目をやると、陛下はまだぐっすり眠っているらしい。よっぽど働きづめなのかもしれないけれど、多分もうそろそろ起きなければならない時間だと思う。
バスルームでネグリジェから普段着のドレスに着替えて、そっとベッドに近づいた。
寝ているようにみえるのはフリで、いきなり腕を引っ張られたらどうしようと思いつつも、寝息は規則正しく聞こえてくる。
顔をチラッと覗くとドキッとするくらいキレイでそれでいてちょっと可愛い。口も無防備に開いているし。
慎重にベッドの端に膝をのせて、ゆっくりと体をゆすった。これが意外と重くて力がいる。
「陛下……陛下」
整った眉が安眠の妨害を嫌がるようにくにゃりと曲がる。
「陛下、朝です。陛下?」
「ん……ああ……分かった」
掠れた声でそうつぶやくと、不機嫌そうに枕に顔を埋めた。
「何時だ」
「もうすぐ七時に」
しばらく何も言わないからまた眠ったのかと思ったけれど、いきなり腕を引っ張られて唇を押し付けられた。
「――ッ!」
でもいつもと様子が違う。
愛のこもっていない、ただ唇同士を合わせただけの冷たいキス。
私の顔も見ずにベッドの反対側へ行くと、サイドテーブルに乗っていた上着を無言で着始めた。
何だろう。何か怒ってる?
写真を取り上げたから?
そんな。あれはどう考えたって王が悪いじゃない。
「陛下?」
「悪いが朝食は一人で取ってくれ。時間が無い。いつも言ってるだろう」
何その突き放したような言い方……。それに“いつも”って?
拒絶するように向けられる背中に、なぜか少し悲しくなった。
「私は別に、一緒に食べようなんて言ってませんが」とふて腐れてみる。
「そうか一緒……っ」
言葉を途中で切ったかと思うと、靴を履こうとしていた手を止めてバッと勢いよくこちらを振り返った。
今日初めて私をちゃんと見た。熱っぽいその双眸は私を映しながら驚きに見開かれている。
「ソ……フィア。あ、いや、あれ……?」
王は急にそわそわと髪をかき上げ始め、状況がよく分からないかのように周囲を見渡し始めた。
「どうされたんですか」
「わ、私は昨晩……君と?」
そんなわけがない。
「……まさか。陛下がそこで休まれていたので、私はカウチで眠りました」
なぜかそれに少しがっかりしていた。
「そうか、すまなかった。ところで私がさっきキスしたのは、君……か?」
変なことを言うなと思った。他に誰がいるのかしら。
「もしかしてどなたかと部屋をお間違えになったんですか? だったら私で申し訳ありませんでした」
「ち、違う! 朝起きて君がいたから驚いて……。そうか君だったのか」
王は急にはにかんだように笑うと、キラキラした光を瞳に湛えてベッドに乗ってこちらへ向かってきた。
「な、何ですか」
逃げるようにベッドから下りて後ずさると、王に追いかけられて抱き寄せられた。彼は無理矢理私の頬を両手で包むと、瞳を閉じて顔を近づけてくる。
「あの、陛下……!」
胸を押して抵抗した。王はすねたように眉をひそめる。
「何だ……」
「何か怒ってたんじゃないんですか?」
あんなにそっけない態度を取ってたくせに、この変わり身の早さは何? それに王はやけに目を泳がせた。
「い、いやアレは……そう、寝起きが少し悪くてな。冷たくしてすまなった。だからキスもやり直そう」
もはや当然のように迫ってくる。
まだ友達以上になった覚えはないのに。
「やり直さなくて結構です」と胸を押し返すけれどびくともしない。
「照れなくていい」嬉しそうにニコニコと笑う。
「照れて、ちょ……っんん」
さっきとは段違いに優しくて温かなキスが降り注いだ。ふわふわと包み込むように唇を挟み込まれる。私を離すまいとする腕の力はすごく強いのに、とても穏やかな口づけだった。
一度も離すことなく何度も角度を変えて合わさる。高い鼻の先が当たってつぶれるほどにしっかりと押しつけられていた。
柔らかでしびれるような感覚に翻弄されそうになる。心の奥がむずむずとして、頭がおかしくなりそう。力が抜けていく。
