第95話「この世界は楽しみに満ちて」
【第95話】
* * *
【戦化粧】
「お久しぶりです、リコシェ殿。あ、どうぞお座りください。散らかっていますけど」
シャル・レーン少尉はリコシェに椅子を勧めた。
アルツァー准将の秘書官を務めているリコシェは、穏やかに微笑む。
「お変わりありませんね、レーン様。いえ、ますますお美しくなられましたね。アイラインを描くのがお上手になられています」
「美しくなる必要はないのですが、自分でも化粧が上達しているのを感じます。これもリコシェ殿の御鞭撻あればこそですよ」
するとリコシェは困ったように笑う。
「殿方に化粧をお教えすることになるとは思いませんでしたが、戦化粧となればお引き受けするしかありませんでしたからね。今どき珍しいと母が申しておりました」
リコシェは前リトレイユ公ミンシアナの影武者になる前は、一族で髪結いをしていた。化粧はお手の物だ。
シャルは照れくさそうに頭を掻く。
「父が農業で多忙なものですから、騎士としての心構えは祖母や母から教わりましたからね。戦化粧は御婦人の化粧とは違うはずですが、誰もやり方がよくわからなくて……」
「もうすっかり廃れた習慣だと聞いております。私も母に聞いて知ったぐらいですから」
するとシャルは嬉しそうに微笑む。
「戦死したときに顔が土気色では、検分をする敵将に対して失礼というものです。当家は国境付近で常にアガンの騎士たちと戦ってきた一門ですから、平時も戦化粧は欠かせません」
当時、影武者をしていたリコシェは、第五師団に変な貴族将校がいるという噂を聞きつけていた。男なのに女みたいな化粧をしているという。
だが会ってみて、この美貌の少尉が骨の髄まで戦人であることを確信した。
すぐさまリコシェは彼をミンシアナに推挙しようと思った。
ミンシアナは父性的なもの全てを憎悪していたので、心の中では軍人たちを嫌悪している。その点、見た目が美麗なシャルは適任だった。中身はしっかりした正統派の軍人だが、見た目は女性的だし性格も温厚だ。
だがリコシェが推挙の打診をしたところ、シャルはその申し出をきっぱりと断った。
権力闘争や陰謀に手を染めることを嫌うシャルは、ミンシアナの側近となって昇進することを潔しとしなかった。
リコシェはそんなシャルにますます敬意を抱き、個人的に親しくなっていった。やがてシャルはリトレイユ公の手先ではなく、影武者リコシェの理解者となった。
シャルに限らず、リコシェ本人と親しくなった者は意外と多い。彼らはミンシアナではなくリコシェの盟友だった。
その後ミンシアナが処刑されると、第五師団内部ではミンシアナ派将校は粛正の対象となる。シャルはミンシアナ派から距離を置いていたため、除隊や左遷の憂き目に遭わずに済んだ。
リコシェは深々と頭を下げる。
「また無事にお会いできましたが、私のせいでレーン様にも累が及ぶところでした。申し訳ありません」
「いえ、おかげでリコシェ殿と親しくなれましたから。こうしてお役に立てているのが嬉しいんですよ」
全く嫌味を感じさせない、爽やかな笑み。育ちの良さを感じさせる。顔立ちが整っているからなおさらだ。
だが次の瞬間、その表情がスッと引き締まる。
「一緒に着任したフォルトン少尉は密命を帯びているようです」
「やはりそうですか。今の大旦那様には、付き従う者たちがほとんどおりません。使える人材も限られてきます」
リコシェはリトレイユ公ミンシアナの代理人として様々な陰謀に関与した経験から、派遣されるフォルトン少尉を怪しいと睨んでいた。
能力はあるが経歴に傷がある彼のようなタイプは、権力者の走狗にされやすい。
ちょうどシャルも同時期に派遣が内定していたため、それとなく監視を頼んでおいた。
シャルは紅茶を一口飲み、ふと心配そうな表情をする。
「クロムベルツ少佐は心を許しているようですが、用心なさった方が良いかもしれません。おそらくフォルトン少尉は皆が思っているよりも有能な方です。僕のような若輩では太刀打ちできませんよ」
リコシェはうなずく。
「ありがとうございます。そのように伝えておきますね。ですが、たぶん心配はいりませんよ」
「なぜですか?」
不思議そうな顔のシャルに、リコシェは笑いかける。
「ミンシアナ様との謀略戦に勝利したクロムベルツ様が、ミンシアナ様に敗れた大旦那様に負けるとは思えませんから」
「確かに」
* * *
「どうも引っかかるんだよな、あの二人……」
俺が首をひねっていると、アルツァー准将が俺の頭をコツンとこづいた。
「なんだ、私の参謀ともあろう者が、その程度も見抜けないのか」
今なんか、「私の」のところだけ強調しませんでしたか? 太字のゴシック体みたいな強調の仕方だったぞ。
アルツァー准将は愛馬の背中を撫でながら、こう言う。
「レーン少尉はリコシェ秘書官の知人だ。心配はいらない」
「そうだったんですか」
だったら早く教えてくれよ。
「リコシェ秘書官は影武者時代に自分自身の人脈を築いていたからな。ミンシアナはそれを自分の人脈だと勘違いしていたようだが」
生きていたときは憎らしかったが、死んだ今となってはつくづく哀れな人だったと思う。持っていた力は全部借り物で、彼女自身には何もなかった。
「もっともリコシェとしては、久しぶりに会うレーン少尉が誰かの手先になっていないか心配だったようだ。それとなく探ってくれたが、大丈夫そうだと話していた。で、お前に教えた訳だ」
「事情はわかりましたが、情報共有はもっと早い方がいいですね」
「すまないな、私もここのところ多忙で」
アルツァー准将は軽やかなジャンプで軍馬にまたがり……またがれないので、お尻を押して座らせる。
准将は俺を振り向いてキッと表情を鋭くしたが、俺は知らん顔をしておいた。俺が手伝わない限り、永遠にぴょんぴょんしてないといけない。
准将は顔を赤らめて、コホンと咳払いをする。
「そのレーン少尉からの報告だが、フォルトン少尉はリトレイユ公の密命を帯びているらしい。適当な理由をつけて原隊に送り返した方がいいかもしれないな」
だが俺は首を横に振った。
「彼が経験豊富な前線指揮官であることは事実ですし、今は将校が一人でも欲しい有様です。有能なら裏切り者でも構いません」
「おいおい」
准将は呆れ顔だが俺は本気だ。
「中隊や小隊の指揮官は部隊の壊滅がそのまま死に直結します。さすがにフォルトン少尉も交戦中に裏切ったりはしません。彼に密命を与えたのはブルージュ公ではなくリトレイユ公ですからね。敵方に内通はできませんよ」
准将は真顔になって考え込む。
「一理あるな。お前が監督するなら問題ないか」
「まあ……何とかします」
中間管理職みたいになってきた。参謀と大隊長を兼務って過酷すぎないか。労働基準監督署に訴えてやりたい。
「なんだ、不満そうだな」
「言っておきますが、准将閣下のためだからここまでやるんですよ?」
「わかっている」
准将はそう言うと、俺をちょいちょいと手招きした。
「なんです?」
渋々近づくと、准将は悪戯っ子のような笑みでこう言う。
「ありがとう、ユイナー。お前がいてくれるから私は何も心配していないぞ。お前と共に果てられるのなら、戦場でも刑場でも楽しかろう」
「本気で言ってるんですか?」
「うむ」
准将は当然のような顔をしてうなずく。この人、ときどき怖い。武闘派の貴族は覚悟が決まりすぎている。
だがそんな准将に覚悟と敬意を示すために、俺も当然のような顔をした。
「俺もそうです」
「あははっ」
まるで子供のように無邪気に笑うと、准将は馬上で背筋を伸ばす。
「ではこの広い世界には楽しみが満ちているという訳だ。良かったな、ユイナー。今世は幸運に恵まれているぞ」
「そう言えなくもありませんが」
准将は笑いながら俺に手を振る。
「私は将兵を激励してくる。ついてくるか?」
「ついてこなかったら拗ねるでしょう?」
俺は自分の軍馬にまたがると、この可愛い上司を急いで追いかけることにした。