「ふ……っ、んん」
いつの間にか彼の胸を押すことを忘れてキスにばかり気を取られていた。それどころか自分からも首を伸ばして彼の唇に自分のものを押しつけている。それが恥ずかしくてしかたないのに、なぜかやめることができなかった。
鼻にかかったような吐息が混ざり合う。
やっぱりだめ、と急に意識がはっきりして強く王の胸を押した。
突然キスが終わったことが不満だったのか、不足分を補うかのように何も言わずまた近づいてくる。
「陛下……っ」
顔を背けて拒絶を示すと、まだ諦めきれないかのように熱っぽい目でこちらの隙を窺っていた。
「ダメです」
それでも近づこうとしたり離れたりと繰り返しながら、やっと諦めがついたのか「分かった。バスルームを借りる」と頬に軽くキスをして私を解放した。
王が扉の向こうに消えると、腰が抜けたように壁にもたれかかった。ドキドキと早鐘のように打つ鼓動と、沸騰したように熱い血流に本当に頭がおかしくなったのかと思った。妙に息苦しい。もうすぐ朝食が運ばれてくるというのに、胸がつまったように何も喉を通る気がしない。
ダメ。普通にしてなきゃ。変だって思われたくない。
そっとまだ熱を帯びている唇に手をやった。
私は一体どうしてしまったんだろうと戸惑いながら。
*****
テーブルにパンや分厚いベーコン、それにおいしそうなフルーツが並ぶ頃、陛下がバスルームから出てきた。どうやらシャワーを浴びていたらしく、髪が濡れていた。ふんわりと漂ってくる石鹸の香りが私と同じで、少し不思議な感じがする。
鼻歌なんて歌いながら扉を開けたけれど、ミントさんの姿をみとめると急に咳払いをして向かい側の椅子に腰掛けた。
そんな王に昨晩からの疑問を投げかける。
「陛下、何か用事が? どうして昨日はここで休んでおられたのです」
「まあ君とイヤらしい……」
「え?」
「い、いや、ではなく!」
今何を言いかけたの? と疑いの眼差しを向けると、王は慌てたように前髪を何度も払った。ミントさんの方を向くと、
「二人にしてくれ」
「へえ?」
パンをお皿に置いてくれていた彼女が気の抜けた声を出す。それはそうだろう、給仕中に出て行けなど言われたことがなかっただろうから。
「ほら、早く」
王に急かされ、ミントさんは訝しげな顔をしながらトングとバスケットをカートへ置いて壁をすり抜けていった。
私が“なぜ彼女を追い出したんですか”と聞く前に、王はテーブルに乗っていた私の手に自分の大きな手を重ねた。トクンと胸が小さく鳴る。
「あー、その、今日から招待されている国へ訪問することになっていてな」
「そうですか、いってらっしゃいませ」
「そう笑顔で言われると辛いんだが……」
王はしょぼんと力なく俯きながら、
「三泊四日ほどここを空けることになる」
王の話に耳を傾けながら、何を言わんとしているのか探ろうと彼をジッと見つめる。
「い、一緒に来ないか?」と緊張気味にきいてくる。
「一緒に、ですか?」
どうしてわざわざ? と小首を傾げると、「他の国も面白いぞ、こことはまた雰囲気が違う! 当然VIP待遇だしな。美味いものも口にできるし、見世物だって……」と早口でまくしたてた。身振り手振りまでつけて懸命に。
「いえ、私は結構です」
王と他国を公式訪問だなんて、何だか結婚するという事実上の公言になってしまいそうで怖い。
心の整理をゆっくりつけたいのに、そんなに急かさないでほしかった。ここへ来てから色々なことが一気に起こりすぎだわ。
でも王はあきらめ切れないのか、私の手をギュッと握って身を乗り出すように話を続ける。その目は真剣そのものだった。
「もしかしたら向こうの姫に言い寄られるかもしれん。いや、それどころか寝室に押しかけられたり抱きつかれたりとか。私には君という女性がいるから当然断るが、強引にという可能性もなきにしもあらずだ。そうなってもいいのか?」
“いいのか?”って。
そういうのってもっと余裕ぶった感じで言ったほうが効果的だと思うんだけど、そんな必死な顔で言われてもあんまり説得力が……。
ウンと言わない私に、王はまた次なる一手を考えるように口もをへ手をやる。
「そ、そういえばあの国の絵画は相当に美しいらしい。一緒に見に行こう、な?」
ちょっと食指が動いた。ああ、でもやっぱりダメ。
「頑張ってきてください」
「丸二日も会えないんだぞ?」とため息を心の内を吐露する。
そう、表情から察するに多分これが本音。
「たった二日です」
何を言われようとついていく気はない。
王もそんな私の決意を読み取ったのか、ムスッとしたように軽く口をとがらせた。ジト目で私を見ると、
「私がいない間、一切の男の出入りを禁止する」と宣言した。
「出入りを……ってどういうことですか?」
「私が戻ってくるまで誰であろうと男とは絶対に口を利くな。レオもダメだからな!」
また子供みたいなことを言い出して。
そんなに私って信用――
と思ったけれど、よくよく考えてみれば私は二度も王の許可無くお城を抜け出した上に一度は他の男性と結婚式を挙げそうになり、一度は変な人たちにどこかへ売り飛ばされそうになった。お巡りさんやらヘルハウンドにも追いかけられたし。
もし私が王の立場なら、確かに危なっかしい人間と思うかもしれない。
“城を出るな”ではなく“男性と話すな”と言っているのが、ちょっと引っかかるけれど。
「分かったな。もし約束を破ったら……」
王の周りをヒンヤリとした空気が覆う。
「数ヶ月後、君はその腕に私の子を抱いているだろう」と口元を不気味に歪ませた。
何それ! 怖い!
王は「はい……」と答える私に満足したのか、コーヒーを一気に飲み干すと「そろそろ」と言って立ち上がった。それ以外何も口にしていないのに、何だかすごくせわしない。
忙しくて朝食云々は、あながち嘘や誇張ではなかったらしい。こうやって時間を作ったのは、私を誘うために少し無理をしたんだろう。結局断ってしまったけれど。
扉に向かった王を見送るために後ろを歩く。
その途中も「本当に行かないのか? 楽しいぞ?」と未練がましく振り返る。
「今回は遠慮します」
「そうか……行ってくる」
心からがっかりしたらしい王を、何だか少し可哀想に思った。
忙しいながらも、できるだけ私と居たいと思ってくれているのは伝わる。
「陛下」
袖を引っ張ると、秘密の話をするように小さく手招きした。
「どうした」と屈む彼の白磁器のような頬に軽く口づける。
「いってらっしゃい、陛下」
自分のしたことに羞恥を覚えて、俯き加減にそう言った。王は拳をとろけるように緩んだ口元へやると、星空のように輝く双眸をこちらへ向けた。
その表情は、きっと一生忘れることができないんじゃないかと思うくらいにきらめきに満ちていた。つられるようにこちらの胸も熱くなる。
少し赤い頬は、多分私も同じ。
王が部屋を出て扉を閉めた途端、私は扉に背をつけて座り込んだ。体が熱い。
そう言えば、王を起こすことばかり考えていたからあまりちゃんとお化粧できてなかったかもしれない。髪ももっとよくとかせばよかった。それにやっぱり最後のキスは余計だったかな。
私、変だった……?
病気でもないのに、胸がつまったように苦しい。
突然ガタッと音がして心臓が飛び跳ねた。
何? 何の音?
方向からして、多分ウォークインクローゼットからだわ。何か荷物が崩れたのかしら。
ひょっとして泥棒かと思ったけれど、警備の厳しいこんなところへ忍び込める盗人もいないはず。
おそるおそる近づいて扉を開くと、扉にもたれかかっていたらしい何かが足元へどさりと倒れこんだ。
「ひ、人……?」
ボロボロの汚れた服を身にまとい、そこから骨のように細い手足が垣間見える。魔法使いのような三角帽子はツギハギだらけで、長らくお風呂に入っていないらしい体から汗と何かがまざったようなツンとした匂いが漂う。
「うぅ」と唸り声が漏れる。急いでその人の下へかがみこんだ。
「あの、大丈夫ですか?」
一体どこから入ってきたんだろう。ここの召使さんか何かかしら?
「ふにゃっ?」
と顔を上げたのはシワシワの小柄なおじいさんだった。長いひげを蓄え、黄色い大きな歯が一本口の外へ出ていた。ヒビの入った小さなメガネをずらしたまま、きょろきょろと辺りを見渡す。
「あ? ここはどこじゃぁ?」
どう答えればいいんだろう。ここの地名? お城の名前? それともクローゼットということ?
「ここは……ヘルグスティンキャッスルの後宮です」
とりあえず無難にそう答えた。
おじいさんは「こぉきう?」と首をかしげたけれど、もう場所については興味がなくなったのか私の方を向いて上から下までジロリと流し見ると「君は誰じゃぁ?」と尋ねた。
「ソフィアです。ソフィア・クローズ」
「ああーソフィアたんか……かぁわいいの」カラカラと笑いながら、シワシワの指で私の頬をつつく。
「悪いが何か食わせてくれんか。腹が減って額と膝がくっつきそうじゃぁ……」
どんなお腹の減り方なんだろうと思いつつ、腹部を押さえてつらそうなおじいさんを放ってはおけない。
「ちょうど今、朝ごはんを食べていた所ですから。よろしければ一緒にどうぞ」
「あぁ~ありがとありがと」
おじいさんは何度もお礼を言う。ミントさんを呼び戻して、お皿やカトラリーは新しいのを用意してもらわなきゃ。
けれどそこでふと思った。
おじいさん……。
男性……。
もしかしてこれって、
さっそく王との約束を破ったことになる?
************
「公爵様」
レディエンス家の長、ジェフ・ハブ・レディエンスはエヴェリー王女のパーティーで会ったときと同じように髪をきっちりとなでつけ、笑顔でレオナルドを自分の応接室へ迎え入れた。
壁には巨大なドラゴンの首がかけられ、隣には絵画の中の立派なダークタイガーがギラリと両目を輝かせていた。
レオナルドは何も言わずに足を踏み入れる。ジェフの甥であるグレイドーも、彼を出迎えるように部屋の中央で胸に手を当てて僅かに頭を垂れていた。
ジェフの案内に従って部屋の奥のソファーへ腰掛ける前に、レオナルドは何か思い出したようにグレイドーのすぐ後ろで立ち止まった。
「そうだグレイ」
グレイドーが振り返ろうとしたところを、レオナルドに軽く背中から押された。
「この前彼女に手を出した罰」
グレイドーが軽く視線を落とすと、自分の胸から血塗れた刃の先が突き出ていた。そこからポタポタと赤い雫が小雨のように床へ舞い落ちる。
レオナルドが装飾美しい短剣が突き立てたまま軽く柄を回すと、グレイドーの唇の端から紅の筋が下りた。
「――っ」
甥がそんな状態にあるにもかかわらず、ジェフはまるで他人の家のグラスを割ってしまったかのような軽い調子で額に手をやった。
「ウチのバカがそんなことを? それはそれは申し訳ありませんでした、公爵様。何せ女の体が欲しくてしかたない年頃のようでして。町のごろつきどもに品を流して買い付けるのも大変なんですよ。すぐに血を飲み干してしまいますからね」
レオナルドが柄から手を離すと、グレイドーは無言で口元を拭った。
「抜かれてたよ。お前の血液検査の結果」
高級そうな革張りのソファーに腰を下ろしながらレオナルドはそう言った。グレイドーは背中に突き刺さった短剣を抜き取りながら、レオナルドを見る。
「ま、心配いらないよ。あの血液検査の術式を開発したのはオレ。ごまかし方だって完璧だ。どんな医術師に見せたって分かるはずはない。……そんなことより、そっちはどうなわけ?」
座らずソファーの傍に佇んだままのジェフが口を開いた。
「数は集まってきたものの、やはり陛下の力は強大すぎます。謀反を起こしたところであっけなく潰されるのがオチでしょう」
レオナルドはそれを鼻で笑う。
「そうかなぁ? 完璧だった兄上も、今はどうしようもない弱点があるだろう」
「ソフィア・クローズ」
「そう。彼女をエサにすれば、兄上に魔力制御の印を刻むことだってできる。魔力が無ければ兄上もただの人間と同じ。いくらでも廃案書にサインをさせられる」
「それ以上のことも」
「それ以上?」
背もたれに腕を乗せ、レオナルドはジェフを振り仰いだ。
「もしかして暗殺しろって? 怖いことを言うんだね、お前は。オレたちは仮にも血の繋がった兄弟なんだけど? 殺さなくったって国外追放とかいくらでも手段が――」
「ですが彼女は陛下に心を奪われ始めている」
「……ああ」
“何たる悲劇”という表情を貼り付けたジェフが小さく首を振った。
背もたれから腕を下ろし、レオナルドはゆっくりジェフから視線を外す。
「よく見てるじゃないかジェフ」
「あなたがどれだけ深く彼女を想おうと、どれだけ辛いときにそばで支えようと。ソフィア様は振り向かない」
それにレオナルドは自嘲気味に笑った。
「なぜあの二人を引き裂いておかなかったのです? いくらでもチャンスがあったのに」
レオナルドは小さく息を吐くと、立ち上がりながらポケットへ手を突っ込んで窓へ向かった。
「兄上はこの先どうせろくな未来が待っていない。兄上は父上の作ったブラッド法を何としてでも守ろうとしてる。それが壊されたとなれば、きっと兄上は心を共に壊すだろう。だから少しはいい思いをさせてあげようって、彼女とのことにもしばらく目を瞑ってた」
そう語るレオナルドの後ろに寄り添うかのように、ジェフは悲しそうな顔をしたままゆっくりと彼の方へ近づいていった。
「ご兄弟想いのすばらしいお考えです。しかしそれは……」
「ああ……余計なことだった」
「彼女は王を愛した」
その言葉を聞いた途端、レオナルドは目の前のガラスを割った。興奮したように息を切らし、怒りに打ち震えていた。
「オレだって気づいてる! 自分を何より深く愛してくれている兄上のことを、彼女も……!」
何かに耐えるように、割れたガラスの破片を握りしめた。血が拳を赤く濡らす。
「お気の毒に。あの誤認逮捕のときあれだけ苦労なさったのに、ひどい話だ」
「冗談じゃない。あの時あれだけ味方になってあげたのに、よりによって自分を殺そうとした相手を……!」
「なぜ陛下に」
「何でオレじゃない?」
「おっしゃる通りです。報われないなど」
「女は薄情なのか?」
「それでも彼女を愛しておられる」
「当然だ。あんなに純粋で可愛いソフィアに憎しみをぶつけるなんてできない」
「陛下さえいなければ、全て解決しますよ」
「兄上さえ……」
「そうです。陛下さえ……この世にいなければ」
右手で頭を押さえていたレオナルドが、ゆっくりと顔を上げた。決意に満ちた強い眼差しを湛え、静かに前を見すえた。
「お前の言うとおりだ、ジェフ。王の座も彼女もオレが手に入れる。ブラッド法も……オレが直に潰せばいい」
「では……」
ジェフは最後の結論を聞くべく、そう促した。
残った窓ガラスに映るレオナルドの瞳が薄く細められる。
「兄上はこの国のためにずっと頑張って働いてきた。もう休ませてやろう、永遠に」
レオナルドの言葉に応えるように、ジェフはニタリと笑った。
「彼女を傷つけることなく、気づかれることもなく。兄上を――」
レオナルドも狂気じみた笑みを浮かべ、ジェフを見やる。
「殺せ」
その瞳には迷いもためらいも情もなかった。
「仰せのままに」
ジェフとグレイドーは胸に手を当て、レオナルドに頭を下げた。




